あらすじ
底知れない不安、絶望。その苦しみを煩悩の身のままで乗り越えていく手掛かりが、ここにある。常識では理解し得ない、逆説に満ちた親鸞の教えの本質を、無宗教の視点からひも解いていく。
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『歎異抄』は難しい…と思う人に
2024年10月読了。
『原始仏教』『大乗仏教』と読んできて、ふと『歎異抄』の事が頭を過った。たまたま自分の
母方が浄土真宗なのだが、浄土真宗は…と云うか、『歎異抄』と云う読み物が何やら≪ヌルヌルして掴み辛い鰻≫の様で、若い頃から何度も解説書を読むのだが一向に『腹落ち』してくれないのだ。
こんな事を言うと信者の方からお叱りを受けそうだが、「ただひたすら『南無阿弥陀仏』と称えなさい」と言われても、それで『日々の暮らしの不安が明るくなる訳でも無し』、何と言うか≪やったぞ!!!≫感が起こらないのが、何とも腑に落ちなくて、さりとて坐禅やらお遍路三昧する様な気力も無く、我ながら「酷い凡夫だ…」と思いながら、いつも空しい空振り三振した気分で本を読み終えるのが常だった。
しかし、本書で初めて知って嬉しかったのは、親鸞の師である法然の時代から≪同様の言い争い≫が起きていた事を知ったことである。鎌倉時代初頭の時代でも『念仏するだけで良いのか』『もっと他に重要な何かしらの行(か真理のような物)が有るのでは…』と、取り沙汰されていた事を知り、「現代を生きる自分と何か(時空を超えて)繋がった思い」がしたのである。
勿論、それは「悪い方向への考え方」であり本書でも否定されてはいるが、いつの時代も考えることはそう変わらない事に、何だか嬉しさを感じたのは、本書を読んでの『収穫』であった。
父方は日蓮宗なので、そちらの勉強も怠ってはいないのだが、幸い私の両親は凡そ「宗教・信心」で喧嘩や言い争いなどしたことも無い、至ってよく有る(?)家庭だったので、五十路を過ぎた今、自分の行く末を考える為にも、仏教書を読む生活は続けたいと思っている。
…と、そのぐらいの理解度・信心の人が読むにはうってつけの書である事、大変読みやすい書であることは、断然保証する。ま、私の保証など意味は無いが…w。
それにしても「日本人の特性」に(日本の)仏教は他のどんな宗教よりも馴染みが良く、『国民性』にも浸透している事が、こうして雑読していても良く分かる。素晴らしいことだ。