あらすじ
母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。(解説・白井浩司)
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Posted by ブクログ
死刑を宣告された直後のムルソーがとても印象的。
昔父親が死刑執行を見に行き、胃の内容物を吐いたことを思い出すムルソー。そして彼は死刑執行場面をたくさん見てら、吐きたいと考える。そうできることを想像し、喜悦の波に飲まれる。
彼は母親の葬儀で泣かなかった。このことからムルソーは、一般的な感情が欠けた異質な存在と捉えられてしまった。でも彼に感情がないわけではないと思う。何度かママンの言葉を思い出したりもしてるし。
私にはムルソーが、「一般人」たちの共感性や迎合性、演技のできるさまを羨ましがっているように見えた。
だから「人と同じように死刑執行を見て吐きたい」と思ったのかもしれない。
ぼんやりとしたムルソーがラストで神父に向けて感情を爆発させるのも、「あなたのために祈ります」って言葉に腹が立ったからかな。「祈るな」と怒鳴ってるし。共感していないのにしていると軽々しく嘯いたのが赦せなかった?
「正しく共感できない自分は間違っているのかも」という考えが、彼にとっては苦痛だったんかな。だから自分の正しさを確信した後で「自分は幸福だ」と思えたのかな。
……いや、だとしたら最後の「私の処刑の日に大勢が憎悪の声をあげたら嬉しい、孤独じゃないと感じる」ってのが分からんな?
太陽が眩しかったから、という特徴的な殺人の動機も、ただ「おかしなやつ」という描写に留まらない気がする。太陽は何かの暗喩じゃないか? 例えば「自分で自分を正しいと思える人」のような。眩さに腹が立つような、憎いほど羨ましくなるような何か。
何度でも読みたくなる深い物語だ。
また読んで色々考えたい。
Posted by ブクログ
名作にはやはり、名作と言われる所以がある。
いや〜〜〜思ったよりも全然読みやすくて、
そして嫌いじゃない。むしろ好き。
なんだろう………
苦しい&暗い気持ちにならない名作って
意外にも少ないんだよなぁと改めて感じつつ、
この作品はなんでだかかなり前向きな気持ちになる。
勿論、ムルソーの考えや動機の全てを受け入れるという訳ではないけれど、少なくとも納得や共感する部分があって、
さっぱりしたというか…そんな感じの気持ち。
カミュの『ペスト』をずっといつ読むか…
と思いながらなかなか踏み出せずに、
短めな今作を読んでみたけれど、
より他の作品も読んでみたい!!と思った!
ちなみに、ワンちゃんと老人のシーンは
マジで心が痛かったぜ……
主人公と関係ないところで心痛めたぜ…
Posted by ブクログ
何度か読んだことがある作品だけど、シーシュポスの神話を読んで改めて異邦人を読み直した。シーシュポスが繰り返し岩を持ち上げるように不条理を生きるという姿がここではどのように描かれているのかという視点を持って。
主人公ムルソーは太陽、自然、夕暮れ、女、世界の色々な物事の美しさを感じ取る能力はある。しかし物事へのこだわりは極度に薄い。ほとんど全てのものが彼にとってはどうでも良いことだ。母の死すら彼の心に大きな感動を与えることはない。その感情の薄さや、「太陽のせい」で人を殺す論理の通らなさは、字義的には「不条理」という言葉に沿った人物のようにも見える。しかしカミュのいう不条理は単なる意味の通らなさではない。カミュのいう不条理は「世界は何の答えも返さず沈黙を守り続けることをわかっていながら、それでも世界に対して意味を求め続けて明晰な意識を保って生きていく人間と世界の間の摩擦」、のことだ。
しかし物語前半のムルソーは、そのような不条理を明晰に生きる人間には見えない。彼は感情を外に表すことはなく、物事に強いこだわりを持つこともなく、事務所で日々を過ごすある意味一般的な社会人だ。感情や「社会常識」が欠落しすぎているところはあるが、取り立てて他の人々と見分けがつくわけでもない。宗教的なところも一切ない。内面では、感覚的に得られるもの以外にこの世の人生に対してこだわりがなく、思うままに、あるいは感覚にコントロールされるまま行動する。カミュの称賛するアルジェリアの太陽、海、夕べ、友人、女、感覚を満たすものに、意味を求めるのではなく身を委ねる人物だ。
