あらすじ
生きることがうたうこと、うたうことが生きること…24歳のひたむきな言葉から生まれた、きらめくような短歌たち。与謝野晶子以来の天才歌人とうたわれた、教科書でもおなじみの俵万智の第一歌集。刊行されるやたちまち話題となり、社会現象にもなった280万部突破の大ベストセラー!
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Posted by ブクログ
一読して大好きになった詩集
恋の歌も、生活の歌もどれもが共感を呼ぶ
おそるべし、五七五七七の世界
失礼ながら存命であることを読んでいるうちに知った
教科書に載っていた世代だったので、、同じ時代にいられることを嬉しく思う
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だいっすきになった詩集。
そもそも詩なんて興味なかったけど、これを読んで唖然とした。
一番驚いた本かも。
詩ってこんな自由なんや
なにげない日常が詩として切り取られてとても新鮮だった
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上手い!ほとんど字足らず字余りがなく、自由な口語で鮮やかに表現している。共感を生むシチュエーションや、日々の中に湧き起こる感情を巧みに詠んでいる。もう3回くらい読んだ。
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季節や年齢、そのときの気分で心に響く歌も変わる。夏の終わりの今のイチオシは、
「思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ」
もっと早く読めば良かったと思ったし、またしばらく経ってから読みたいとも思う。
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日常の一瞬の場面、一瞬の心の動きを31文字で切り取っていて、スローモーションの映像をたくさん見ている感覚。なんでもない一瞬をみずみずしい言葉で表していて、特別に感じられる。特に、君が出てくる時は愛しい気持ちが可愛らしく表現してあってこちらまで微笑ましく、苦しくなる。
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初めて読んだのは25歳。これまでの自分と重なる部分が多くあったなぁ。切なくて、愛しい言葉たち。
30歳になった時、35歳になった時、40歳を迎えた時、節目毎に読んでいきたい。
歳を重ねる度に、自分はどう感じるのだろう?楽しみだなぁ
24歳で書き上げた万智さんの感性と豊かな表現力に感服。
「君と食む三百円のあなごずしそのおいしさを恋とこそ知れ」
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好きな彼が7/6はサラダ記念日と言っていて、俵万智さんの旦那さんの気持ちになりたいとか言っていたのを思い出して、振られた私は、彼との会話を思い出しながら俵万智さんの片想いの短歌とか失恋の短歌を読んで胸を熱くする、奇妙な爽快感でした。
何年経っても、凄い!
私は、世間に騒がれている本を読まない人である。何かの賞を取ったとか、著名人が誉めているとか勧めているとかそういう本は、えっ?本当かな?と疑う気持ちが先に来るのだ。けれど、この本は、単行本で出たばかりの時に購入して、衝撃を受けた!こんなに若い人が、こんなにみずみずしい若い人の感性で歌をうたっている!凄いなと思った。何年も経って読んでも、やっぱり凄い!その昔の感動が、甦った。
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初読。これまで短歌集は情報量が少ないと思って敬遠してましたが、俵万智さんの「生きる言葉」を読んだことをきっかけに手に取りました。
短歌の情報量をナメてました。それぞれの歌から想起される映像だったり、感情だったり、31文字に込められたものはとても豊かで、余白があるからこそ情報量は無限大そんな印象を受けました。
サラダ記念日以外にも素敵な歌がたくさん。
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恋に恋するって感じで、いいと思う。
特に好きだなと思った歌
モーニングコールの前のエチケット
ライオンの泡の中に始まる
