【感想・ネタバレ】「史記」再説 司馬遷の世界のレビュー

あらすじ

中国前漢の時代、司馬遷は何を感じ、何を考えて、『史記』を書いていったのか。その生い立ちから、腐刑の屈辱と苦しみに耐え、『史記』の完成にいたるまでを、時代背景とともに辿る。司馬遷の実像に迫り得た名著。『史記――司馬遷の世界』加筆・改題

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Posted by ブクログ

司馬遷について、勝手な思い込みがいくつもあったことに気づかされた。

最大のものは、代々史官の家系で、若い時から史記を編纂するべく生活していたということ。
ところが、本書によれば、司馬氏は武官の家柄で、文官になったのは遷から六代前に過ぎず、「太史公」になったのは父の司馬談であるという。
太史公は武帝が初めて置いた官職であるから、世襲も何もない状況だったようだ。
本務は天文や祭祀を司ることであったという。
父、談は太史丞、太史令と昇進してきた、たたき上げの人。
息子の遷は二十三歳で「郎中」という近習の役職になるも、十三年後の父の死まで、その官にとどまり続け、昇進していないとは。

また、本書によれば、『史記』は、父談の始めた、あくまでも私的なプロジェクトだった。
これも、武帝の命なり、職掌としてなりで始めたことだと思い込んでいたことだ。
父が志半ばで病死し、その遺言で父の仕事を引き継いだ遷は、それから三年して太史公となったという。

加地さんによれば、父にはまだ黄老思想(神仙術と老子の思想が混ざったもの)が影響し、息子は師匠が董仲舒であったこともあり、儒教思想であり、また天人相関説がバックボーンにある、と解説されていた。
それが「八書」の構成に影響しているのでもあるとのこと。

李陵事件は、やはりよくわからないことが多いらしい。
加地さんは「平準書」という、国家財政を扱った部分の存在から、李陵擁護は武帝の対外強硬政策を批判であり、それが武帝の逆鱗に触れたのだと考えている。
そこで宮刑(贖罪金を払うことができなかった)に処せられた時、失職しただろうとのこと。
意外なのは、その二年後、改元による大赦で再び武帝に召され、中書令(宦官である秘書官)という、遷のために作った地位を与えられたこと。
しかし、それもまた、歴史を記すのが本務ではないのだ。

当時の政治的な布置、思想史の流れ、孝の思想など、司馬遷を描く背景が与えられた感じがする。
そうして、ほんの僅か、知ったことが増えると、分からないことがたくさん出てくる。
最後に武田泰淳の『司馬遷』をめぐる加地さんの批判、援護者への再批判の文章も収録されていた。
それから更に時が流れたことになる。
その後の史記研究で、どんなことが明らかになっただろう?

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2017年04月05日

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