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「私の話を信じてほしい」哲学研究者の著者は、傷を抱えて生きていくためにテキストと格闘する。自身の被害の経験を丸ごと描いた学術ノンフィクション。
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Posted by ブクログ
毒親論にも適用されうる、回復の物語の外側の生を肯定してくれる一冊。泥沼のような状況下で加害者を「赦す」。一見非合理に見えるこの行動こそが、時間の流れを伴う継続的関係を見据えた、責任を伴ったものであること。こうした言説こそが当事者を救いうるのではないか。タオを生きる我々は割り切れない曖昧さを抱えるもの...続きを読むなのである。
同意のある性交で性暴力を受けた筆者の壮絶な心象が、誠実な言葉で綴られている。同様の経験をしない私には、初めて知ることがたくさんあった。性暴力被害はドーナツの穴のように、存在の証拠でありながら語りえないものであること。相手を殺さないために赦そうとしたのは、無力感の反転だったこと。社会制度改革に関わるな...続きを読むかで一時的に自己の問題から離れられたこと。真実より物語(例え画一的だとしても)が必要だったこと。 印象的だったのは、支援者が被害者を「珍しい生き物を解説」したり、力を奪っていくように感じ、必要な支援はエンパワメントだ、と猛烈に憤った点。弱き存在として「矮小化」されたという感覚や、回復させたいという「支援者の欲望の匂い」は、私自身が関わっている国際協力の現場でも起こり得ることだと、ドキッとする。 最終的に筆者は水俣を研究することで当事者から離れ、自分が当事者として研究し語ることで後の当事者の道標になることがある、と確信する(というふうに、とりあえずこの本を締めている)。 非常に読み応えがあったのだが、少し残念だったのは「赦し」や「修復的司法」の可能性については、宙ぶらりんのままになっているところ。私の読みが甘いのかもしれないが、デリダの引用など非常に興味深かっただけに、この筆者の(現時点での)結論は何なのか、というのを知りたかった。
NHKの放送を観て本書を知り、一気に読みました。 トラウマとなる体験を通しての心の動き、 言葉にできない、正しく説明なんてできない、 記憶が飛んでいる、 解離、、 深刻さの矮小化。 性暴力と性被害。立証が難しいことに震撼 殺すか、赦すか。死ぬか。 たまたま被害に遭ってしまうだけで、取り返...続きを読むしのつかない深刻なダメージになる、、こわい。死につながる。 私は全然想像できてなかった。 たとえ前もって知識があっても、いつ大切な人が、そんな被害に遭うとも分からない。 そこからのサバイバル。 自助グループの存在。 同じ立場の人の存在が、自分の内面に入ってくる。 自分の外に目を向けることにもつながって、、 でも、傷は癒えてない癒えてない 赦しという選択肢、、そんなのがあったんだ 北欧の支援制度すごいなあと。。 著者の語りが率直で、泣きつつ時に笑いつつ、私もその感情を追体験している気持ちで読ませて頂きました。 著者のケータイ小説も、、読んでみたいです。。 怒りというのは、原動力になるけど、 フラッシュバックとはそんなにリアルで何度もくるものなんだ、、とか、 支援者や医師からの2次被害。 人はあっけなく死んでしまう。。 残された人の思い、、 今日NHKのうずまきファミリーの番組も観たんです。いつでも近くには死がある。 「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」という森川すいめいさんの著作も読んでいるところで、、 死なないためにどうするかというのは とても関心がある。
「あなたには分からない」と、その人(たち)をはね除けることは、結局のところ「私のことを分からないあなたのことが、私は分からない」と自分の心の不透明な部分をはね除けることと等しいのではないだろうか。 自分の心の中に空洞が残るのは、正にこういった所作によるものかもしれんと思われた。 「私のことが分から...続きを読むないあなたのことを私は知りたい」なぜならそれが、「私を知る」ことに繋がるからだ…という路があるような気がするな。
「当事者は嘘をつく」というのは著者が、体験した性被害の経験について語るとき、自分は嘘をついているのではないか、という考えが拭えないということを意味したタイトルである。 性被害にあった人間が修復的司法というケアの方法を通してどのようにサバイブしていけるのか、ということを主軸に、そこから無限に枝分かれ...続きを読むするさまざまな重要な事項へ触れていく。それらのことは読者自身が何らかの被害体験を持っていなかったとしても、特別に響いてくるものがある。なぜなら、それは誰もが経験する「傷つけること/傷つけられること」に結びついていて、それらをどう扱うかということをこの本は語っている。 また、自助グループでの体験やケータイ小説を書くといった、いわゆる医学的なキュアの方法に頼っていない(精神科医に裏切られた体験への記述もあるのだが…)著者のユニークな足取りは、取っ付きやすく、力強く、それでいて誠実な、彼女にしか描けないラインであると感じた。その感覚は「急に具合が悪くなる」を読んだ時の、この物語はこの人にしか書けないものなのだという共振の感覚があった。つまり魂本(ソウルブック)…… ケアとキュアは違って、前者はより回復者の主体性、当事者性を担保したものであるという記述も重要だった。そして著者は、被害者の近くで支援者として関わる人々の中に、観察的な立場から二次被害的に被害者を扱う人間がいることを厳しく指摘する。 ユマニチュードに関する記述などもあって、自分が関心を寄せるトピックに関する記述が多数出てきた。 傷ついた人々(自分も含めて)がいかにして自分のことを語り、生き直すことを始めるのか、そしてその時に放つかがやきのようなものに、自分はもしかしたら惹かれているのかも知れないと思ったりした。