→ライオンの歯磨き粉で歯を磨いてから彼をキスで起こすのかな、と書かれていない部分に想像が広がる。
ワイシャツをぱぱんと伸ばし干しおれば
心ま白く陽に透けてゆく
→ぱぱんの語感が良い。家事を歌に変える心の豊かさが素敵。
缶詰のグリンピースが真夜中に
あけろあけろと囁いている
→自分の中の天使と悪魔が…ではなく、缶詰側が誘惑してくるという発想がおもしろい。
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サラダ記念日、名前は知っていたけれど短歌なんて縁のないものだと思ってた。
「夫が寝たあとで」に俵万智さんが出ていて、そこでたんぽぽ白鳥が、「親は子を育ててきたというけれど 勝手に赤い畑のトマト」の一首を紹介していて、「あ、、好きかも。」と思い、すぐ購入。
しっかり理解できない(私の読解力が足りず)歌もあるが、海の描写だったり、恋心だったり。たった31文字に、こんなにありありと景色を浮かび上がらせることができるのかと感嘆した。これが短歌なのかと。
面白いなと普段読まないジャンルに触れることで感じることができた。最初に読んだ短歌が俵万智さんのもので良かった。
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俵万智による昭和に発表された短歌集。当時の人々の暮らしや表情を的確に切り取り、三十一文字に込められている。現代でも、詠まれた情景がありありと浮かぶ歌も多く、ベストセラー納得の作品集だった。
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7/6にドライブしながらラジオを聞いてたらサラダ記念日ということで俵万智さんがゲストに。短歌と俳句の違い(季語や字数含め凝縮度やコツも異なる→プレバト見てても思う)やサラダ記念日(の短歌)の誕生の経緯を話されていて興味深かった。今ではカーナビの記念日お知らせにも流れるレベルに短歌が一般に親しまれるようになったことを喜んだおられた。
本書は学生時代に大分話題になったけど当時はピンとこなかった。歳をとると昔は興味なかったもの (歴史/古典やら芸術やら詩/短歌/俳句やら) に目が向くようになり、積読だった本書を手に取る(歌集を読書というのか?)。日常や恋愛の一瞬を切り取った情景や普段何となく思っている心情を国語の教科書(古典)に出てくるようなかしこまった表現でなく、口語/カタカナで(失礼かもだが)カジュアルな感じで表現されていて、確かに刺さる。ピンとこない分からないものもたくさんあるけど、歌集初心者にもこんなものだろう。100%楽しむには知識と想像力も必要そう。あと、最初は分からなかったが、巻末の跋文を読むと著者(というのか?)の短歌は字余り/字足らずは少なくリズムがよいと。思わず読み返してみると、確かに区切れはともかく31字にまとまってるものが多い。このリズムで読むのか...と。二周めは感じ方の解像度も上がってより楽しめた。
「風になる」パートがよかった。
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人生で初めて歌集を購入。
三十一字とはかくも世界を表現できるのか。
達観しているような歌もあれば、時折若すぎる感性が飛び出してくるようで飽きがこない。それでいて世界の切り取り方、その視点の鋭さ一辺倒ではなく素人の私でも感嘆してしまう言葉の技法。
次作も必ず買おうと決めている。
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有名な歌しか知らず初めて手に取ってみた。どの歌もリズムが良くからりとしていて読みやすい。佐佐木幸綱の跋文と著者あとがきも好感を持てた。一冊の歌集で280万部超えって凄すぎる…しかも20〜24歳の頃に詠んだ歌たち。殆どの歌が字余り字足らずなく定型に収まっていた。
中でも良いなと思ったのは下記七首。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう
男というボトルをキープすることの期限が切れて今日は快晴
今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海
おそらくは来ることのない明日なら語りつくして眠らんとする
一年ののちの私の横顔は何を見ている誰を見ている
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
