あらすじ
ヤノマミはアマゾン最深部で独自の文化と風習を1万年以上守り続ける民族。シャーマンの祈祷、放埒な性、狩りへの帯同、衝撃的な出産シーン。150日に及んだ同居生活は、正に打ちのめされる体験の連続。「人間」とは何か、「文明」とは何か。我々の価値観を揺るがす剥き出しの生と死を綴ったルポルタージュ。 第42回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。
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Posted by ブクログ
何年か前に友人におすすめされて
うっすら頭の片隅にあったものの
出会う機会なく保留になっていた本
出産のくだりなど
先にネタバレを聞いていたので
驚きやショックはなかったものの
大きな文明に飲み込まれていく様は
なんとも...虚しい?寂しい?
今までそうやって数々の民族が
吸収や消滅していって
それが必ずしも「悪」でないところに
やり切れなさ切なさを感じた
Posted by ブクログ
文明社会から遠く離れて、原始的な生活を続けるヤノマミ。原始的な、という言葉を使うこと自体、果たして正しいのだろうかと思ってしまう。
世界各地で少数民族が激減し、激減すると同時に同化政策が進み、その少数民族を残すための保護政策が遂行されたりするが、果たしてそれは両者のためなのか?文明側の上から目線の、良かれと思っての政策ではないのか、と思う。と同時に、少数民族が、いったんテクノロジーや快適な生活に触れると、もう今までの生活には戻れないだろう。これについて誰も答えは持っていないのだろう。どちらが良いとか言えるものではないのだ。たとえ、文明に取り込まれて、少数民族の寿命が延びることになっても。 難しい。
私たちが海外旅行に行って、少数民族の暮らしを見て、一方で、少し文明に触れた様子を見て、がっかりだなー、そのままでいてほしいなーと思うことがある。それは自分勝手な見方なのだろう。
Posted by ブクログ
ブラジルの先住民族と同居してノンフィクションを撮ったNHKスペシャルディレクターによる本。番組は既にTVで見て、生まれた子供を精霊として森に還す様が非常に印象に残っていた。著者は民族学者でもない同時代の日本人なので、その視点に共感しやすい。
言葉も文化も異なる人々の中に入り込んでいく苦労から始まり、彼らの行事・祭りの様子、家族関係や個々の人物像、シャーマンとその思想、そして女たちの出産と赤ん坊を人間として迎え入れるかどうかへと村の描写がされていく。終盤は一転して、村イチの長老シャボリ・バタがこの村ワトリキに至るまでの流転へ。淡々と語られる歴史だが、病気による大量死などが語られ圧巻。今の彼らの姿だけでは平板なものになりかねないところを、歴史と重ね合わせることで移ろい行く儚さが見えてくる。最後のとどめは文明に触れて変わり行くヤノマミたち。起承転結のはっきりした展開で読ませる。ここはTVマンらしさか。
ヤノマミはちっぽけな存在かもしれないが、われわれが当たり前だとか絶対と思っている価値観の相対性が沁みるように分かる。そう言えば間引きの風習も少し前までは日本にもあったわけだ。彼らの考え方はわれわれにも理解できそうだし、意外と距離は近い。人間も突き詰めれば生物のひとつでしかないのだ。その上で、もがいて何を求め何を見つけられるのか、われわれもヤノマミ同様、大きな世界の中のちっぽけな存在だ。
Posted by ブクログ
文明と幸せは比例していないのだ、と感じる。
幸せって、なんて脆いものなんだろう。
私たちは幸せになりたくて文明を発達させたのに、全員が幸せになっているとは到底思えないし、逆に必要最低限しか持っていないヤノマミがとても楽しそうに生きていたりする。
でも私たちの幸せも、ヤノマミの幸せも、実はとても脆い。
幸せって、一瞬でも感じられるなら、幸せな事なんだと思う。
幸せなんて感じないで生まれて死んでいく生活だって、すぐ側に、過去や未来に転がっているのだから。
Posted by ブクログ
圧倒的な世界を
できる限り客観的に
事実を捉えて
言葉にしようとした作者の意図が感じられる
そこにあるのは圧倒的な事実
あとがきより
ーヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しの物がない。そんな「常識」に慣れきった人間だ。自分は「何者」でもないのに万能のように錯覚してしまうことや、さも「善人」のように振る舞うことや、人間の本質が「善」であるかのように思い込むことに慣れきった人間だ。ヤノマミは違う。レヴイ=ストロースが言ったように、彼らは暴力生と無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。善悪や規範ではなく、ただ真理だけがある社会に生きる人間だ。そsんな人間に直に触れた体験が僕のこころをざわつかせ、何かを破壊したのだ。
2010年 NHK出版
ブックデザイン 須山悠里
Posted by ブクログ
テレビの人だから、文章は上手くはないし、学術的な考察があるわけでもない。
でも、圧倒的な事実。体験。その迫力。
価値観を揺さぶられる快感。
「悲しき熱帯」「旅をする木」と来て、この本を読んだ流れは偶然だけど、共通のテーマについて、いろいろ考えた。
「ニングル」で倉本聰が言った「知らない権利」を思った。
一方で児童文学ではあるが「アーミッシュに生まれてよかった」で感じた、選べない人生への憤り。
たくさんの選択肢がある中で、自分は何を捨てて何を手に入れようとしているのかな。
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ヤノマミは彼らのコトバで「人間」の意味。現地に長期滞在した著者らは当初「ヤプ」(ヤノマミ以外のもの、人間以下のもの)と呼ばれ、その事実に恐れを抱く。その滞在を経てシャボノを離れるときセスナから保護区を見た著者は、彼らが「出て行け」と叫んでいて欲しかった、と思う。子を産み落とした瞬間に、人間にするか精霊にするかを選択する母親。彼らは暴力と無垢を併せ持つ、人間の原初的存在なのかもしれない。そのヤノマミが文明化することに対する著者の揺れる思い。その心境の変化が胸を打つ。
Posted by ブクログ
ベスト2012年!
テレビより詳細に描かれている。ヤノマミの生活、社会的背景、ワトリキの人たちの関係、取材中の著者とヤノマミの関係・・・
そして著者の内面。最終章には、静かに、強いメッセージが書かれていた。
年を重ねるごとに、心にガーンと突き刺さる経験、魂が浮いた状態になる経験って、なかなかなくなっている。でも、この本と映像の中には著者のそういう経験が詰まっている。そして私もそれを想像力を働かせることによって、体験しようと努めた。メッセージは明記されているわけではないけれど、でも何かとてつもなく私にとって大事なものがこの中に詰まっていた。
Posted by ブクログ
久しぶりのドキュメンタリー。
私の精神力や体力ではとても行けない場所。
だからこその読書での追体験。
文明化されていると信じている私たちの勝手に作った基準では、彼らの生活は野蛮で道徳に反してるかもしれない。でも何が正しくて何が悪だなんて、どうして一方からだけの考え方で決められるだろう。
色んな人間が地球にいるのはとても楽しい。自分の基準だけで、文明化させようなんておこがましい。
どんどん地球が平準化されてる。もう私がおばあさんになる頃は、どこに行っても、違う世界を享受できなくなるのかな。
Posted by ブクログ
ベネズエラ側のヤノマミ居住区で最近違法金採掘者によるヤノマミ襲撃が起きたというニュースを目にしたのをきっかけに読書開始。全編通して、読み進むモチベーションは9割方好奇心だったと思うけど、読み終わった時には、筆者と共に人間という存在について考えてみている自分もいたりして、シリアスな動機("社会問題"的"正義感"?)もありつつ、結局好奇心の方が圧倒的に大きかった。それくらい異次元過ぎておもしろい!本の内容もその辺りのバランスがいいからなのか、読んでいる間は飽きることなく(むしろ目を若干白黒させつつ)、読み終えた時には哲学じみた充実感も味わえる、"美味しい"一冊でした♪
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「貨幣」も「法律」もない世界。そこには、動物である「人間」の姿があった。
近年、多くの人が経済成長の「夢」から醒め、自身の「存在価値」と答えなき「幸せ」を問い続けることを強いられた。
この流れの中で、僕たちは「今」をどう生きるのか。
そのヒントが「ヤノマミ」にあるんじゃないか。と思い購読した。
ヤノマミは、言葉の通り「人間」としての純粋な「欲望」を中心に動いている。
寝たい時に眠り。
犯したいときに犯し。
腹が減ったら狩りに出る。
そこには、ヒトを支配するために作られた「宗教」や「規則」はない。
森に生まれ、森を食べ、森に食べられる。
「自然」と「人間」が共存し、生きていく世界。
