あらすじ
あたしの本当の人生はこれから始まる。小説家志望のゆめは90歳の憎たらしいばばあと母親と3人暮らし。ままならなさを悪態に変え奮い立つ、19歳のヘヴィな日常。第167回芥川賞候補作。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
いやぁ、辛い痛い苦しい。
なんで自分がこんな目に、と思いながらも正論だけではどうにも出来ないし誰も助けてくれない。
だけど毎日は続いて行くのだ。
絶望の先にも絶望しかないなんて…
介護の現実が突きつけられて苦しい。自分が向き合っている介護が生ぬるく感じられるくらいだ。この程度でも腹が立ってイライラして仕方ないのに。
感動、とは全く別の「心揺さぶられまくる」だな。映画になりそう。
Posted by ブクログ
なんだか、終始、イライラしてたな〜笑笑
まず、不倫して出ていった旦那の義母を元奥さんが介護するって何よ〜〜〜。
意味わからん、絶対嫌だけど笑笑
なんで、離婚して晴れ晴れして第2の人生を、他人の元旦那の母親の介護しないといけないからよ泣。
お人好しすぎてイライラ。。。お金もないのに。。。
孫ちゃんがばあちゃんと口論してる姿に、スカッとしてその場面が無かったら途中で断念していたかも。
でも、すごく面白かった!!!
介護に奮闘する中年女性の生き様だったり、今話題のヤングケアラー問題にフォーカスを当てている具合も!
介護って終わりが見えないから辛いよね。。。
Posted by ブクログ
あくてえは、甲州弁で悪態のこと。
主人公は、祖母のことを母と一緒に介護しているが、
この祖母が曲者。
悪態をつきたい気持ちがよく分かる。
その悪態はリズミカルで、文章はするする読めるが、
なんとも苦しい。
それは悪態はついていても、祖母に対する優しさが捨てられないから…。
安易にめでたしめでたしにならないラストもリアリティがあって好き。
ただ、家族は選べないけど
せめて彼氏はどうにかならないのか…
違う人がいるのでは?と思ってしまった。
Posted by ブクログ
惜しくも芥川賞受賞を逃したけど『おいしいごはんが食べられますように』と同じくらい面白い作品だった。
何人かの芥川賞審査員が指摘するように、ばばあへの愚痴が延々と続いてうんざりするというにのも分かるがあくまでタイトルは「あくてえ」。現実的にヤングケアラーの派遣社員であくてえをつきたくなるような現実に日々生きている人は日本に少なく無いのではないだろうか。今の日本で介護というテーマは避けて通れない深刻な問題であり、それを表現するのにうんざりするくらい描写が長くても真っ当なことに思える。個人的にはさほどしつこいとも思わない。
主人公は小説家になりたいという夢がある。日々生活を営む事で必死に生きている人がその苦労から抜け出し、救われたいと願う気持ちは痛いほどわかる。
ラストシーンの後味の悪さは紛れもない今の日本の事実を突きつけられるようで痛々しいほど響く。
シングルマザーというテーマも根深い現実的なテーマだ。
一方で、まだ作者の文学的手法は成熟しきっていない気がする。今後の作品が楽しみ。
Posted by ブクログ
19歳のゆめは、小説家を目指している。家では、90歳の父方の祖母(ばばあ)を母と介護している。父と母は離婚していて、父は再婚し、子供もいる。
ゆめをかこむ登場人物がどうしようもなく気持ち悪い。ばばあと父はもちろん、中途半端な優しさで介護を強いて、イヤな役割は押し付ける母も、話の意図がかみ合わない恋人も。
最初から最後まで、本当に怒涛である。どうかゆめの進む人生が救われますようにと願ってやまない。
Posted by ブクログ
「ばばあ」の憎たらしい言動は家族にとっては我慢できないものだろうが、傍から見てる(読んでる)分には十分に笑えて、そこが救いなのかな。何も解決しないけれど、きっぱりと捨てることはないだろうこの親子にどうか長生きしてほしい。
しかし、この親父、予想以上に最低だね。こいつこそこの世からいなくなってほしいよ。クソな奴ってほんとうはたくさん生息してるんだろうね。ドラマとかでいい人ばっかりやらんでよ。鶴瓶のあの番組もいってみれば脅迫みたいなもんだよな。だめな親父を叱って歩く番組ってできないのかね。と、そんなことまで考えてしまった作品でした。
Posted by ブクログ
誰が悪人というわけではないけれど、どいつもこいつもキモいんだよ!アー!!!!!!!!と頭をかきむしりたくなる。
激しくて、苦しくて、残念ながらリアルな、地獄絵図だった。
冒頭30ページ位で延々憎まれ口を読まされ、序盤からばばあに対する嫌悪感がしっかり形成される。そしてそれが最終的に人間という生物全体に対する嫌悪感に繋がってくる。かなり危険な感覚だと思う。
老害的老人に限らず、基本的に人は汚い。
できないことをできないまま放置し、環境のせいにして逃げる、甘える。聞きたいことしか聞かず、聞きたくないことは聞こえていないふりをする。優しい人から平気で搾取する。そしてそれを半永久的に続ける。心身の余裕がなくなった時、簡単に誰かを踏みにじることができる。
物理的にも、時間が経てば内側から汚れが出てくるし、外側にも付着する。不潔。死に近づくほど赤ちゃんに戻るように知能は退化し、見た目にも死が表れてくる。
どんなに消毒して白壁にして明るく振る舞っても隠しきれない暗さがある病院のように、死と汚れのにおいがする。みんな本当はわかっているけど口に出さないタブーに触れてしまったような感覚を覚えた。
きいちゃんは優しい母親のようでいて、その呼び名からもわかるように母親の役割を放棄しており、代わりに主人公にその役割を担わせている。ばばあのことは絶対無視しないのに主人公の質問は無視できるし、そのくせピンチの時にはすがるように視線を向けてくるし、終わりのない「もう少し」の地獄に道連れにしようとする。イエスとしか答えられないこともわかった上で誘っているの、ぞっとする。
最初から最後まできいちゃんはばばあを見、親父は不倫相手との子どもを見、ばばあは親父と不倫相手との子を見ている。誰も主人公を見ていない。大切にしない。愛さない。どうしようもない人とどうしようもない環境の中、もがき苦しみ、正しいことを叫び、めちゃくちゃに泣いても、誰も見ない。聴かない。
そんな中では強く在るしかなく、あくてえをつくしかやっていく術がなく、トゲトゲしていくのを止められない。なのに勝手に大丈夫と思われて、放置され、寄りかかられ続けるこの感じ…!