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あの有名なサラダ記念日の短歌だけ知ってたけど小説の文だと思ってて、小説だと思って読み始めたら短歌集でびっくりした。初めて短歌集を読んだけど57577でこれだけ情景が浮かぶものが作れるんだなあと感じた。
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1987年に刊行されてベストセラーとなった歌集で、著者が二十代前半につくった短歌を収録しています。
かざることのない日常のことばを織り込みながら、流れ出るように詠まれた歌とでもいうような印象を受けますが、それが多くの読者にこれまでの短歌とは異なるあたらしさを感じさせたのではないかと思います。ただ、本書に収められている短歌を「みずみずしい感性」ということばで形容することには、わたくし自身はやや躊躇してしまいます。
本作が刊行された1980年代は、人びとがこれまでにないほど消費社会を謳歌していた時代でした。消費による自己実現がまがりなりにも達成されつつあり、そのことが古典的なジェンダー規範をめぐるさまざまな問題を実質的に棚上げにすることを可能にしました。社会学者の上野千鶴子さえもが、のちに自己批判をおこなったものの、『〈私〉探しゲーム』において一度は消費社会を肯定することになった、そうした時代だったのです。
文学のシーンにおいても、80年代の消費社会の申し子のような林真理子や森瑤子のような女性作家が活躍しました。本書に収められている歌は、そうした時代の高揚した気分とはまったく無縁のように見えます。むしろ日々の暮らしのなかで体験する喜びや悲しみの感情を繊細な感性で受けとり、等身大のことばで率直につづった歌が多くを占めるのかもしれません。それにもかかわらず、本書の多くの歌に時代の刻印がくっきりと印されているのを見てとることは、けっしてむずかしいことではないように思います。
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初めて最後まで読んだ。短歌集なので読みやすい、が、57577の31の言葉の中に吹き込まれている世界が広い、大きい、深い!!
解説にもあるが、字余り字足らずが少なく、57577の定形型にはまっているため、リズミカルに詠めて、ノれる。
読んでいて楽しく、胸が躍る歌集は久しぶりだった。これはいい!
お気に入りの歌
江ノ島に遊ぶ一日それぞれの未来があれば写真は撮らず
→また次も来る。確信があれば写真なんて撮らなくていい。未来の可能性がもたらす安心感、今を楽しもうとする素直な気持ちが、いい!
フリスビーキャッチする手の確かさをこの恋にみず悲しめよ君
→フリスビーを投げると相手がキャッチしてくれる嬉しさ。まっすぐ投げるのは意外と難しく、またキャッチする側もセンスが要る。
キャッチする時の仕草も、そっと掴むのか、荒々しくバスっとひったくるように取るのか、人によって様々だ。
悲しめよ君 と言う意味深な第五句。
楽しく遊んでいると思いきや、悲観的な含みを持つ言葉だから、
別れる相手とフリスビーしているのかな。
私は君と別れて他の人の所へ行きたいんだけどなぁ、と心の中で思いながら、受け取ってよ!受け取って欲しい!と信じてフリスビーを投げるわたし。
2人の気持ちがすれ違っている儚さと、その間を行き交うフリスビー。いやぁ、痺れます。
楊貴妃の住まいを見れば吾のために池掘る男一人は欲しい
→中国旅行の際に詠まれた歌だろうか。
自分のために奉仕してくれる男、女性なら欲しいだろうな。国を出るとスケールも大きくなる、まさか池とは。
今我を待たせてしまっている君の胸の痛みを思って待とう
→相手が自分とのデートに遅れている。でも2人には信頼関係が築かれているから、その理由を疑ったり邪推したりはせず、ただただ待つのみ。
自分との待ち合わせに遅れてしまい申し訳なく思っているだろうな、と空いてを思いやり、その気持ちを慮りながら、待っている私。
相手を思う気持ちが綴られ、胸が温かくなる一句だ。この情感は表からは決して見えない。
言葉にしてこそ分かるんだ。
こういう風に相手を信じて、思いやれる気持ちは大切だな。
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短歌集では異次元の280万部の超ベストセラー
わけあって再読したけれども、以前読んだのはいつだっけかなぁ
