あらすじ
一九一六年,大英帝国の外交官であった男に死刑が執行された.その名はロジャー・ケイスメント.植民地主義の恐怖を暴いた英雄であり,アイルランド独立運動に身を捧げた殉教者である.同性愛者ゆえに長くその名は忘れられていたが,魂の闇を含めて,事実と虚構が織りなす物語のうちによみがえった.人間の条件を問う一大叙事詩.
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Posted by ブクログ
コンゴとペルーにおける原住民の虐待を告発したアイルランド人にしてイギリス外交官、同性愛者の、実在した人物であるロジャー・ケイスメントの伝記小説。
最後はアイルランド武装蜂起に関わって絞首刑になる。
面白かったけど、ハードカバーの500ページ以上の本なので、読みにくい(物理的にね)事甚だし。
リョサの本は「都会と犬ども」「緑の家」もおもしろかつた。
Posted by ブクログ
想像をはるかに絶する
衝撃的な残虐な行為が
静かな筆致で描かれていく
なんども 本を閉じて
ふうっ の ため息が出てしまう
「闇の奥」を書いたコンラッドは
この本の主人公ロジャー・ケイスメントを
「イギリスの(正しくはアイルランド)バルトロメ・デ・ラス・カサス」
と呼んでいたそうだが
ケイスメント本人ではなく、彼を主軸に置いて著者バルガス・リョサの筆致を通すゆえに、より鮮明に、より印象深く、「帝国主義」「被植民地」のおぞましい実態が浮かび上がってくる
むろん、これはイギリス国を始めとする当時の植民地政策をとっていた全ての国の犯罪行為の暴露でもあるが、戦争行為を歴史の汚点として抱えた国全て、むろん、この日本の歴史的行為も含めて考えさせられる一冊である
優れたジャーナリストであり、英雄であり、同性愛者であり、国家によって抹殺された、一人の特筆すべき歴史的な意味を持つ、ロジャー・ケイスメントをここまで魅力のある人物として描き出したバルガス・リョサが凄い
また、日本語訳をしてくださった野谷文昭さんに感謝である。
とんでもないものを読んでしまった
と同時に
21世紀を生きる我々が
読んでおくべき一冊である と思う
Posted by ブクログ
2010年のノーベル文学賞受賞作家の最新作。
とはいってもスペイン語版がでたのが2010年なので
もう11年も前です。
これまでのリョサの本とは異なり、いわゆる歴史小越です。
実在の人物アイルランド人のケイスメントの人生を振り返る話。ケイスメンとはコンゴでそしてペルーで原住民の人権が蹂躙されているのを見聞きし、その問題の解決に取り組む。
その過程でアイルランドの問題も未開の部族の問題から敷衍すれば理解できることに想到する。コスモポリタンであるケイスメントがナショナリストになっていくという皮肉。
そしてケイスメントは同性愛者である。
理想と現実の間に挟まれながら、ケイスメントは突き進む。真剣なのに滑稽、絶望的なのに理想主義者であり続ける常に前のめりの姿勢を崩さぬまま、ついに足元を救われて、泥沼に頭から突っ込んでいくようなケイスメントこのような人物こそ顕彰に足る人物だとリョサはいいたかったのではないだろうか?
多くの人に読んでもらいたい本。
Posted by ブクログ
重厚なテーマを扱う長編小説であり、物理的にも精神的にも「分厚い」一冊。
一九一六年、大英帝国の外交官ロジャー・ケイスメントは死刑に処された。彼は植民地主義の恐怖を告発した英雄であり、同時にアイルランド独立運動に身を捧げた殉教者でもあった。しかしその名は長く歴史の表舞台から消されてきた。“同性愛者”であったという事実が、彼の評価を意図的に曇らせたからである。本書は、そのケイスメントを、事実と虚構を織り交ぜながら甦らせる。作品紹介にある「人間の条件を問う一大叙事詩」という言葉は、決して誇張ではない。
私に強く突き刺さったのは、「植民地主義の恐怖」と「同性愛者ゆえに忘れられてきた存在」という二つの主題。突き刺さるというより、むしろ鈍く重い圧をかけられる感覚に近い。これは単なる歴史小説ではない。史実を土台としながらも、歴史小説という形式でなければ描き切れなかった世界なのだろう。要約や統計では決して伝わらない、人間の肉体と精神が破壊されていく過程が、容赦なく描かれる。
たとえば、植民地の現場で語られる弾薬管理の逸話。軍は弾薬を無駄にできない。兵士がサルやヘビなどを殺すために弾薬を使った場合、その帳尻を合わせるために、生きている人間の手や性器を切り取って「証拠」とする。この冷酷な論理は、個々の残虐性というより、制度としての暴力がいかに人間性を破壊するかを示している。さらに、奴隷同然に使役される少女たちの描写では、「救い出すこと」が必ずしも救済にならない現実が突きつけられる。
—— 制度全体が腐敗しきった世界では、善意ですら行き場を失う
搾取の制度が極まると、破壊されるのは肉体より先に精神だと作中で語られる。抵抗する意欲や生き延びようとする本能そのものが奪われ、人は混乱と恐怖によって自動人形へと変えられる。自分たちに起きている惨禍を、特定の人間の悪ではなく、神話的な呪いや不可避の罰として受け止めてしまう。このような植民地主義は「過去の問題」として処理されてしまったのだろうか。
で、この二つの主題について深掘りする。つまり、植民地告発とケイスメント自身の性的欲望のことだ。彼の同性愛における罪悪感は当時の社会において、植民地の暴力と同じく、「見てはならないもの」「語ってはならないもの」だった。帝国が隠蔽したかったものを彼自身も内部に潜ませていたということなのではないか。
帝国の矛盾。同性愛者の葛藤。
だからこそ、ケイスメントを黙らせるために用いられたのは、彼の告発に対する正面からの反論ではなく、秘密の日記という私的領域の暴露。彼の性的欲望を罪に仕立て上げられ、人格否定するための道具として利用することで、歴史の舞台から一時は葬り去られたのだ。それはまるで、植民地主義を放念したかのように。
リョサは、ケイスメントを潔白な英雄として浄化しない。秘密の日記に見られる自己陶酔や内面の歪みも含めて描き出す。それは彼を貶めるためではなく、「完全でない人間」が正義を語り、行動したという事実を消さないためだろう。ここで問われているのは、「清廉でなければ正義を語る資格はないのか」という問いでもある。
読み終えたあとに残るのは、爽快感ではない。簡単には振り払えない重さ。その重さこそが誠実さであり、それこそ「人間の条件を問う」という言葉が核心を突いているではないかと思うのだ。