そして主人公も、抱えきれない苦しみから逃れようと足掻くせいで、恋人を踏みにじる。伝え理解し合う努力を怠っていることに気づかず、相手に軽んじられていると感じてしまい、結果自分も相手も軽んじる。思いやろうともがいたりもしているけどやっぱり難しく、あと一歩他者を大事にするための力が足りない。この不完全さがいかにも人間らしい。
タイトルの「あくてえ」をはじめ、憎きばばあの言葉遣いが主人公のモノローグの中にも散見されるのが痛々しく、絆のようで呪いのようだった。すごい表現力だなと思った。遠くまで逃げてしまいたいくらい限界の環境なのに、その根っこが芯まで無意識レベルまで染み付いてしまってとれない感じ。発散の手段すら汚染されているという恐怖!
これは決して「なんだかんだ言って家族愛♡」などというハッピーワードでは片付けられない。八方塞がりで、出て行く隙がないために、地獄が循環していくのがわかる。
なのに最後はこの状況が今後も続いていくよという締め方…現実が1番のホラーということか。鳥肌ものの恐怖だった。
そして問題なのは、どの気持ち悪さも他人事ではなくて、身近に存在しているということ。自分の中にもある。これは単純な介護の憂鬱とか機能不全家族の実態とかそういうレベルを超えて、もっと全員に当てはまる怪談だと思う。
Posted by ブクログ
読み終わって感じたことは、「老い」て介護が必要な人と、仕事や家事があり尚且つ老人介護しなければならない人とは、分かっていても感情的及び感覚的に相容れないところがあるということ。それでもまた、受け入れていかなければ生き辛いということ。
この小説の「ばばあ」も長く生きてきて、自分なりの生き方がある。当然これからも同じような生き方をしようとする。が、介護している方からみれば、危なっかしいし、考え方も古くて現在では通用しないものも多い。そこで溝が生じる、
「ばばあ」は負けない、我を通す。回りが自分のことを心配し、自分のためにしていることとは分かっていても、自分のやりたいことをやらせてくれない、自分の思いが自由にならない、それが「ばばあ」を苛立たせる。だから我が儘を言う。
でももし実際に危険なことが起こったら、大事なことを忘れたら、大事なことが分からなくなってしまっていたら、ひょっとしたら大変なことになるかもしれない。
「ばばあ」は、「年だから」で逃げることも出来るが、回りの人は、起こした人間が「年だから」では許されない。
だから、「ゆめ」は何も考えず我が儘ばかり言う「ばばあ」に怒りを覚え怒鳴るのだ。
でも、この小説を読んでいると、ちょっと思う。物わかりの良い老人が本当に「いい老人」なのだろうか?物わかりの良い若い者は本当に「いい若者」なのだろうか?
ひょっとして、この小説の「ばばあ」の我が儘は「今を生きるための」意欲の表れであり、また「ゆめ」の怒りは「今を生きぬくための」主張なのかもしれないと私は思ってしまう。そして、それじゃあ、何も言わない人、全てを受け入れている人は?
「きいちゃん」は人がいい!別れた夫の母親の介護を文句1つ言わずに行い、文句言う「ゆめ」を優しく窘める。「きいちゃん」は、「ばばあ」にも「ゆめ」にも別れた「クソ親父」にも気を遣うのだ、自分の思いを殺して。ひょっとして、これは諦めているのだろうか「きいちゃん」は?自分を「生きること」を?
「ゆめ」は最後まで怒っている。「ばばあ」にも「クソ親父」にも「恋人」にも。誰に何を言っても無駄と諦めかけても、自分を「生きることに」諦めてないから。