自分たちとは、明らかに違う生活を羨ましく思う一方。「文明」の中で育ってしまった僕らには、同じような生き方は絶対に出来ないと感じた。
Posted by ブクログ
限られた資源の中で家族の暮らしを支えていくために、父親は狩猟の責任を、母親は命の選別の責任を負う。死が生を支えるという原初の森の暮らしの壮絶さと、リアリティに打ちのめされた。
文明社会の干渉に晒され、ヤノマミの社会は、もやは後戻りできない変化をとげつつあるという。「僕にとって、依存され憎悪されるなら、憎悪されるだけの方が遥かに気が楽だった」 −取材を終えてワトリキを去る際の著者の言葉に胸が裂ける。
Posted by ブクログ
ブラジルとベネズエラにまたがる森林地帯には先住民・ヤノマミ族約3万人が200以上の集落(移動性)で暮らしている。その集落のひとつワトリキに150日間を共に暮らしたNHKドキュメンタリーの書籍化だ。
この現代社会においても、原初の暮らしをしている人々。生と死が一体化し、森の精霊たちと共存する。私有とプライバシーがなく、暴力性と無垢性が矛盾なく同居する生活。
あまりに文明社会とは異なる規範があり、それは感動するほどに自然の中でいのちを生きている。
文明化がよいことなのか、この人たちの幸せは何なのか?
しかし、この強烈な生き方は、文明社会に暮らす私たちへのアッパーカットでもある。
Posted by ブクログ
確かなもの、当たり前のものと思っていたことがガラガラと音をたてて崩れていく…ものすごいルポ。
稀に見る読書体験。
むきだしの“人間”に畏怖を感じるとともに、じゃあわたしは何なんだ?と。
彼らの言う「ナプ」という言葉が深いところに刺さってしばらく心がざわつく。遠くで何かのアラームが鳴ってる。
Posted by ブクログ
「ヤノマミ」
それは、ブラジルの森の奥深く、
ベネズエラとの国境沿いに住む先住民族の人たち。
彼らの言葉で「人間」を「ヤノマミ」と言う。
だから彼らは「ヤノマミ族」と呼ばれている。
この本は、ヤノマミ族の中に入り、計150日間一緒に暮らし、
それをドキュメンタリーにしたNHKのディレクターさんが
その時見たこと、感じたことを綴った本。
読み終わった感想は・・・衝撃だった。
ヤノマミ族の生と死とが同居する営み、
そこから育まれている価値観、
文明と接することによる破壊、葛藤。
色々なことが自分の生活と違っていた。
最初は、違ってるからこそ面白くて読み進めていった。
でも、途中で違っていない、同じところを見つけたら
読み進めるのが難しくなった。
生と死と、男女の仲違い、文明への憧れ、葛藤。
私の身の周りでも起こる、同じことが彼らの中でも起きている。
ただ、それに対しての反応が違う。
その反応っていうのは、生きる手段や生活環境等々から育まれたもの。だからどっちが正しいとかはないってわかってる。
でも、ヤノマミの、例えば新しい生に対する反応が、
私が知る価値観の尺度で測ると「悪」になれたりもする。
善悪なんてつけられないのに。
つけられないってわかってる。
だからこそ衝撃。
自分の中で整理出来ない。
自分の価値観って何だって思う。
どんなきっかけでもいい、この本はぜひ読んでみてほしい。
そしてこの本を読んで何を想ったか、一緒に話をしてみたい。
Posted by ブクログ
面白いのと同時に、いろいろ考えさせられた。
作者が「分からないことを分からないままに受け止める」
というスタンスだったから、押しつけがましくなくて、
面白くて、分からない部分はいろいろと想像した。
あとがきの引用
「ヤノマミの世界には、『生も死』も、『聖も欲』も、『暴も愛』も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、共に同居していた。
だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しのものがない。僕はそんな『常識』に慣れきった人間だ。自分は『何者』でもないのに万能であるように錯覚してしまうことや、さも『善人』のように振る舞うことや、人間の本質が『善』であるかのように思い込むことに慣れきった人間だ。
ヤノマミは違う。レヴィ=ストロースが言ったように、彼らは暴力性とか無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。善悪や規範ではなく、ただ真理だけがある社会に生きる人間だ。そんな人間に直に触れた体験が僕の心をざわつかせ、何かを破壊したのだ。」
これからこの本を人に貸す予定。(読んだらショックを受けるかな?)
