【感想・ネタバレ】当事者は嘘をつくのレビュー

あらすじ

「私の話を信じてほしい」哲学研究者の著者は、傷を抱えて生きていくためにテキストと格闘する。自身の被害の経験を丸ごと描いた学術ノンフィクション。

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Posted by ブクログ

毒親論にも適用されうる、回復の物語の外側の生を肯定してくれる一冊。泥沼のような状況下で加害者を「赦す」。一見非合理に見えるこの行動こそが、時間の流れを伴う継続的関係を見据えた、責任を伴ったものであること。こうした言説こそが当事者を救いうるのではないか。タオを生きる我々は割り切れない曖昧さを抱えるものなのである。

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2025年03月05日

Posted by ブクログ

同意のある性交で性暴力を受けた筆者の壮絶な心象が、誠実な言葉で綴られている。同様の経験をしない私には、初めて知ることがたくさんあった。性暴力被害はドーナツの穴のように、存在の証拠でありながら語りえないものであること。相手を殺さないために赦そうとしたのは、無力感の反転だったこと。社会制度改革に関わるなかで一時的に自己の問題から離れられたこと。真実より物語(例え画一的だとしても)が必要だったこと。
印象的だったのは、支援者が被害者を「珍しい生き物を解説」したり、力を奪っていくように感じ、必要な支援はエンパワメントだ、と猛烈に憤った点。弱き存在として「矮小化」されたという感覚や、回復させたいという「支援者の欲望の匂い」は、私自身が関わっている国際協力の現場でも起こり得ることだと、ドキッとする。
最終的に筆者は水俣を研究することで当事者から離れ、自分が当事者として研究し語ることで後の当事者の道標になることがある、と確信する(というふうに、とりあえずこの本を締めている)。
非常に読み応えがあったのだが、少し残念だったのは「赦し」や「修復的司法」の可能性については、宙ぶらりんのままになっているところ。私の読みが甘いのかもしれないが、デリダの引用など非常に興味深かっただけに、この筆者の(現時点での)結論は何なのか、というのを知りたかった。

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2024年10月18日

Posted by ブクログ

NHKの放送を観て本書を知り、一気に読みました。

トラウマとなる体験を通しての心の動き、

言葉にできない、正しく説明なんてできない、
記憶が飛んでいる、
解離、、

深刻さの矮小化。

性暴力と性被害。立証が難しいことに震撼

殺すか、赦すか。死ぬか。

たまたま被害に遭ってしまうだけで、取り返しのつかない深刻なダメージになる、、こわい。死につながる。

私は全然想像できてなかった。
たとえ前もって知識があっても、いつ大切な人が、そんな被害に遭うとも分からない。

そこからのサバイバル。
自助グループの存在。
同じ立場の人の存在が、自分の内面に入ってくる。
自分の外に目を向けることにもつながって、、

でも、傷は癒えてない癒えてない

赦しという選択肢、、そんなのがあったんだ

北欧の支援制度すごいなあと。。


著者の語りが率直で、泣きつつ時に笑いつつ、私もその感情を追体験している気持ちで読ませて頂きました。

著者のケータイ小説も、、読んでみたいです。。


怒りというのは、原動力になるけど、
フラッシュバックとはそんなにリアルで何度もくるものなんだ、、とか、
支援者や医師からの2次被害。


人はあっけなく死んでしまう。。
残された人の思い、、





今日NHKのうずまきファミリーの番組も観たんです。いつでも近くには死がある。

「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」という森川すいめいさんの著作も読んでいるところで、、

死なないためにどうするかというのは
とても関心がある。




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2024年06月15日

Posted by ブクログ

「あなたには分からない」と、その人(たち)をはね除けることは、結局のところ「私のことを分からないあなたのことが、私は分からない」と自分の心の不透明な部分をはね除けることと等しいのではないだろうか。
自分の心の中に空洞が残るのは、正にこういった所作によるものかもしれんと思われた。

「私のことが分からないあなたのことを私は知りたい」なぜならそれが、「私を知る」ことに繋がるからだ…という路があるような気がするな。

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2023年08月21日

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「当事者は嘘をつく」というのは著者が、体験した性被害の経験について語るとき、自分は嘘をついているのではないか、という考えが拭えないということを意味したタイトルである。

