【感想・ネタバレ】慶喜のカリスマのレビュー

あらすじ

慶喜がこれまで正当な扱いをされてこなかったことの蔭には、ふたつの決定論史観が作用しています。ひとつは王政復古史観、もうひとつはコミンテルン・ドグマ。どちらも慶喜に「封建反動」のレッテルを貼り付ける点では、奇妙に一致するのです。本書は野口氏が満を持して放つ「慶喜と幕末」です。幕末の数年における彼の眩い輝きと没落、明治以降の沈黙をとおして「ありえたかもしれないもうひとつの日本」が浮かび上がります。


歴史上、「多くの人びとの期待を一身に集めて登場したのに、その期待を完全に裏切った」人が何人かいます。後世からみると「あんな人物に当時の人はいったいなぜ、希望を託したのだろう」と不思議に思うのですが、たしかにそのとき、彼にはカリスマがあったし、時代は彼を舞台に上げたのです。その機微を明確に描き出すことに成功したものが、すぐれた評伝なのでしょう。
さて、近代日本でこの種の人物を探すとすれば、その筆頭に挙げられるのは徳川慶喜でありましょう(ついでにいうと、もうひとりは近衛文麿)。しかし、司馬遼太郎の『最後の将軍』を読んでもどうにもこの人のことはよくわからない。
慶喜がこれまで歴史の専門書からも歴史小説からも正当な扱いをされてこなかったことの蔭には、ふたつの決定論史観が作用しています。ひとつは王政復古史観、もうひとつはコミンテルン・ドグマ。どちらも歴史を行方の定まっている一方交通の方向量のように考えて、慶喜をもっぱら否定されるもの、乗り越えられるべきもの、敗北ときまったものと扱ってきて、この人物に本来ふさわしい出番を与えてきませんでした。慶喜に「封建反動」のレッテルを貼り付けて戯画風に単純化する点では、ヴェクトルは正反対でも両学説は奇妙に一致するのです。
本書は幕末について書きつづけてきた野口氏が満を持して放つ「慶喜と幕末」です。幕末の数年における彼の眩い輝きと没落、明治以降の沈黙をとおして「ありえたかもしれないもうひとつの日本」が浮かび上がります。

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Posted by ブクログ

英邁であるが臆病である、と言うのが慶喜を評する通説であろうか。
同時代の松平春嶽も「有能ではある。しかし肝っ玉は小さい」と言っている。同時代人の共通認識なんだろう。
慶喜の判断一つで時代が変わったかもしれない節目における慶喜の立ち位置、政治情勢、外圧等を詳細に説明し、その時の慶喜の心情を分析する。そして「もし慶喜が決断していたら・・・」と歴史のIFも解説してみせる。
この辺が読み物として大変面白い。
「たぶん慶喜を知るためのひとつのキーワードは、《失敗を恐れる男》であると見て間違いない。」
この短いセンテンスが幕末までの慶喜の32年間を端的に現わしている。
隠遁生活は45年に及び、明治からは全く表舞台に出てこない。
これはこれで凄い事なんだろう。
今年は没後100年だそうだ。全く盛り上がっていない処が「徳川慶喜」らしい。

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2013年10月25日

Posted by ブクログ

 松平春嶽が德川慶喜を 「ネジアゲの酒呑み」 と評したという話は、かなり知られていることだろう。ところが現状では、この評を活かせるような土俵を設定できる書き手はごく限られている。歴史小説とか歴史ドラマと称するものの多くがチョンマゲをつけたサラリーマン物の別称でしかないことを想えば、淋しいことではあるが、これまたやむをえないというべきなのだろう。
 そんなお寒い書き手のなかにあって、この春嶽の慶喜評を活かせる土俵を作り上げることのできる数少ない書き手の一人が、本書の著者の野口氏である。それは氏が多種多様な史料のなかに潜り込んで、その時代の息吹き、空気、匂いをつかみ取り、それを読者の面前に描いて見せてくれるからである。
 慶喜を 「ネジアゲの酒呑み」 と評した春嶽は幕末では賢侯と称揚されながら明治に入るとすぐに化けの皮が剥がれて窓際族に追いやられたわけだが、本書に描き出された幕末の舞台を見ればそれも当然と想う人も多いことだろう。サラリーマン社会の枠を飛び出して、史料に流れる時代の息吹き、空気、匂いをつかみとったとき、歴史はほんとうに面白くなる。

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2015年03月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