少し間をあけてだが、一気に読んだ。 薄々感じている私たち支援者としての欺瞞を、まざまざと突きつけられた。痛みを感じながら、むしろしっかり突きつけられたかったのだと読後に気がつく。 私の想像を越える痛みを抱えながら、著者は自身の被害体験と研究者としての揺らぎの体験を世に出してくれた。果たして支援者であ...続きを読むる私(たち)はそれにどう応えられるのか、宿題をもらった気がする。
ショッキングなタイトルだ。性暴力被害をうったえる者は、必ずと言っていいほど「嘘を言っているのではないか」という疑いにさらされる。だからこそフェミニズムの運動は、まず被害者の言葉をそのまま受け止めることを何より重視してきた。だのに当事者が、自らの語りを疑っているというのだから。 著者にとって性暴力被害...続きを読むとは、「わたしは真実を述べる者である」と言いうるような語る主体の枠組みを崩壊させるような経験としてあった。それを著者は「思考の海で溺れていた」とも表現している。言葉をまとめあげて自らの語りにするような枠組みが崩壊してしまった状態、といえるのだろうか。そして、そのような激しい苦痛のただ中においてのみ可能なものが「赦し」なのだと。 あまりにも直観に反する議論にも聞こえる。正直、デリダの議論も、著者の主著もまだちゃんと読めていないわたしには判断が難しいのだが。それでも著者にとってデリダが提示した「赦し」の可能性は、たとえ実際の加害者にはまったく届かないものであったとしても、むしろだからこそ、その後の研究の原動力になっていったという。 だがその道はストレートではない。むしろ難解な「赦し」論以上に、本書でとても興味を惹かれたのは、いったんばらばらになってしまった「わたし」が語るための枠組みを取り戻す助けとなったのが、自助グループにおける「わたしたち」のための「回復の物語」だったということだ。「わたし」の固有の経験を語ろうとすることを放棄し、「わたしたち」のための、ある意味では型にはまったストーリーをともに作りだすことが、自分自身が生き延びるために必要な物語を作る方法であったのだというのである。人が生きるためには、「わたしの物語」といえるようなものが必要なのだ。それが「真実」であろうとなかろうと。本書を読んで、もっとも深く心に残ったのは、このことだった。 そしてもうひとつの重要な点が、支援者や研究者に対する著者の怒りである。引用されているマツウラマムコの論文が指摘するように、被害者を無力化する支援者の傲慢は、わたし自身、性暴力被害者支援の末端に少しだけ関わっていたこともあるから、そういう面があることを知ってはいた。しかし、その暴力性の本質について、自らを開示することなく、当事者にかわって性暴力や被害者について「真実を語る」ことができる自分たちの特権性を疑わない、その主体性の位置にあるということを、あらためて考えさせられる。 被害者が共同作業を通して創り出す「回復の物語」に対して、著者は、支援者たちが支配する語りを「回復の言説」と呼んで区別している。首尾一貫した後者の言説は、「取り乱し」混乱する当事者が語ろうとする力をふたたび奪いとってしまうからこそ、拒否されねばならないのだ。 そのように考える著者もまた、自らが研究者となり、また当事者とはいえない水俣病の問題に関わっていくなかで、自分が「わからない」非当事者でもあるということとの折り合いをつけていくことになる。 他者の語りを奪い取ってしまいかねない支援者や研究者の特権は、たぶん究極的には、研究者だけの問題ではないとも思う。取り乱して首尾一貫した語りのできない位置からの「あなたにはわからない」という絶望/切望を「わたし」は聞けているのか、自分の取り乱しを受け入れられるのか。著者の勇敢な自己開示に問いかけられる。
すごい。ぐいぐい読ませる文章に圧倒され一気読み。当事者、支援者、研究者、サバイバーなどクルクル立ち位置が変わっている。言語化するのに大変だったのだろうとしか言えない。私から言える事は最後まで読んだという事だ。大前提として、小松原さんという人に感謝したい。
「私の話を信じてほしい」自分の記憶が正しいのか、もう自分でもわからなくなった筆者は精神的に不安定になり、自暴自棄にもなる。助けてほしい、最後まで話を聞いてほしい、そう思う気持ちに触れると、読んでいるこちらも心が震えてくる。
響きすぎて、読み終えてからしばらくの間、言葉が出てこなくなりました。 「共振」が起きていたのだろう、と思います。 「人間の記憶は、秩序と混沌の両方があることで完全になる」という言葉に深く納得しました。 言葉にできることと、言葉にならないもの。どちらもあっていいし、どちらもあるのが人間なのだ、と受け...続きを読む取りました。 「弱さの源泉はどこにあるのか」を探っていく、という問いに、「その観点はなかった!」と新鮮な気持ちになりました。安心安全が確保された場でないと探りにくいものですが、それを知ることができれば、自分の身を守りやすくなるだろうと感じました。 先輩や同僚のお話を聴いているような親しみや、読者への思いやりを感じる一冊でした。
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当事者は嘘をつく
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小松原織香
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