あらすじ
カバラ、占星術、タロット、錬金術、妖術、サバト、黒ミサ……俗に黒魔術と称されているオカルティズムをめぐってさまざまなエピソードを紹介したエッセイ集。一九六十年代に発表された本書は、刊行後強烈なインパクトを与えたことでも知られ、このジャンルの書物が続出するひきがねとなった先駆的作品である。
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Posted by ブクログ
分類が難しい笑、読みました。手帖シリーズは初めて。
読んでいて、どこまで"本当"なのかという考えはずっと付きまとっていて、全てと言わないまでも、いたるところで澁澤にからかわれているんじゃないかなという気持でした笑。
読んだのはこの表紙ではなく、バフォメットが表紙の版です。(あとがきでまたもや三島を紹介しています。「いまは亡き三島由紀夫氏はこれを「殺し屋的ダンディズムの本」と嘆賞したものであった」)
「カバラ的宇宙」内のZodiac signs の成り立ちとか…笑
「夜行妖鬼編」
…人間の女と交わる男性夢魔は、男が睡眠中に洩らした精液を取って使うと考えられているので、生まれた子供の父親は、はたして母親と衾をともにした悪魔インクブスであるか、それとも精液を取られた男であるか、という神学上の重大問題が生じる。この点について聖トマスが、真の父はインクブスではなくて、遺精した人間の男の方だとはっきり言っているのは興味ぶかい。(p.70)
いや、興味ぶかいじゃないんよwwってなってました笑、もはやふざけてるでしょ、みたいな気持ち笑。どういう思考回路で夢魔は人間の精液使うんだよ、不合理すぎでしょと思わないの中世の人々~~
…そのやり方がいかにも敏捷なので、破瓜にもいたらず、原料は処女の体内に達するであろう。処女はみずからそれとは知らずに、この原料を暖め育てるであろう」
これは容易に聖母マリアが孕んだ子が神の子だったのか?という発想に繋がるものなのだなあ~面白い~
…パラケルススは人間が、目に見える地上的な「物質的物体」と、目に見えないエーテル状の「星辰的身体」と、人間内部の聖霊の発現ともいうべき「霊的身体」と、三つの進退をもっていることに注目する。そして夢魔という現象も、要するに人間の想像力、つまり「星辰的」素質からつくり出されるものであることをはっきり認めて…近代の精神分析が、夢魔現象をヒステリー性の厳格と見なしている点とも、これは原理的に一致する。たとえばゴヤとか、ボッシュとか、ポオとか、ロオトレアモンとかにおけるような、あのすぐれた想像力による芸術作品も、人間の弱さ醜さから生じた、こうしたさまざまな夢魔たちの悪戯によって、触発され鼓舞されたことは申すまでもない…(p.78-9)
読んでいる本がいろいろ重なってきていて面白い笑
「星位と予言」
占星学とは、いわば宇宙を精密な一個の時計になぞらえて、天界の歯車装置を動かす法則発見しようとする秘術である。この時計の文字盤は、星々をちりばめた天球であるから、まず何よりも星の運行の観察が大事である。天界の秩序は一定不変であるけれども、人間の運命はつねに変転きわまりないように見える。しかし、はたしてそうであろうか。人間の運命も、宇宙の歯車装置と絶妙な連関があり、その誕生も、その死も、時計のように正確に、数学的に、あらかじめ決定されているのではなかろうか。ーこれが占星学的認識の成立する第一歩である。(p.156)
「ジル・ド・レエ侯の肖像」この章が一番面白かった…!
…彼にはもうひとつ別の動機、すなわち、教会音楽に対する、ほとんど熱狂的な惑溺ぶりがあったのである。おそらく彼は、聖歌隊の少年合唱を、肉感的な逸楽として聴いていたにちがいないのである。…ある種のひとびとにとって、教会音楽は色情的な恍惚感を誘発する。神秘主義の陶酔は感覚的な陶酔に通じるのである。クラフト・エピングは『性病理学』のなかで、人間的な愛欲も宗教的な神秘主義も、同じく無限の探求という共通の類縁関係によってむすばれ得ることを認め、次のように書いた。「宗教的感覚も性的感覚も、その発展の極限に達すると、刺戟の量および性質について相似をあらわすものである。したがって、それらはある条件のもとでは置換可能であり、もし必要な病理学的条件があれば、両者とも残虐性に変化し得るものである」(p.219-220/聖女と青髭男爵)
…ジルはそうした騒ぎを気にももとめず、夢遊病者のような眼つきで、したたる血をはらおうとするかのように、自分の両手を眺め、汗みどろになって話しつづけた。告白がおわると、がっくり膝まずき、身をふるわせて泣きながら、「神よ、あわれみと赦しを与えたまえ」と哀訴した。
こうして悪魔に後半生を捧げた希代の殺人魔は、最後の瞬間にふたたび、あのジャンヌ・ダルク崇拝の神秘主義者に立ちかえり、神の慈悲を求めながら、喜んで火刑台にのぼったのである。(p.274-5)