あらすじ
「正しさは人それぞれ」といって他人との関係を切り捨てるのでもなく、「真実は一つ」といって自分と異なる考えを否定するのでもなく――考え方の異なる者同士がともに生きていくために、「正しさ」とは何か、それはどのようにして作られていくものかを、さまざまな学問のこれまでの議論を概観したうえで考える。
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Posted by ブクログ
この本を読んで一番印象に残ったのは、多様性を大切にしようとする考えが、必ずしも社会を良い方向に導くとは限らないという点である。市民運動の中でも、「女性」という集団の内部に「黒人女性」「白人女性」などの違いが見つかり、さらに細かな違いが次々と現れていく。その結果、人々はどんどん分かれていき、連帯が弱まり、運動が分裂してしまうという説明はとても印象に残った。多様性を細かく見ていくと最終的には一人ひとりの個人にまで分かれてしまい、その状態では人々がまとまって社会を変えることが難しくなるという点に納得した。多様性を強調しすぎると、人々がばらばらになり、結果として大きな権力に押さえつけられやすくなるという点が重要だと思った。人それぞれの違いを大切にすることは必要だが、それだけでは社会は成り立たない。だからこそ、何が正しいのかを人々が話し合いながら決めていくことが大切なのだと思った。
この部分を読んで、以前読んだ正欲(朝井リョウ)の内容を思い出した。社会では「多様性を認めよう」という言葉がよく使われるが、その多様性の枠にすら入れない人もいるという問題が描かれていたと思う。多様性と言いながらも、社会の中では結局「ここまでが認められる違い」という枠が作られてしまい、その枠に収まらない人は見えなくなってしまう。そう考えると、多様性という言葉は弱い立場の人にとって必ずしも有利なものとは限らないのではないかと感じた。
Posted by ブクログ
初心者向けの哲学の本として、わかりやすい。ポイントが太字で書いてあり、概念がひとことで簡潔にすぐ説明されている。哲学を復習するにはベストな本である。
徳島大学の授業をもとにしたと記載している。2025年に再度読んでみた。
Posted by ブクログ
『「みんな違ってみんないい」のか?』を読み終えて——相対主義という名の落とし穴
電車の広告で見かけた「多様性こそ力」というキャッチコピーが、なぜかひっかかっていた。この本を読み進めるうちに、その違和感の正体が少しずつ見えてきた。山口裕之が指摘するのは、現代社会が「人それぞれ」という魔法の言葉で思考停止に陥っている現実だ。特に印象に残ったのは、原子力政策をめぐる専門家会議の事例。反対派の学者が排除された会議で「科学的合意」が作られるプロセスは、まさに相対主義が権力の道具となる瞬間を捉えていた。
私たちが無意識に使ってしまう「受け取り方次第」という言葉の裏側には、意外な危険が潜んでいる。ハラスメント問題を考える時、この言葉が加害者より被害者に解釈の責任を転嫁していることに気付いて背筋が寒くなった。著者が引用する米国の「合理的人物基準」は、個人の主観を超えた社会的な物差しの重要性を教えてくれる。例えば管理職の不用意なジョークが、特定の属性を持つ人々に与える累積的ダメージを計る物差しがこれにあたる。
科学の歴史が教えてくれたのは、正しさが一夜にして生まれるものではないという事実だ。地動説が定着するまでに要した300年という歳月は、現代の気候変動論争やAI倫理の問題にも通じる。重要なのは、ニュートンが予言した「海の潮汐」のように、時間をかけて事実が浸透していくプロセスを信じる忍耐力かもしれない。
この本から学んだ最大の気付きは、対話の放棄が最大の暴力になり得るという逆説だ。SNSで簡単に「ブロック」できる時代にこそ、私たちは異なる意見と向き合う訓練が必要だと痛感した。職場の会議で「この決定は多様な視点を反映しているか」と問う習慣、ネットの議論で反応する前に24時間待つ自制心、そして歴史の教訓を現在に投影する想像力——これらが真の多様性社会への鍵だと理解した。
最後に、色彩認識の研究が心に残っている。虹の色の数が文化によって7色だったり5色だったりする事実は、人間の認識の柔軟性を示すと同時に、網膜の構造が普遍であるという生物学的根拠も教えてくれる。違いを認めつつ共通基盤を見出すこのバランス感覚こそ、混迷の時代を生きる術なのだろう。次は職場のダイバーシティ研修で、この気付きを共有してみようと思う。
Posted by ブクログ
「みんな違ってみんないい」という金子みすゞの詩を例にあげながら、「正しさは人それぞれ」という言説が流行っているというくだりがあったが、その2つはイコールではないのでは、と思った。
それぞれが「よい」と感じることと、それぞれが「正しい」と思うことは違っていて、必ずしも正しいことがよいことにはならないし、逆も然りである。
そのうえで、よいことは人の趣味嗜好の問題でありそこの多様性は認めてよいと思う、と書きながらふと思ったのだが、よいことの中に正しくない(と一般的に考えられる)ことが混ざってきたらどうなるのだろうか。
たとえば、朝井リョウさんの『正欲』のなかでは、特殊な嗜好の人たちが描かれている。
嗜好にも正しさがあるのか?というのがまさに『正欲』メインテーマだと思っていて(「正」欲ってネーミング秀逸だな)、そこの境界線はかなり曖昧なのではないだろうか。
いわゆるイケメンではない人の顔がタイプな人がいたとして、その人は「あー、そういう人もいるよね」で済まされると思う。
では、「え?これに興奮するの?」という特殊性癖な人がいたときに、それって普通に受け入れられるのか?そこの正しさって誰が決めるのか?それについても話し合いで決めていくべきなのか?嗜好についての話し合いって成立しうるのか?
大前提、筆者が主張する内容には概ね同意である。
みんなそれぞれの方向を向いていると連帯できず、ともすると自己責任として放置されるというのはその通りだと思っていて、だからこそ正しさってなんだろうというのをめんどくさがらずにすり合わせていく必要があるよね、というのはその通りだと思う。
一方で、正しさについて話し合うべき対象範囲をどう考えるかは、論点があるのではないかなと思った。それこそ、「正」欲って話し合いで定義できるものなのか?していいものなのか?と疑問に思う。
そして最後に、こういう新書は個人的に読むのがすっっっっっっごく苦手で、途中で飽きて最後まで読み終えられなかったり、理解しきれないことが多々あるのだが、山口さんの本はしっかり読み切ることができた。
100%理解しきれたかは正直不安も残るが、最後まで興味深さを維持しながら読み終えることができて感動した。
「おわりに」に記載されている謝辞の文章を読むに、とても素敵な方なのかなと思ったので、また機会があれば著書を拝読させていただきたい。