徳川慶喜を書いた本は多いが、この本は掘り下げが深く秀逸だと思う。秀逸なのか?愚鈍なのか?両面持ち合わせているが、愚鈍ではなく臆病だったという解説。
・大政奉還後の”ええじゃないか”は人種愛的なエロスが充満
・鳥羽伏見のの戦いは、戦意無し 部下が暴発
・大阪城は籠城の城 慶喜が逃げ出したのが最大の失敗
 家来を鼓舞した後の逃走。大義名分も無い 信頼の失墜
 おまけに原因不明だが炎上させてしまう。
・開陽丸に乗り込んで江戸に逃げるつもりが、船が解らずアメリカ船に案内してもらう羽目に。
・滅法の女好きで、開陽丸にも妾を連れ込んだ。

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2021年08月07日

Posted by ブクログ

ネタバレ

慶喜は本当は臆病だった?
朝令暮改の人は沢山いるけど、慶喜の場合は本当はどうだったんでしょう。
禁門の変のときは先頭に立ったり、神戸開港の時には弁舌あざやかだったのに、鳥羽伏見の時は夜中に大阪城を抜け出したり、王政復古の時には仮病で欠席したり。
精神分析医が解説したら面白いかも。

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2015年03月02日

Posted by ブクログ

封建社会存続のための最後の砦として、持ち前の政治能力とカリスマ性を駆使して針の穴に糸を通すようなギリギリの勝負を仕掛けたが、時の運に見放されて敗れ去った慶喜公の前半生を評した本。幕府内の有力者にも味方はほとんどおらず、無責任な期待をただ押し付けられるだけ、という状況の中、数少ない身内を固めて、一会桑(一橋・会津・桑名)だけで途中までは互角の勝負をしたのは天晴、というのが正直な印象。そもそも、徳川将軍でありながら、数百人の護衛兵の調達に苦慮している時点で、時の運に見放されているとしか言いようがない。(結局、水戸藩の浪人や農民で護衛隊を急造した)
14代将軍・徳川家茂の後見人として、政治の表舞台に登場して以来、常に京都で生身の政争を強いられた点は、封建社会の開祖である源頼朝と真逆になっていて、その対称性が面白いと思った。それに、33歳にて政治力を失った後、40年以上にわたり一切の政治活動を断ってみせた精神力には、やはりカリスマ性が備わっているようにみえる。日本がいち早く先進国になれたのは、旧幕府勢力による抵抗や蜂起を、慶喜が無言の圧力で押さえつけたことが一番大きい。もっとも、慶喜が後半生で無言を貫けたのは、明治政府や徳川宗家から莫大な資金援助を受けていたから、とも言えるんだけど。(最近、「元首相」な人々がひたすら動き回って国益を損ねているのは、要するに彼らがカネに困っているから、なのである)

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2014年05月11日

Posted by ブクログ

面白かった。やはり歴史は勝者の目から語られている。
日本の歴史教育は色々考えるべきだろうな。
慶喜のひととなりに言及しながら、政治家と軍人は違う、歴史に名を残す人間でも、大義だけで生きている訳ではないことを示す。
明治維新は、所詮は、経済と権力を巡るjクーデターであった。
で、文章が軽妙でまるで週刊誌でも読んでるみたいで、そこも良い。

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2013年09月16日

Posted by ブクログ

慶喜がなさなかった事で、結果的にどれだけの人々が命を救われたかという事が、改めて表れてきます。歴史というものは本当に面白い。

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2013年08月02日

Posted by ブクログ

漱石が生まれたのは慶応3年。
その時、徳川将軍は、最後の将軍慶喜だ。
漱石の「吾輩は猫である」の冒頭には、「天璋院様」が登場する。登場すると言っても、「天璋院様の御祐筆の妹の嫁御に行った先の云々」と出てくるだけだが、天璋院様は、大河ドラマで宮﨑あおい演じた篤姫だ。
江戸時代の人物たちは、明治になっても生きていた。明治は江戸と地続きだったのだ。

慶喜は、明治天皇の崩御した翌年、大正二年に亡くなっている。
維新は勿論、近代日本の発展、日清•日露戦役も目撃しているのだ。
そして、「坂の上の雲」の時代が終わると共に、明治天皇、それに殉死じた乃木希典と共に、去っていった。

将軍時代の慶喜は、その聡明な頭脳で時代状況を的確に判断して、幕府を超える政権の必要性を痛感していた。
そのための一手として竜馬の推進する大政奉還を挙行する。大政奉還自体は、龍馬の創見ではない。
それを命懸けでやろうとしたのが龍馬だったのだ。
薩長連合も同じ。幕末誰もが薩長連合の必要性を議論していた。だが、不可能ごととして議論するだけだった。それを命懸けで、ウィン•ウィンの提案を薩長にすることで成し遂げたのが龍馬だった。

