あらすじ
読書猿氏推薦! 忙しさや生産性、新しさという強い刺激に駆り立てられる現代において、自分の生きる時間を取り戻すための方法論として素朴な多読ではなく、本書では「再読」を提唱する。読書するうえで直面する「わからなさという困難」を洗練させ、既知と未知のネットワークを創造的に発展させる知的技術としての「再読」へと導く。「自分ならではの時間」を生きる読書論。
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Posted by ブクログ
学び直しが学び足しと学びほぐしの役割を持つように、読書も読み足しと読みほぐしがあることに気づかされた。
至らなさを感じた時につい継ぎ足すことだけで取り組みがちだが、これまでを振り返るということからも得られる気づきは確かに少なくない。
そして、その本の持つネットワーク性。文脈や味わいという印象を持った。面白いものをなぜ面白いと思うのか、つまらないものをなぜつまらないと思うのか、それはつまり自分と向き合うこと。
今の自分の芯を喰った一冊となった。
Posted by ブクログ
読書という行為には、複数の異なる種類のネットワークが関わっていると本書は指摘する。
まず、書物間が互いに参照しあってできるネットワーク。さらに、書物の中の言葉同士が参照して作るネットワーク。そして、書物を読む人の頭の中にある情報からなるネットワークである。
再読とは、過去に読んだ時のネットワークから、新たなネットワークに組み替えられることだ。そのネットワークのずれは「読み手が生きた時間」であると本書は語る。
正解を求めるわけではなく、誰かに評価されるためでもなく、自分自身と向き合うためにする。それが、著者が提案する創造的な読書術である。
「再読」という一見単純なテーマで、ここまで深く語れるのかと驚いた。著書の中で紹介されている本も読んでみたいものが多く、読書に対する意識が変わる一冊。
Posted by ブクログ
一言要約:読書とは全てが「再読」で、自分の分解と再構成の終わりなき営みである
読書とは想像⇄創造を回す動力で、再読はこれをスパイラルさせることだろう。
読書という行い自体が静的にも動的にも働くが、これ自体が他者の成果物に触れるという受動的な面がある一方で、動画などと違って自らが文字を目で追いページをめくらないと進まない能動的な行いである為だと振り返る。さらに古典で言えば、古より普遍な「静的な知」に触れる価値と、古典に集い形成される4次元の事物によるネットワークに触れる「動的な知」の価値があると理解する。後者は、どの古典(点)に、どんな知を携えた人(線)が、どこ(面)で、いつ(時間)、触れてそれがどう変化していくかという無限の組み合わせや可能性を認識する。古典に触れるとは、まさしく無限の可能性に接続していることなのだろう
さすれば、古典とは常に答えではなく問いを与えてくるものであり、かつ広義の「再読」(本側に立てば様々な人に読まれる)の度に情報のシナプスとそれらを繋げるネットワークの形成や組み替えがなされる、これはシュンペーターのいう「新結合」つまりイノベーションであり、まさに「創造的な活動」だろう。著者が何故この活動を「孤独」と表現するかは、一見すると結合を作る活動は「集団形成」など孤独とは対極にある概念に見えるも、読書を進めるごとにネットワークの独自性、独創性が増し、著者のいう「テラフォーミング」が進む、つまりある種の孤独へのひた走りとも確かに言えそうである。それは、本から与えられるものが常に「答えではなく問い」であり、単一の答えを共有する間柄にはこの孤独はないが、問いの共有においては、自分での思考が必要な面で、やはりある種の孤独が生じるのだろうと考察する。
おわりにを読むにあたって今一度頭から「再読」したが、二重の意味の「再読」があることで、「本」はネットワーク形成の「点と辺」を提供してくれると考察する。
本は言葉(知識)の集合体(ネットワーク)だが、人もまた同じである。つまり、読書をすることは知識の集合体である自分と本を一度分解しあって再構築する営みで、それは創造的とも、新生とも言えると理解した。かつ、松岡正剛の編集工学視点でも、この再構築にはエラー(情報の読み違い)は不可避で、これもまた新創造のトリガーになるのだろう(あらゆる発明はミス、エラーがトリガーにもなっている:ノーベル賞を探れば枚挙にいとまなし)
前著「積読が最強の読書」でも、完全な読書は読書をする時点で存在しない言及からも、ここの「開き直り」は重要で、だからこそ「再読だけが創造的」との主張に昇華されたのだろう。序盤は話が発散、中盤もバラバラさはあったが、読者それぞれに本質理解のインターフェースを用意しているとの見方をすれば、能動的読書および再読の実践書であったと振り返る。読者の能動的読書力が試される「試練の書」かもしれない。
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読むことが好きだからこそ読みたいという気持ちを大切に自然体で読書を楽しみたいと思った。読みたくなければ読まないし軽い気持ちで接する。所詮紙の上に垂らされたインク。白い四角い箱。苦しさや焦燥感で好きなことが嫌いにならないようにしたい。
Posted by ブクログ
“読書”に対する内容の書籍は数多あれど、そうした内容の本からは少し離れたような感じもする内容だった。