性被害にあった人間が修復的司法というケアの方法を通してどのようにサバイブしていけるのか、ということを主軸に、そこから無限に枝分かれするさまざまな重要な事項へ触れていく。それらのことは読者自身が何らかの被害体験を持っていなかったとしても、特別に響いてくるものがある。なぜなら、それは誰もが経験する「傷つけること/傷つけられること」に結びついていて、それらをどう扱うかということをこの本は語っている。

また、自助グループでの体験やケータイ小説を書くといった、いわゆる医学的なキュアの方法に頼っていない(精神科医に裏切られた体験への記述もあるのだが…)著者のユニークな足取りは、取っ付きやすく、力強く、それでいて誠実な、彼女にしか描けないラインであると感じた。その感覚は「急に具合が悪くなる」を読んだ時の、この物語はこの人にしか書けないものなのだという共振の感覚があった。つまり魂本(ソウルブック)……

ケアとキュアは違って、前者はより回復者の主体性、当事者性を担保したものであるという記述も重要だった。そして著者は、被害者の近くで支援者として関わる人々の中に、観察的な立場から二次被害的に被害者を扱う人間がいることを厳しく指摘する。

ユマニチュードに関する記述などもあって、自分が関心を寄せるトピックに関する記述が多数出てきた。

傷ついた人々(自分も含めて)がいかにして自分のことを語り、生き直すことを始めるのか、そしてその時に放つかがやきのようなものに、自分はもしかしたら惹かれているのかも知れないと思ったりした。

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2023年07月11日

Posted by ブクログ

少し間をあけてだが、一気に読んだ。
薄々感じている私たち支援者としての欺瞞を、まざまざと突きつけられた。痛みを感じながら、むしろしっかり突きつけられたかったのだと読後に気がつく。
私の想像を越える痛みを抱えながら、著者は自身の被害体験と研究者としての揺らぎの体験を世に出してくれた。果たして支援者である私(たち)はそれにどう応えられるのか、宿題をもらった気がする。

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2022年07月22日

Posted by ブクログ

ショッキングなタイトルだ。性暴力被害をうったえる者は、必ずと言っていいほど「嘘を言っているのではないか」という疑いにさらされる。だからこそフェミニズムの運動は、まず被害者の言葉をそのまま受け止めることを何より重視してきた。だのに当事者が、自らの語りを疑っているというのだから。
著者にとって性暴力被害とは、「わたしは真実を述べる者である」と言いうるような語る主体の枠組みを崩壊させるような経験としてあった。それを著者は「思考の海で溺れていた」とも表現している。言葉をまとめあげて自らの語りにするような枠組みが崩壊してしまった状態、といえるのだろうか。そして、そのような激しい苦痛のただ中においてのみ可能なものが「赦し」なのだと。
あまりにも直観に反する議論にも聞こえる。正直、デリダの議論も、著者の主著もまだちゃんと読めていないわたしには判断が難しいのだが。それでも著者にとってデリダが提示した「赦し」の可能性は、たとえ実際の加害者にはまったく届かないものであったとしても、むしろだからこそ、その後の研究の原動力になっていったという。
だがその道はストレートではない。むしろ難解な「赦し」論以上に、本書でとても興味を惹かれたのは、いったんばらばらになってしまった「わたし」が語るための枠組みを取り戻す助けとなったのが、自助グループにおける「わたしたち」のための「回復の物語」だったということだ。「わたし」の固有の経験を語ろうとすることを放棄し、「わたしたち」のための、ある意味では型にはまったストーリーをともに作りだすことが、自分自身が生き延びるために必要な物語を作る方法であったのだというのである。人が生きるためには、「わたしの物語」といえるようなものが必要なのだ。それが「真実」であろうとなかろうと。本書を読んで、もっとも深く心に残ったのは、このことだった。
そしてもうひとつの重要な点が、支援者や研究者に対する著者の怒りである。引用されているマツウラマムコの論文が指摘するように、被害者を無力化する支援者の傲慢は、わたし自身、性暴力被害者支援の末端に少しだけ関わっていたこともあるから、そういう面があることを知ってはいた。しかし、その暴力性の本質について、自らを開示することなく、当事者にかわって性暴力や被害者について「真実を語る」ことができる自分たちの特権性を疑わない、その主体性の位置にあるということを、あらためて考えさせられる。
被害者が共同作業を通して創り出す「回復の物語」に対して、著者は、支援者たちが支配する語りを「回復の言説」と呼んで区別している。首尾一貫した後者の言説は、「取り乱し」混乱する当事者が語ろうとする力をふたたび奪いとってしまうからこそ、拒否されねばならないのだ。
そのように考える著者もまた、自らが研究者となり、また当事者とはいえない水俣病の問題に関わっていくなかで、自分が「わからない」非当事者でもあるということとの折り合いをつけていくことになる。
他者の語りを奪い取ってしまいかねない支援者や研究者の特権は、たぶん究極的には、研究者だけの問題ではないとも思う。取り乱して首尾一貫した語りのできない位置からの「あなたにはわからない」という絶望/切望を「わたし」は聞けているのか、自分の取り乱しを受け入れられるのか。著者の勇敢な自己開示に問いかけられる。