慶喜は、龍馬の進める大政奉還によって、新政権による政権維持を企図した。
しかし、薩摩の西郷、大久保は一枚上手で、慶喜の政権参画を阻止する。
更に、幕府軍の暴発を誘発し、鳥羽伏見に於いて幕府軍を破ることで、慶喜を「朝敵」とすることに成功する。
官軍に倍する兵力を有しながら、「朝敵」の汚名を着たことで慶喜の心は折れ、幕府軍を残したまま大坂城から逃亡するのだ。
軍事力で見る限り、幕府軍は負けようがなかった。
しかし、天皇から「朝敵」=反逆者の烙印を押されることで、幕府軍は敗北したのだ。
それはある意味、家康が蒔いた種が巨大化して、徳川幕府を転覆したと言える。
家康以来の英邁な将軍と言われた慶喜が、家康の遺産にケリをつけたといった格好だ。

江戸に逃げ帰った慶喜は天皇に対してひたすら恭順の姿勢を示す。
慶喜を殺し、徳川幕府をぶっ潰して、江戸を灰燼に帰するべく進軍してきた新政府軍を説得して、慶喜の助命と、江戸総攻撃を思い止まらせたのが、幕府を代表する勝海舟だ。
新政府軍は、江戸と江戸城を炎上させるべく、アドレナリンみなぎってやってくる。
そんな野獣のような新政府軍をなだめ、説得して、矛を収めさせたのは、大将の西郷隆盛だ。
西郷のカリスマ無くして、新政府軍を抑えることは不可能だった。
大将が大久保だったら、いや、西郷以外の誰であっても、新政府軍の総攻撃は予定通り行われただろう。
江戸は灰燼に帰したばかりか、勝海舟の策略で新政府軍の大半は、江戸と共に滅んだはずだ。
勝海舟は、新政府軍を蒸し焼きにする計画を秘めていたのだ。
しかし、その場合、漁夫の利を狙うイギリス、フランス、アメリカが黙ってはいない。
日本を植民地化し、日本は分断された上、日本語は廃され、英語を話す日本人とフランス語を話す日本人が生まれたことだろう。

慶喜は命を長らえることは出来たが、政治家としての名運は尽きる。
本書は、幕末明治という激動の時代を、慶喜という稀代のカリスマが、そのカリスマ性を失い、歴史から消えてゆく姿を通して活写する。

天皇家に、昂然と戦いを挑んで、勝利したのは日本の歴史上、北条政子•義時、姉弟しかいない。
この二人が、「対幻想」(吉本隆明)によって固く結ばれた姉弟(女男)のペアであったことが大きい。
義時一人であったならば、後々の慶喜のように、錦の御旗を見ただけで、ヘナヘナと腰砕になっていたことは必定だからだ。
それを叱咤したのは姉の政子だ。
実際、義時は、息子泰時を総大将として派遣するに際して、泰時が「お父さん、もし、後鳥羽上皇様が戦場に姿を現したら、何としましょうか?」と問うた時、躊躇いもなく「その時は、馬から降りて、平伏して謝れ」と言っているのだ。
幸い(?)、上皇様が戦場に現れることはなく、「朝敵」である泰時は易々と、「無敵」天皇軍を打ち破っている。
この承久の乱以降、政権は天皇家から武家に移ったと言われる。
それはその通りだが、武家が長期にわたって政権を維持できたのは、天皇に対する「無謬神話」が崩壊したからに他ならない。
思想的な大転換が起こっていたのだ。
「朝敵」になることを恐れなくなったのだ。
だから、足利尊氏は平気で後醍醐天皇と戦うことが出来、織田信長は天皇を超える存在にみずからを祭り上げようとする企てを行うことが可能となったのだ。

では何故、幕末になって、武家政権のトップ慶喜に限って「朝敵」が決定的に効いたのか?
それは家康の採用した、政治思想にあった。
家康の政治思想には時限爆弾が仕掛けられていて、260年後、起動して幕府を崩壊に導いたのだ。
それを見るためには江戸時代の思想を全て辿る必要がある。
本書の後に、その思想的ダイナミズムに興味が湧いたら、山本七平「現人神の創作者たち」を読むべきだ。
慶喜がヘナヘナとなった理由が分かる。

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2024年05月29日

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