少なくとも大学生がその前あたり
これのヒット以降、些細な事でも「◯◯記念日」という風潮ができた気がする
世の中への影響力がすごいと思う
そして、令和の時代になって、SNSで「いいね」の数を競うような風潮に対して
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今は「いいね」の数を競うような風潮があるけれど、これはたった一つの「いいね」で幸せになれるという歌です
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と、ツィートするあたりのセンスも含めて、言葉の使い方に魅了される
収録されている中で、個人的に好きな歌
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「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
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情報量ほぼゼロな会話なんだけど
それを確認しあえる
余計な事を付け加えずに返してくれる
そんな存在が傍にいある温かさ
今の私にはより沁みる
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★★★☆☆テレビのドラマと情報番組で取り上げられていたので、積ん読本をよそについつい買ってしまいました。こんな風に思われるっていいなぁ〜と思う歌もありました。揺れる気持ちが分かりやすく表現されていると思いました。
Posted by ブクログ
1980年代にベストセラーになり、「男はつらいよサラダ記念日」まで登場し、俵万智さんは時の人となった。
本棚の隅っこにあった単行本は赤茶けて昭和の香り、ひとり暮らし、失恋の香りがした。
同時代に地方から出てきた私は彼女の短歌に魅了された。石川啄木や若山牧水が好きだった私には衝撃だった。日常や心象風景がリズミカルに映し出されていく。
三十一文字に、言葉を切り取り、切り落とす愉しさ。子ども達にも伝えたくて、短歌づくりを一緒に楽しんだこともあった。
広島カープ サザンオールスターズ
恋のうた 父、母、弟のうた
中国で詠んだうた
久しぶりの再読 新鮮な感動!
Posted by ブクログ
・今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海
・一週間会わざりければ煮返して味しみすぎた大根となる
・愛してる愛してない花びらの数だけ愛があればいいのに
・コンタクトレンズはずしてまばたけばたった一人の万智ちゃんになる
・会うまでの時間をたっぷり浴びたくて各駅停車で新宿に行く
・「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
・いるはずのない君の香にふりむいておりぬふるさと夏の縁日
・金曜の六時に君と会うために始まっている月曜の朝
・頼もしく仕事の話する君の頼もしさだけ吾は理解する
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友人に連れられて行った俵万智展で、素敵な短歌の数々に心惹かれ、帰りにはこちらを購入し電車の中で読んでいた。
まずは短歌にちゃんと触れるのはこれが初めてで、こんなにリアリティのあるものだったのかと驚いた。
「人生はドラマチックなほうがいい」ドラマチックな脇役となる
ハンバーガーショップの席を立ち上がるように 男を捨ててしまおう
が特に好き。
時代を越えても、若い世代の考えることや恋愛には共通する点があるのだろうか、全く古いと感じなかったことがすごいなと思う。
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大学のゼミで扱われる関係で読むことになった積読本の一つ。八年くらい前に買って家の本棚に眠ったままにされていたのを引っ張り出して読むことになるとは思っていなかった。
率直な感想として、とにもかくにも読み方が分からないということである。文庫本の1ページに三首ずつ短歌が載せられている。一首一首をどう読むかもそうだけれども、この並びを小説を読んでいくように物語として読んでいいものなのか。読んでいいものなのだろうけれども、そうすると意味を追ってしまって、短歌としての一首ごとの表現である意味がなくなるような。