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2022年07月29日

Posted by ブクログ

すごい。ぐいぐい読ませる文章に圧倒され一気読み。当事者、支援者、研究者、サバイバーなどクルクル立ち位置が変わっている。言語化するのに大変だったのだろうとしか言えない。私から言える事は最後まで読んだという事だ。大前提として、小松原さんという人に感謝したい。

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2022年05月07日

Posted by ブクログ

「私の話を信じてほしい」自分の記憶が正しいのか、もう自分でもわからなくなった筆者は精神的に不安定になり、自暴自棄にもなる。助けてほしい、最後まで話を聞いてほしい、そう思う気持ちに触れると、読んでいるこちらも心が震えてくる。

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2022年05月07日

Posted by ブクログ

響きすぎて、読み終えてからしばらくの間、言葉が出てこなくなりました。
「共振」が起きていたのだろう、と思います。

「人間の記憶は、秩序と混沌の両方があることで完全になる」という言葉に深く納得しました。
言葉にできることと、言葉にならないもの。どちらもあっていいし、どちらもあるのが人間なのだ、と受け取りました。

「弱さの源泉はどこにあるのか」を探っていく、という問いに、「その観点はなかった!」と新鮮な気持ちになりました。安心安全が確保された場でないと探りにくいものですが、それを知ることができれば、自分の身を守りやすくなるだろうと感じました。

先輩や同僚のお話を聴いているような親しみや、読者への思いやりを感じる一冊でした。

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2022年04月10日

Posted by ブクログ

どんなときによみたい本か?

「当事者」という言葉に違和感を覚えた時。
当事者体験全般に興味を持った時。

【感想】
感想を語るのが難しい本だと感じた。
なぜならこの本は著者が自分に疑い続けた経験を記録しているからだ。
当事者体験を持つ著者は何度も「当事者は嘘をついているのではないですか」の問いかけに葛藤していく。それと同じように読者である私もこの感想は本当だろうか。ご都合主義であったり、表面的な語りではなかろうか、という疑問を自分自身に抱いてしまうのだ。
 
なぜ当事者体験は似た定型文で語られるのか、のひとつの答えを得る事ができる。


葛藤の記録としてはすごく丁寧に描かれているが、当事者ではない故になぜこの本を読んでいるのだろうかという気分になった。
それは多分逃げたくなるくらいリアリティをもって書かれているからだろう。

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2024年08月10日

購入済み

知らなかった視点

当事者が自身の体験の真実性に疑いを持つという視点は全くもって考えもしなかったことです。
確かにナラティブアプローチのような認知療法は、人間のそういった認知の特性を利用したものなのだろう。
ただ、その仕組に気がついてしまうと、アイデンティティーの維持が難しくなりそう。そこを乗り越えるにはどうしたら良いのか。著者の今後に注目したい。

#深い #タメになる

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2024年06月05日

Posted by ブクログ

当事者性ってなんだろうと、非当事者だったらどこまで行っても理解することなんか無理だと思っていたけど、
それが著者の言葉でちゃんと書かれている。
私はなんの当事者でもないけど、この本を読んで良かったと、単純に思った。
著者は強い人である。