ネタバレになるのだが、中盤にある『読書や再読を繰り返すうちに、自分の読み取れる内容が変化することにも繰り返し気付かされるようになります。読書に慣れ、再読に慣れるとは、書かれていることが変わっていないのに、読む度に読み取れる内容が変化することを知るということでもあるのです』という文章がすべてだと思う。
例えば書籍一つとってもそれを好む好まざる関係なしに、それを自らが再び手に取って読んだ時に成長しているか否か、はたまた違う感情が生まれるか。
同じ時はない人生で繰り返しのような生活の中でそうしたことに出会う物事って結局はそこに行き着くんだと感じた。
それが再読という本を絡めた文章で説明されている。
Posted by ブクログ
読書猿さんの帯文を見て気になり、購入した。
一度目の読書は、受動的なものだが、再読は能動的、創造的なものになる。読書の創造性とは、今まで自分が作り上げてきた言葉のネットワークを、様々に組み替えて思索、創作することだ。
著者は再読をテラフォーミングに例えている。上にも書いたがこれも「読み落としや読み間違いを認識して、読者がじぶんのなかの既存のネットワークを組み換えること」だ。
また、カルヴィーノやナボコフなどを例に挙げ、どう再読するか?を紹介している。
著者の主張とは少しズレるかもしれないが、人生をかけて何度も読み返す本に出会いたいと思った。
Posted by ブクログ
・前作に続けて読みました
・表紙がなかなかにくい演出で、タイトルと表紙でさっそく再読させてくる演出にまず痺れました
・どこで読むのをやめても構いません。好きなときに好きなときにやめられるのが読書の本質
・マッチングアプリと同じように、自分にとっていい本と出会うため、より多くの本を読み捨てることは必要なこと
・再読とは、本と本、言葉と言葉のネットワークを再構築すること、テラフォーミング
・古典は時代を超えて読み続けられる価値があったもの、ある意味人類が再読し続けているもの
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永田希(1979年~)氏は、米国コネチカット州生まれの著述家・書評家。書評サイト「Book News」を主宰し、「週刊金曜日」、「週刊読書人」、「図書新聞」、「HONZ」等でも執筆している。
本書は、『積読こそが完全な読書術である』(2020年)の続編とも言えるものであるが、『積読~』の主張は、(私なりに要約すると)「読書において最も重要なのは、世の中にある本を手当たり次第に読むことではなく、自分なりのテーマや基準で選択し、常に中身(関係性含め)を確認しつつ入れ替えなどのメンテナンスも行う蔵書(=ビオトープ的積読環境)を持つことであり、本を読むという行為はその延長線上にあるべき」というものである。
そして、本書では、端的に言えば、「読んだことがない本をできるだけ多く・速く読むだけではなく、既に読んだことがある本を再読するべき」と主張している。その主たる理由は、人の頭の中にある情報のネットワークは、時間が経てば(その間の様々な経験や情報の出入りにより)変化しており、再読した時には過去に読んだ時とは異なった情報・刺激を与えることになり、そのネットワークが更に組み替えられる(その組み替えを、月や火星の地球的環境への作り替えを指す「テラフォーミング」に喩えている)からである。そして、どのような脳内情報ネットワークを築くのかということは、現代社会において常に情報の濁流に晒されて生きている我々にとって、「どのように生きていくか」と同意の、極めて重要なことなのである。
そのほか、再読のメリットとして、①注意深く再読することにより、(初読の本を次々と読み捨てたり、再読するにしても読み慣れた部分だけを読んでしまう)「現状維持バイアス」を打破できる、②繰り返し読むことにより、その度により深い何かを見せてくれる本があることを知ることができる、③新しいジャンルに興味を持ったときに、棚卸として既読の本を再読することにより、新しいジャンルを自分のネットワークにより深く結びつけることができる、等を挙げている。
また、ショウペンハウエル『読書について』、カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』、ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフの文学講義』、松岡正剛『多読術』、斎藤美奈子『趣味は読書。』等の読書術、読書論的な本のほか、ミヒャエル・エンデ『モモ』、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』、マルグリット・デュラス『アガタ』、プラトン『パイドロス』、『国家』、トリスタン・ガルシア『激しい生』、マーガレット・アトウッド『侍女の物語』、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』等、古今の多様なジャンルの本から引用が為され、前著と同様、内容があちこちに寄り道・拡散していくのだが、それは正に著者の脳内情報ネットワークの広さを示しているとはいえ、少々読みにくさを感じた。(知識をひけらかしている、と見るのは意地悪過ぎるか。。。)
(2023年4月了)