物語として読むのか、短歌としてその短い定型に収められたことのすごさを楽しむのかで迷った感じがある。
この曲と決めて海沿いの道とばす君なり「ホテルカリフォルニア」
空の青海のあおさのその間サーフボードの君を見つめる
砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている(p10)
最初の章「八月の朝」は、この三首から始まる。「この曲と決めて海沿いの道とばす」とあるから、彼氏と思しき「君」と、この歌を歌う語り手は、二人で車に乗っているのだろう。車を運転し、海沿いの道を「ホテルカリフォルニア」というちょっとオシャレな音楽をかけて駆けるというその風景に、どこか懐かしげな昭和から平成のカップルを思わせる。
こうして同時代の空気感は、その後の短歌にも見られるところだと思う。終始、女の子の目線から語られるこの歌集では、男の方は見られる対象として理想的な存在に格上げされているように見える。「空の青海のあおさのその間」でサーフィンをする男を、いっしょにサーフィンをするわけでもなく彼女の方はずっと見つめている。サーファーである男に対して、女は、それをくっついて見に行くだけの人としている。
この歌を歌っている視点自体が、当時の女の子の代表的な視線なのではないだろうか。
「砂浜のランチ」は、どういったランチだったのだろうか。その辺のお店で買ったサンドイッチだったのか、はたまた女子の方が作って持って行ったサンドイッチだったのか。お互いに遠慮の塊になってしまったのか、それとも男か女か、どちらかの分で手をつけることになってしまったのか。いずれにせよ、その「手つかずの卵サンド」を語り手は気にしている。何を気にしているのか分からないが、この分からないという感じが、お互いに分からないのであることを、この後の短歌が仄めかしている。
陽のあたる壁にもたれて座りおり平行線の吾と君の足
捨てるかもしれぬ写真を何枚も真面目に撮っている九十九里
まだあるか信じたいもの欲しいもの砂地に並んで寝そべっている(p11)
ここの一首目で二人のいる場所は、「陽のあたる壁にもたれて」いるのであり、ロケーションの明るさはまだ保たれている。けれども、爽やかでいかにもなカップルの様子は、後半で一気に雲行きが怪しくなる。「吾と君の足」が並んでいる様子を「平行線」と見てしまう語り手の視点は、お互いの気持ちの混ざらなさが投影されていると見ていいように思う。
その予感は、語り手の中にもあるようで、二首目では、思い出の写真を「真面目に撮っている」一方で、「捨てるかもしれぬ写真」だと思っている。三首目で「まだあるか信じたいもの」は、普通に考えて、二人の間の恋愛関係だと想像していいものだろう。
サラダ記念日は、恋歌の短歌集ではあるけれども、佐佐木幸綱が跋でも書いているように、「どこまでもからりとして、明るい」「失恋の歌」(p185)である。この失恋の歌の予兆は、冒頭の6首からして、すでにフラグが立っている。
ぼってりとだ円の太陽自らの重みに耐えぬように落ちゆく
オレンジの空の真下の九十九里モノクロームの君に寄り添う
寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら(p12)
そうした失恋の予兆は、「太陽」が、「自らの重みに耐えぬように落ちゆく」という情景としてその後も続いていくように思われる。けれども、そうした沈んでいく夕日の風景は、「モノクロームの君に寄り添う」というとてもロマンチックなカップルの風景を生み出すものである。
ここには、二人の恋が終わるという予感と、その終わりそうになっていることが、二人の恋をロマンチックにするという両義性がある。だからこそ、どことなく二人の関係の終わりを予感している語り手は、そんな恋人同士のロマンに浸りながら、「さようなら」を「いつ言われてもいい」と思えるのである。
語り手にとって恋愛は、運命的な一回の出来事ではなく、始まっては終わり、終わってはまた始まるのであろう、繰り返しの出来事なのではないだろうか。そう思っていればこそ、終わりそうであるがゆえの恋愛を楽しめるのであり、この楽しんでいる余裕が、よくない出来事であるはずの失恋を「どこまでもからりとし」たものに見せる。
向きあいて無言の我ら砂浜にせんこう花火ぽとりと落ちぬ
沈黙ののちの言葉を選びおる君のためらいを楽しんでおり
左手で吾の指ひとつひとつずつさぐる仕草は愛かもしれず(p13)