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2023年09月26日

Posted by ブクログ

性被害サバイバーの著者がサバイバーとして自らが生きていく為に性被害についての向き合い方を学び研究者となるなかで研究者になったからこその葛藤が生まれるというエッセイ的な自伝(?)。性被害者としての自分と性被害について論文を書く研究者としての自分、それぞれが両立し得るのか?研究者でありながら性被害サバイバーと公表していいのか?その悩みについて、勿論性被害サバイバーとして生きてきた苦しみについても書かれていて性被害というものが1人の人生をどれほど変化させてしまうものなのかという事を感じずにはおれなかった。上手く言えないのだが人の内面にどれ程の傷があるのかは想像するしか出来ないし、想像が当たっているかなんて誰にもわからないのだろうなと思ったりしていた。

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2022年11月05日

Posted by ブクログ

性暴力の被害当事者である筆者が、加害者との対話によって「赦し」について考え、また、絶対に分かることのできない「支援者」「研究者」とのかかわりの中で苦しみながら、かれらとどう関わり、当事者としてどのように生きていくのかを考える。
当事者としての立場を明らかにして研究を行うのか、立場を隠しながら研究を続けるのかについての葛藤も興味深い。
また、水俣病との出会いの中で自らの非当事者性、他者性に気付き、それが翻って自らの研究態度に影響を与えていく。

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2022年09月20日

Posted by ブクログ

加害者との闘い、支援者との闘い、当事者との連帯してそれぞれへの赦しと距離を検討して何も手に入らなかった著者が、自分と闘う現在進行形の物語(ナラティブ)と捉えた。その勇気に心を打たれた。

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2022年07月11日

Posted by ブクログ

「当事者は嘘をつく」という題で書かれた本だが、こんなに嘘のない本はない。
当事者が語る言葉だろうがなんであろうが、事実の再現は不可能だという大きな壁に著者が一人で責任を負い、その葛藤をそのまま、いかに嘘をつかずに書くか、七転八倒しながら自分に誠実であろうとしている。

読みやすい文体だが、著者がそうやって全身全霊でぶつかってくるので、読むのは苦しく重く、ぐったりする。

読み終わった後、これを書くメリットも大きいだろうが、デメリットもまた少なからずあるだろうと思った。もしできるなら、それらから、この著者を守りたいような気になった。そんな必要は無いのは承知の上で。

ノルウェーでの、支援者が「わかっている」という経験をした著者がこう思うくだり。
「私がこの国に生まれていたら。オスロのメディエーションセンターに駆け込んでいたら。かれらは私の加害者と話したいという気持ちを理解し、どうすれば対話が可能であるか一緒に考えてくれただろう。もし対話が不可能だったとしても、その悔しさをわかちあってくれただろう。彼を赦しても、赦さなくても、その話を聞いてくれただろう。そうしてくれる人がいるだけで、十分だったのに。」
「単純な話だった。私が日本で痛切に支援者に『わかってほしい』と思ってしまうのは、かれらが「わかってない」からである。支援者が『わかっている』のであれば、そもそも私の『わかってほしい』という葛藤も生まれない」
彼女の苦しみの何割かは、この日本に生まれたことにある。日本に生まれた女性としてここは著者に共振した。

そして、水俣に研究を移した著者は、初めて当事者であることから離れる。
そこで、当事者以外が全部のことを知るのは無理だ、という当たり前のことに気づく。
「『あなたはわからない』もまた、『わかってほしい』の裏返しで、相手に対する期待である。『当事者』は『当事者でない人』に対する、その期待を捨てていくことで、生き延びていくのかもしれない。」

水俣は奥深い。水俣だからこそ、著者に教えることができたのではないか。他の研究では、こうはいかなかったと思う。

ところで、読書をする中で、こうやって水俣が浮上することがある。こういう形で。その度、石牟礼道子の存在が浮かび上がる。
水俣は何なんだ?
水俣で何があったのか、どういう支援と研究がそこにあったのか。
もしかして最もあるべき理想の人間の在り方が存在したところなのかもしれない。「赦し」が果たしてそこにはあったのか。
「魂込め」(まぶいごめ)の風習は沖縄だけでなく、水俣にもあるということを初めて知った。これもまた、「赦し」に限りなく近いところにある心性なのかもしれない。
今回もまた、著者の軌跡から、水俣に近づいたように思う。

