あらすじ
自転車や水洗トイレの仕組みを説明できると思いこむ。ネットで検索しただけでわかった気になりがち。人はなぜ自らの理解を過大評価してしまうのか? 認知科学者のコンビが行動経済学やAI研究などの知識を結集し、「知ってるつもり」の正体と知性の本質を明かす
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Posted by ブクログ
トイレについて知っているかと聞かれたら、僕は“知ってる”と答える。
では、トイレが流れる仕組みは?と聞かれたら、答えは一変“知らない”。
他にも、トイレの作られ方は?歴史は?、、、全く知らない
せいぜいトイレなんて見たことがあって、使ったことがあるくらいなもの。
毎日使ってるから勝手に知り尽くした気になってるが、ほとんど何も知らない。
トイレの部分を身の回りの別のものに置き換えて考えると、ほとんどのことについて無知の部分が圧倒的に多いと気付かされる。
それなのに僕らは物事を“知ってる”と過大評価して思い込んでしまう、その理由を本書は解説してくれる。
中でも以下の説明は個人的に面白かった。
”私たちの知識ベースの大部分は、外界とコミュニティに存在している。理解とは、
知識はどこかにあるという認識でしかないことが多い。高度な理解とは、たいてい知
識が具体的にどこにあるかを知っているというのと同義である。実際に自らの記憶に
知識を蓄えているのは、真に博識な人のみである。”
確かに、AIが浸透して何でも質問すれば答えてもらえるようになった今、前よりも賢くなったと感じている自分がいた。
実際は自分に蓄えられている知識は変わってないのに。
知らないことが多いことを前提に、少しでも知識を蓄えようという姿勢で生きたいと思わせてもらえる本であった。
勿論この感想も自分が汲み取れた限られた理解の範囲で記載したものだ。
Posted by ブクログ
あなたは自転車を知っていますか?では、自転車がどういう仕組みで動いているのかを知っていますか?おそらく1つ目はYES、2つ目はNOと答える人が多いだろう。この本はこのように「人間は思っているより無知である」ことに目を向けさせてくれる。知識は保有していると思いがちだが、実は「知識のコミュニティ」から得ていることもある。他人との話から得た知識などだ。それを自分の知識だと思い込み、錯覚する。人間の賢さの定義が変化する、今年読んで一番良かった本だった。
Posted by ブクログ
これはとても面白かった!
自分が知らないということを自覚しているつもりはあったけど、全然自覚できてなかった。
人間は1人の脳ではとても記憶出来ないような膨大な情報を処理して発展してきた。人間はコミュニティの生き物として生きてきて、知ってるつもりになっちゃうくらいに無自覚に無知なことがむしろ強みである。
科学の本だけどエモさを感じた。
Posted by ブクログ
人間は外部に知識をアウトソーシングして生活している(自分がいる空間を把握しているつもりでも、ライトの形ひとつ見直さないと思い出せない)。知識不足を漫然と自信でカバーしている。専門分野が違うもの同士で協力して初めて人間の能力を超えた推論能力を獲得する。人間は直感と熟慮の二つを行ったり来たりしているが、日常生活の大半は直感で処理するために誤謬が生じることが多い。人間は表層的にしかものを知らないが、それでも十分生きていけるのは知識のさまざまな部分の責任をコミュニティ全体に割り振るような認知的分業が存在するからだ。「知らないと言うことを知らない」を知ることが大切で、そのためには自分が知っていると思っている事柄を「人に正しく説明できるか」が鍵になる。大抵は出来ないので、そので我に帰るタイミングがある。人は集団知識によってパフォーマンスを何倍にも出来、世の中の発見というのは大抵の場合同時多発的に起こる。それは複数の知識と推論によって発見できる条件が発動したからに他ならない。
Posted by ブクログ
とても興味深い内容だった。
人間はみんな無知であること。
ほとんどの人間が知識の錯覚を起こしてること。
知能は、知識のコミュニティという所属するコミュニティに依存、依拠するものであること。