私はまた読みたい。
DVDも見たい。落ち着いた気持ちになったときに
ゆっくり見たらいいかな?と思った。
Posted by ブクログ
ヤノマミとはブラジルとベネズエラの間にある深く広大な森にいる原住民ですが、その部族と共に過ごした150日間を収めたルポルタージュです。当然のごとく、文明に毒されていない生活様式があり、人生観があり、その違いを刻々と記してしるため、興味深く面白い内容になってます。出産に関する記述は読むのに苦しいですが、ヤノマミにとってはそれが当たり前であり、その違いについては考えさせられます。無駄なものが多いこの文明に生きてると、それが当たり前になりますが、人間、自然、宇宙の真理を受け継ぎ、そして理解せずとも理解してきた彼らの精神世界にはとても興味を引きつけられます。これは読むべき。
Posted by ブクログ
NHKのドキュメンタリー番組の取材のため150日間現地で過ごしたディレクターによる記録。ママゾンの奥深くに住むヤノマミ族は、私たちとは全く別の世界、価値観、風習の元で生きている。「生」と「死」が同じ時間の中で連続として存在する、ということは多分頭で理解できても共感し受け入れるってことはちょっとやそっとじゃできないだろうな。
Posted by ブクログ
ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。 だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しのものがない。
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ノモレが良かったからこっちも買ってみたけど、こっちの方がさらに良かった…!
最後に筆者が心身を壊したのがリアルでいい。彼らとは違うと線を引くことなく本当に正面からぶつかったんだんだなぁと。正しさとはなんなのか、生きるとは、幸せとは?タイ・ミ。
個人的には子供を精霊にするか人間にするか決められるというのは優しい仕組みなんじゃないかと思った。
Posted by ブクログ
子供を生んだ瞬間に、子供を生かすか、精霊としてあの世に送るかを母親自身が決め自ら手を下す世界。我々の物差しでは測れない世界が現代でもまだある驚き。
Posted by ブクログ
世界を知った気になってないか?こんなにもお前さんが知らない現実があるよ、冒険もあるよ!
ドキュメンタリーを読むのはこんな声が聞こえた時だ。
そして今回読んだのは、きっかけはジャレド ダイアモンド氏の「銃・病原菌・鉄」だったと思う。十分に食料に恵まれ集団の維持ができるならば、石器から鉄器に移行しない文明がってもそれは当然、という話の流れで南米のヤノマミの名が出ていた。
本書はヤノマミと延べ150日間過ごしたテレビ取材の緊張、驚き、発見を淡々と書いてくれている。
読んで何度も驚いた。信じたくないような場面もたくさんあった。知ったことで、私にとって世界はまた広くなった。
Posted by ブクログ
ブラジルとベネズエラに跨る広大な森に生きる先住民ヤノマミ族。
男たちは獣を狩り、女子供は田畑を耕し、巨大なドーナツ状の集合住宅に暮らす。そこにプライバシーは皆無で真っ暗闇の中、眠り、時に交接する。
基本的には一夫一妻制が成り立っているが開放的な彼ら。浮気や不倫は日常的で父親違いの子供も多い。
なにより、衝撃的だったのが出産に関してのこと。彼女らは森で出産し、生まれた子を精霊のまま天に返す(殺める)か、連れ帰り子供として育てるかを一人で決断する。
14歳の少女が45時間の難産に苦しみ泣き続けた末にやっと産み落とした命を天に返した。それを目撃してしまったディレクターは帰国後もなかなかショックから立ち直れず、夜尿が続き、げっそりと痩せたそうだ。
コインロッカーベイビーや赤ちゃんポストなど、耳にするたび覚悟なく妊娠・出産することに対し、欲しくても授かれない人もいるのに…と反発を感じていたが、なんというかそういったモラルだとか善悪を超えた次元の世界だ…。
自ら殺めた子の亡骸を白蟻の巣に入れ、骨すらも食べ尽くされた二週間後にその巣をゆっくりと焼く。
自身の下した決断ではありながらも、やはり母は涙に暮れるそうだ…
森を食べ、森に食べられ、森に生きるヤノマミ。時は流れ、彼らの聖域にも狡猾な文明が入り込み始めたようだ。