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2022年06月07日

Posted by ブクログ

性被害者を名乗りでること、こうした被害者を支援する人たちとの関係性、被害者同士の支援などなど、普段考えもしないようなことを考えさせられる本であった。著者の研究者としての視点と被害者としての当事者性のバランスが見事に取れている。読んでいて、著者の当事者としての苦悩がダイレクトに伝わってくる。ある意味固唾を飲んで読み進めた。当事者ならではの視点、感覚について、考えさせられることが多かった。単なる被害者の記録ではなく、第三者的な視点がうまく組み合わせられている稀有な本だと思う。

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2023年08月16日

Posted by ブクログ

この作者は性暴力被害者なのか
冒頭にレイプとあるが
私の感覚では作者はレイプなどされてはいない
DVは事実であると思う
恋愛でそういう関係を持ったのではないのだろうか
同意の上でそういう行為に至ったと文中にある
読んでいると作者自身が性暴力被害者であるように感じてしまった
繰り返しになるがDV被害者は紛れもない
私の読み方が浅いのかもしれない
性暴力被害者が世の中に多数存在する事実は私自身は直接確認してはいないが事実だと思う
話は変わるが、当初受けた精神科医の診察
この医者は専門家であることを疑ってしまう
自分の価値観のもとに患者を誘導しているのではないか
哲学については、私のレベルではよくわからなかったというのが本音だ
作者が自分の経験を開示することで、被害者が前向きに生きていく道標になる
これは流石であり、共感した

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2023年05月16日

Posted by ブクログ

●目的
性被害者の心理について理解する
●内容
・性犯罪ではなく、性暴力。
・被害者は真実を語らない
・修復的司法という世界があり、被害者をサバイバーとして助けて行く
・犯罪被害者という観点で水俣病患者のドキュメンタリーにも触れていた
・ジャック・デリダが著者の先行研究者
・「赦し」がサバイバーにとって重要なキーワード
●感想
性暴力被害や水俣病など、社会問題として扱われるものの被害当事者が生き延びて行くためにさまざまな葛藤との闘いがあることに重たいものを感じた。

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2023年03月29日

Posted by ブクログ

腑に落ちるような落ちないような。たぶん、私は基本スタンスとして「真実か嘘か」ではなく「どう語ったか」を重視したいと考えているし、当事者という言葉自体学術研究上の記号であってそれが本人にとってどうあるかは別次元の話だと捉えているからだろうな。
自身の暴力性・権力性を認識するというのは研究やら支援やらに関わるのであれば必要だと思うけど、そこを「おこがましさ」とか「罪悪感」とかの綺麗な言葉にしていいんだろうかという思いはある。というか昔読んだ民俗学研究の論文にそういう話あったような。

当事者であり研究者である人がカムアウトすべきかという問題はまだ自分の中で整理できてない。当事者であることを隠して研究をするのは卑怯かという問いであれば、研究者としての暴力性を認識して引き受けているならええんちゃうのとは思う。
当事者であることをカムアウトすることによるバイアスとか研究者である人格に被害者性を帯びることであれば、一研究者として書いた論文に対して「あなたは当事者だから」という側と闘うなり受け容れるなりする気力があるなら、って感じかな。正直、そういうこと言う人におもしろい研究者いないイメージなので相手せんくてもと思っているけど、そのことによって傷つくことは弱さではないので、耐えろというつもりもない。ただ、当事者であることを明かした上で論ずるなら、当事者性と研究者の暴力性を両方自覚して書かなきゃいけないからその分難しくはなるよね、と思う。どちらかだけで書くほうが、遥かに楽に書けるとは思う。

自分自身が当事者であることを明かした上で研究をするべきか、という話を昔某研究者と話した記憶をうっすら思い出した。たしか、結論は、明かすも明かさないも戦術、だった気がする。
明かす痛みも明かさない痛みもあって、それはすべて個人である本人が負うしかないというのが少なくとも今の日本の現状。それが社会構造的な問題であるということはまた別の話。

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2023年03月08日

Posted by ブクログ

性暴力(犯罪とは言い難い)の被害者が、自助グループに関わり、精神科医師に反発し、修復的司法の研究者になった自伝。
90ページまで読んだ。

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2022年11月08日

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