終わるものとは知りながら、終わってしまってもいいだろうという余裕が、「君のためらいを楽しんでおり」というところに詰まっているように思う。思うに女性目線と思われる語り手は、「沈黙ののちに言葉を選びおる」相手の男の様子を楽しむ観察者の視点に立っている。どっぷりと恋愛に浸かっていれば、この冷静な観察はないだろう。
そう考えると、「愛かもしれず」と言っている「仕草」に、語り手は、そんなに愛を感じてないのではないかという想像も働いてくる。この「愛かもしれず」には、どちらかというと、恋愛に心をときめかせる女の子というよりは、ちょっと離れた場所から、冷静に恋愛を観察する視線があるように思う。男の立場に立つと、なんだかいい気持ちのしない短歌であるが、もっと露骨にそれを表現している一首がある。
ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう
男というボトルをキープすることの期限が切れて今日は快晴(p25)
一気に後半の歌に飛んだが、ここに至ると、男が完全に「ボトル」に喩えられ、「キープ」されていたことが分かる。そこには、「期限」があり、期限切れは「快晴」なのである。「ハンバーガーショップの席を立ち上がるように」捨てられてしまった男が、気の毒になってくる。
ただ、一見、男を弄び主導権を握っていたように見えた語り手にも、純粋な恋心のようなものがあることを匂わして、「八月の朝」は終わるのである。
愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う
君を待つことなくなりて快晴の土曜も雨の火曜も同じ(p26)
前のところでは「男を捨ててしまおう」と言いながらも、「愛人でいいのとうたう歌手」の言葉には、「言ってくれるじゃないの」と思う。ここは、どういった心情なのだろうか。やっぱり、愛人ではだめで、本命の恋人になりたいのではないのだろうか。
語り手は、最後の一首で「快晴の土曜も雨の火曜も同じ」と言う。ここは、「男というボトル」の「期限が切れて」迎えた日が「快晴」だったことと重ねて読むべきだろう。結局その「快晴の土曜」は、「雨の火曜」と同じなのである。ここは、失恋したことに対して後悔があるとかではなく、失恋しても毎日は変わらないということを言っていると見れるだろう。要するに、語り手にとって、失恋は大したイベントではなく、日常の中に組み込まれているものなのである。
軽い恋愛を読む短歌、というのが、全体を通して思うことである。そして、その恋愛のあり方は、今もって見ると、とっても昭和最後の時代の空気感を色濃く残していて、今の若者からしてみると、俄かに共感できないものなのではないかと思う。そうした意味で、バブル時代の恋愛教科書みたいな短歌集だと思った。
Posted by ブクログ
単行本は1987年に発売され280万部の大ベストセラーとなった。
その時は、読んでいない。
「この味が良いね、と君が言ったから
7月6日はサラダ記念日」
この歌から題名が採られていることは誰もが知っている。
ベストセラーの二年後、文庫になった本書を購入して一読感嘆した。
古びて過去の遺物と思っていた短歌が現代に息吹き返したことを知ったのだ。
いや短歌はずっと生きていたのだ。
それに、少数者しか気がついていなかっただけなのだ。
短歌復権を告げる名著。
日本人は七五調のリズムが好きだ。
だから、短歌(らしきもの)は誰でもすぐに作ることが出来る。
そして、「短歌を作るぞ」と決めると、世界の見え方が変わってくる。
世界の細かいところまで視線が行き渡るようになるのだ。
作歌という目的が、視線を敏感にして、世界の様相を変えてしまうのだ。
毎日、作歌をしている人たちは、豊かな日々を送っていることは間違いない。
フランスの会社から帰任する際、リヨンの老舗日本料理店で日本人による歓送会を催したもらった。
その時、皆んなから贈られたのが、短歌の贈り物。
短歌など縁遠い、ビジネスマン、工場勤務の人たちが、全員短歌を作って贈ってくれたのだ。
これには感激した。
文章にすると気恥ずかしくて言えないようなこと、ちょっとした感動や気付き、そんなことも歌にすると自由に表現することが出来る。
そして、そこに含まれる季語には、日本と違ったフランスの四季の移ろいが確かに反映されていた。
日本から遠く離れた、日本語の通じない異国の地です作られたこれらの歌は、「現代万葉集」に含まれるとしたら「防人歌」としての区分されることだろう。
読み返すと、フランス時代が生き生きと蘇る。