発展は彼らに幸いをもたらすのか、それとも…。この先も彼らがアハフー、アハフーと笑っていられたらいいな。
Posted by ブクログ
番組スタッフが、ブラジルとベネズエラの大森林に住む原住民と150週間共に生活した体験を綴った本。
ヤノマミの持つ、死生観と宇宙観がどんどん西欧文明と出会うことで崩れていっているのは、とても哀しい。
でも、その文明の恩恵を自分自身が受けているのも事実だ。
森林保護とか原住民保護とか”保護”という観点はいわゆるしようとする側の論理で、される側にとっては本当は何が1番いいのか。
何が正解か、は本当に難しいと思った。
NGOなどの活動のむつかしさも改めて思う。
また、昨年、震災とパプアニューギニアでのわずかながら強烈な体験をとおして人間のシアワセって?ということについてすごく考えた’が、
ヤノマミと暮らした彼らの体験は、その比じゃないくらい強烈なものであったと伺えて、改めて、今の世界や日本の状況になんだかココロがザワザワしだしているのである。
Posted by ブクログ
人間の知性や向上心ってどこから生まれるのか。「自然と共存」というと聞こえは良いが、同じ状況に留まり続けるという事自体が不自然に思えるのは、自分が文明に依存している人間だからか。答えの出ない疑問が残る。
Posted by ブクログ
小さな畑を女が耕し、ほぼ狩猟採集に近い生活をする部族ヤノマミに密着取材したNHK記者の体験記。弓矢で狩りをし、死んだ親戚は
持ち物ごとすべて焼いて家族の囲炉裏に埋める。人は死ぬと精霊となって天に行き、精霊の寿命が終わると地に戻って虫となって消える。女だけで森で出産をする。生まれたばかりの子供はまだ精霊で生んだ女が家に連れて帰ると決めて初めて人になる。精霊のままにするのであれば母が子を殺して白蟻の塚に埋め、後に火を点けて天に返す。
150日に及ぶ滞在から疲れ切って戻ってもしばらく体調が戻らない。カメラマンは子供を殺す夢を見るようになったし、著者はしばらく夜尿症になったという。
――
最初は「文明」の側の時間に同期することができなくなったからだと思った。あるいは、ショッキングな物を見過ぎたため、退行することで精神の崩壊を防ごうとしているのかとも思った。
だが、たぶん、どれも違うのだ。
ヤノマミの世界には、「生も死」も「聖も俗」も「暴も愛」も何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。
だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しのものがない。僕はそんな「常識」に慣れきった人間だ。自分は「何者」でもないのに万能のように錯覚してしまうことや、さも「善人」のように振舞うことや、人間の本質が「善」であるかのように思い込むことに慣れきった人間だ。
・・
僕を律していた何かと150日間で見たものは余りにかけ離れていたから、バランスが取れなくなってしまったようだった。このままでは、ダムや堤防が一気に決壊するみたいに、すべてが壊れてしまいそうだった。
だから、ワトリキ(ヤノマミの村)の日々や人びとの顔を必死で思い出そうとした。
すぐに、闇や雨や風が甦り、匂いさえ沸き立ってきた。167人の顔も容易に思い出すことができた。脳裏に浮かんだ顔はみんな笑っていた。
合宿や出家などで洗脳するときはこんな感じになるんだろうな。著者も彼らは自分たちと違うと考えれば心身を壊さずに済んだと思うけれど、心身が壊れたことは不安であったけれど不快ではなかったと語る。その視線が美しい。
Posted by ブクログ
ヤノマミはシンプルだ。そもそも文明というものとほとんど接触しない暮らしを営んできた部族に我々の常識が通用するはずがなく、その行動が我々の目にどれほど奇異に映ろうとも、彼らは彼らのルールに従って生きているにすぎない。にもかかわらず、保護の名の下に彼らに予防接種を行い重病の者は都市の病院で治療する、あるいは洋服などの日用品を与えるなどといったことが是か非かという議論はここではおくが、文明と接することで彼らは新しい知識を得、その知識がこれまでにない欲望を産む。結果としてヤノマミは変容して行かざるを得ないだろう。それが彼らにとって幸福なことであるのかどうかという問いに解答はない。