だから彼の殺人にも、明晰な思想や意味づけは存在しない。そこには太陽の熱、光、不快感、疲労といった感覚の積み重なりがあるだけだ。ムルソーは意味を求めた結果として人を撃つのではない。意味に至る前の感覚の世界に押し流されるようにして、一人の人間に必要のない五発の弾丸を打ち込む。
しかしムルソーは、死刑によって自分の死を明確に意識した後に変わる。彼の思考は雲が晴れたように急激に明晰になる。死刑制度とは、死刑を執行される側までもが、それに協力してうまく進むよう振る舞わなければならない滑稽な仕組みであることを見抜く。シベリアでのドストエフスキーのように死刑直前に赦免される可能性への期待も理解しているが、それに縋ろうとはしない。死刑によって命が奪われることも、普通に生を全うすることも、究極的には同じ死へ向かっているという事実を受け入れていく。この死への向き合い方は、明晰な意識を持った不条理な人間の態度だろう。
司祭との対決の中で、ムルソーはさらに自分の立場をはっきりさせる。彼は神のような、実態のない許しを与えてくれるかもしれない存在には「関心がない」。司祭の「人は皆いずれ死ぬ」という言葉も、彼にとってはすでにわかっていることだ。彼は、死へ向かう確実な道筋に、幻想のような意味を与える「神」という同伴者を求めない。人は誰もが生を経験する存在であり、同時に死へ向かう有限な存在である。そのことを受け入れた時、ムルソーは初めてカミュのいう不条理な人間に近づいていく。
シーシュポスの神話で描かれていた不条理とは、沈黙する世界に対して意味を求め続けながら、それでも生き続けることだった。そしてその出発点には、必ず死の認識がある。死は誰からも平等に生の意味を剥ぎ取ってしまう。しかしムルソーは死刑宣告によって死を見つめたことで、この世界で生きる時間には、神のような他者に評価されるような「意味」はなくても、それを経験する自分が感じ取ることのできる「価値」はあることを知る。だからこそ最後の瞬間まで生から得られる経験を汲み切ろうとする。
最後にムルソーが感じる「世界の優しい無関心」と、処刑の日に観衆の熱狂を求める心は、不条理を生きる人間の姿そのものだ。死と世界の無意味を明晰に受け入れながら、それでも最後の瞬間まで生の激しさを求めようとするその姿は、シーシュポスに重なって見える。
Posted by ブクログ
L'Étrangerは異邦人でなくよそ者とも略せるらしい。物語のサマリーを読んだときの主人公ムルソーに対して持った感想はちょうどよそ者というか、社会の通常の感覚から逸脱した男性という感じだった。他の読者の感想を読んでいると、読み終わっても物語の結末は不条理とは呼べず、ただ単に殺人鬼が処刑されただけだと受け取る人もいるようだ。
しかし、読み終わった後わたしがムルソーに抱いた印象は「素直」だった。検察官の主張する「この男の不感無覚を前にして感ずる恐ろしさ」は本当に死刑に値するものだったのだろうか。ムルソーが死刑執行までの残された時間でママンの教え、養老院での暮らしに思いを巡らすシーンがある。また、司祭を追い返す際には「サラマノの犬には、その女房と同じ値打ちがあるのだ」や「セレストはレエモンよりすぐれてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、それが何だろうか?」という発言がある。実際、ムルソーは母の死に対して涙を流さなかったが、それは間違った感情だったのだろうか。当たり前だが、悲劇を前にして自分がどのような感情になるのかはそれが起こった際にしか分からないものである。もしかしたら案外何も変わらなかったことに驚くかもしれないし、次の日に海水浴に行くこともあるかもしれない。素敵な女性と再会したら彼女の希望する喜劇を見に行くだろうし、欲望が沸かないといえば嘘だろう。印象的なアラビア人を射殺するシーンでは、太陽の光から逃れるように一歩ずつアラビア人に近づいていく様子が丁寧に描写されている。そしてムルソーは法廷で行為を呼び起こした動機について問われた際には、そのまま「太陽のせいだ」と答えるのである。廷内では笑い声があがるが、ムルソーの心の中で動く感性と発言は何一つ乖離していない。なぜ、自分の運命がかかった場面で彼は演技をしなかったのだろうか。完全に不感無覚な人間は死を前にママンや友人、恋人に対してここまで考えるだろうか。私はムルソーという人間について陪審員に上手く伝わらないまま死刑判決が下ってしまっているように感じた。
