あらすじ
なぜ、アントニオ猪木は人を惹きつけるのか――プロレスファンでなくても知っている、その圧倒的存在感と魅力の根源を、これまでの人生から徹底検証する。デビューから60余年、リングの内外で起きた“事件”、世界中の強豪選手を相手に闘った姿、政治の場で示した抜群の行動力……その時々の猪木の行動と発言を精緻に描写する。ひとたび興味を持てば「猪木に魅せられ、心を奪われてしまう」理由が、本書で明解に!!
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Posted by ブクログ
アントニオ猪木、現在の世界的なプロレスの主流となるファイトスタイル(ストロングスタイル)を確立した功労者であり、またカリスマ的存在。
個人的には昔、六本木にあったアントンリブに猪木夫妻(倍賞美津子)が入って行くところを目撃したことがある。また学生時代には初代タイガーマスクデビュー時のテレビ朝日(新日プロレスを放映)でADバイトもやっていた自称プロレスファンの私である。
以下は備忘録。
・猪木が好きなロウソクの言葉
「私は、もうじき死ぬ。身を削って、苦しみと悲しみの中で、灯を作り出している。でも燃え尽きるまで、周りを照らして生きたい」
・日本プロレス時代、馬場と猪木の対戦成績は、馬場の16戦全勝
・新宿伊勢丹前襲撃事件
1973年11月5日、倍賞美津子と伊勢丹で買い物後の猪木はタイガー・ジェット・シンらに突然襲われる
・ケガが付きもののプロレスラーは保険に加入しづらい
ただし、1987年10月4日のマサ斎藤との巌流島対決では億以上の生命保険がかけられた
・その巌流島対決の2日前、猪木は16年連れ添った倍賞美津子と離婚していて連日39度の高熱で苦しんでいた
・対戦相手のマサ斎藤は、1985年4月米国ウィスコンシン州で警察騒ぎを起こし、1年7ヶ月刑務所の中にいた
・彼の得意技、監獄ロックの命名はその流れ
・巌流島対戦はスリーパーホールドで絞め落とした猪木の勝ち、プロレス史上最長の試合時間は2時間5分14秒
・1966年11月21日板橋暴動事件(後のWikipedia参照)
・1969年7月2日ワールドプロレスリング放送開始
・1981年9月23日、国際プロレス軍団との抗争でのラッシャー木村の「こんばんは」マイクパフォーマンス
・「週刊プロレス」の2013年企画〈後世に残したい試合〉では、1位は武藤敬司vs高田延彦(1995年10月9日)、2位は三沢光晴vs小橋健太(2003年3月1日)、3位は小橋建太vs佐々木健介(2005年7月18日)、4位は猪木vsハルク・ホーガン(1983年6月2日)、5位は猪木vs藤波辰爾(1988年8月8日)
・猪木の異種格闘技戦は16戦13勝3分け(引き分けは、モハメド・アリ、ベール・ペールワン、ウイリー・ウイリアムス)
・1983年6月2日の対ハルク・ホーガン戦での「猪木失神事件」は猪木の演出だった!?
・勉強嫌いだった猪木少年は学校は遅刻の常習犯、でも弱い者いじめには敢然と立ち上がる正義感の強い子
・一億円挙式で有名な倍賞美津子との結婚式費用は、日本プロレスを除名処分されたため、個人の負債に。その時の倍賞美津子の言葉。「バカねえ、アントン。お金貰ってから辞めればよかったのに(笑)。心配しなさるな。あなた1人くらい、私が食わせてあげる」それから16年後の離婚後のコメント。「離婚した理由は言いたくないんです。一度自分が責任持って好きになった人の悪口は言いたくない」
・1972年2月新日プロレス旗揚げ時でのメンバーは、猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰爾のみ
・1973年、日本プロレスのエースだった坂口征二が日本プロレスを辞めて新日プロレスに合流してから潮目が変わる
・新日プロレスの3大暴動事件
①1984年6月14日蔵前国技館
猪木vsホーガン戦に長州力が乱入
②1987年3月26日大阪城ホール
猪木vsマサ斎藤戦に海賊男が乱入
③1987年12月27日両国国技館
猪木vsベイダー戦で2分49秒での猪木のフォール負け
・猪木を形成した祖父の教え
「やるなら世界一になれ。それがたとえ乞食でも」「心の貧乏になるな」
そして、2022年10月1日永眠。合掌。
以下は、簡単なプロフィールです。
アントニオ猪木(猪木 完至1943年〈昭和18年〉2月20日 - 2022年〈令和4年〉10月1日)は、日本の男性プロレスラー、実業家、政治家。位階は従四位。
神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。複数の結婚歴と離婚歴があり(事実婚を含めて4回結婚している)、二番目の妻は女優の倍賞美津子である。倍賞との間に娘が一人いる。1991年にイラクのカルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン・イノキ」。ただし、ワシントン・ポストによると本人は仏教徒とも自認しており、葬儀も仏式で行われ、「闘覚院機魂寛道居士」の戒名も与えられた。
横浜市立東台小学校に入学した猪木は3年生のころから急激に体が成長し、学校でも「先生と相撲を取っても勝つ寛至君」と有名な存在になっていたが、その大きさゆえに周囲からからかわれることも多かった。
また、運動神経も鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていた。
12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。ブラジル移住後は陸上競技選手として1958年、1959年の全伯(全ブラジル)陸上競技選手権少年の部に出場、砲丸(投げ)、円盤(投げ)の二種目に優勝するなど、身体能力を発揮して活躍した。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。
東京プロレスを設立:
1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場や吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱(太平洋上の略奪)。帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表。10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。
しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる。
馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決は当時タブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から1971年(昭和46年)12月13日に除名・追放処分を受ける。同年11月2日、女優の倍賞美津子と京王プラザホテルで結婚披露宴を開く。
新日本プロレスを設立:
日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。
異種格闘技戦:
新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。
中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したが、その後クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。
猪木監禁事件:
1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手」を設立した。
同年、漫画原作者の梶原一騎により猪木が監禁される事件が起こった。梶原は、暴力団関係者を使って猪木を大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出し、銃を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。
IWGPを立ち上げ - 世代交代:
1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した。
この頃、猪木が自身のビジネス(「アントン・ハイセル」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスクや長州力の退団騒動につながって行く。(Wikipedia)