つまり、ムルソーの以下の主張について私は共感を覚えた。「要するに、確実性に基礎を与えた判決と、判決が言い渡されてからの、その冷酷な施行とのあいだには、滑稽な不均衡があったからだ。判決が十七時にではなく二十時に言い渡されたという事実、判決が全く別のものであったかも知れぬという事実、判決が下着をとりかえる人間によって書かれたという事実、それがフランス人民(あるいはドイツ人民、 あるいは中国人民)の名においてというようなあいまいな観念にもとづいているという事実、
――――こうしたすべては、このような決定から、多くの真面目さを、取り去るように思われた。 それでも、そうして宣告がなされるや、その効果は、私が体を押しつけているこの壁の存在と同じほど、確実な、真面目なものになることを、私は認めざるをえなかった。」少なくとも私はこのように感じたことが、死刑と言っただいそれたもので無いにしても多々あるのだ。確かにムルソーが太陽の光に耐えかねて弾丸を5発も撃ち込んだことは不可解である。だが、意図していなかった殺人に対しての批判が人格否定にまで及ぶのは納得出来ないものがある。そういった些細なことであれば誰しもがマイノリティになりうるのではないだろうか。よそ者にならないように振る舞うことはとても難しいことに思える。
Posted by ブクログ
難しい…。この世界の何ごとにも意味はないとして、自分に関するすべてを宙吊りにして流れに委ねるような、世界から距離をとるようなムルソーの生き方はペシミズムのように思える。でも最後、ムルソーは他の誰よりも自分を信じていて、自分に根付いているみたいだった。死に近づいて初めて感じる解放。世界の優しい無関心。
ママンの埋葬の日やアラビア人を殺害した浜辺での太陽の光の強さはなにかのメタファーなのかな。最近とっても暑いから、小説世界の暑さがよく想像できた。暑くて眩しくて、木陰の泉の安寧を求めていき、それを邪魔するアラビア人を銃殺した。人間世界の怨みのようなものはムルソーにはなくて、ただ自然の光と暑さが目にしみてムルソーを襲う。
太陽光や、養老院・バルコニーでの人工灯の光への嫌悪は、どこからくるんだろう。
ムルソーでも死に対する恐怖や死から逃れたいという感情はあるのだなと思った。
実存主義の文脈を理解しないと半分も理解できない気がした。いろいろ学んでみたい。でも何も知らないで読んでも、思ったよりずっと面白かった。
Posted by ブクログ
人は行為ではなく、「社会にとって理解できるか」で裁かれるのではないか。
ムルソーが問題視されたのは殺人そのものよりも、母の死への無感情や神を信じない態度であった。このことに強い違和感を覚えた。
太陽や光によってムルソーの内面を外の世界で可視化しているようで好きな表現だった。
最終的にムルソーは「意味のない世界」を受け入れるが、それは絶望ではなく、他者の価値に依存しない在り方の選択であるのか。
Posted by ブクログ
背表紙に書いてある概要がそのままこの小説の起承転結。
母の死、殺害、処刑。
この主人公に私は共感できない。できないけれど、でも、ムルソーが自然から受け取る感動は美しい。太陽と海と光から彼が紡ぐ言葉や感情は代え難い。感受性が豊かで、それを羨ましくさえ思う。
手を伸ばし愛を求めたら、ぴしゃりと拒否されてしまうとしても。
異邦人は、
人間の複雑性を描いている作品なのかと思った。
もしくはサイコパスと私たちの距離を。
でもそうではなく、なぜか読後、
感じてしまうのは、
社会側の、秩序側の、複雑性、寛容性のなさだった。
道徳とは?という問いよりも
人間とは?という問いに帰結する。
読み終えて、ああ面白かったと、言えるようになるまで、少し時間がかかった。
でも、ああ面白かったな。