どれも分かっているようで、指摘されることで少し受け入れ難く、読み進めることで納得してしまうものばかりである。
また、本書の素晴らしいところは、知識の錯覚によって人間が繁栄してきたこともちゃんと認めた上で、危険性についてもまとめている点である。
"実力も運のうち"を読んでいたときにも個人の能力は、その人の努力のみで生み出されるものではないことにも通ずる考えのように感じる。
我々人類は、独りでは生きていけず、個人だけで成長していくには人生という時間はあまりにも短い。それを超え、繁栄を今も続けているのはコミュニティという存在であり、他者との協力にある。
そう思うと、人の理解のために誰かの功績にしてしまうという構図は、貧富の格差を産んでしまうことにも繋がるように思う。
本来は分配されるべき成果や、報酬であり、本来は関わったすべての人が享受すべきなのではないだろうか。この議論に行き着くと、きっと共産主義になりそうとも思うため、難しい。
ただ、多くの専門家などがいて、各職業でそれぞれの職務を全うしている人々が、協力することで成り立つ世の中で、頑張っている人たちが正しく貢献度に対して評価され、さらには個人主義、個人能力至上主義のような風潮、意識が変えられていくことを切に願う。
Posted by ブクログ
知れば知るほど、知らないことが増えていく。
認知的分業やコミュニティに依拠した判断についての解説が面白かった。人を動かす時には、仕組みから考えていかなくてはいけない。
Posted by ブクログ
私の頭では理解しにくい章もあったけど、
概ね言っていることはなるほど…!そういうことか!!と目から鱗が落ちる話ばかりだった。
時間があれば再読してより理解を深めたい。
Posted by ブクログ
全国の高校生の課題図書にするのが良いのではないか。
反知性、反科学がなぜ隆起するのか、その原因の一端が腹落ちする形で説明されている。
個人の知識の限界と、それを拡張する人間に備わった補完機能、またその危険性を解説している。
人は日頃使っている道具(例えばファスナーや自転車)すら、その機能や原理を詳細に説明することはできない。
しかし、殆どの人はそのことを自覚しておらず、自分はそれを知っていると考えている。
人は個人の知識に限界があるからこそ、周囲の環境や道具、あるいは別の個人を使ってそれを補完している。これは人間固有の特徴であり、人類が発展してきた原動力でもある。だが、そこには危険性もあり、依拠する集団の志向性に大きく影響を受けてしまう。それは今日政治の世界で見られるフェイクが跋扈する現象の原因でもある。
人の無知は悪いことではなく、知らないからこそ挑戦出来ることもある。大事なのは自分が知らないことを自覚すること。自分は属する知識のコミュニティから大きく影響されていることを理解すること。
時代は分かりやすさや感情を揺さぶるような言説が支持を得て、真実は二の次になっているが、そんな中で知性をもった生き抜き方のヒントをくれる一冊
Posted by ブクログ
もっとライトなものかと思って読み始めたら、間違いなく骨太本。説明深度の錯覚も興味深かったが、個人的には知識はコミュニティに蓄えられる、という主張がしっくりときて納得。個人の能力より、コミュニティの知をいかに上手く使うか、の方が大事という主張は個人の能力至上主義的な考えをしている自分には目から鱗だった。
フレーズ
人間は自分が思っているより無知である、
文明が誕生した当初から、人間は集団、一族、あるいは社会のなかではっきりとした専門能力を育ててきた。農業、医療、製造、航行、音楽、語り部、料理、狩り、戦闘をはじめ、さまざまな分野にコミュニティの専門家がいた。一人が二つ以上の専門能力を持つケースもあったかもしれないが、すべての分野、あるいは一つの分野のすべての側面に精通する者はいなかったはずだ。あらゆる料理を作れるシェフはいない。傑出した音楽家はいるものの、あらゆる楽器、あらゆるジャンルの曲を弾けるわけではない。なんでもできる人というのは存在しない。
知識がすべて自分の頭のなかにあるのではなく、コミュニティのなかで共有されることを理解しはじめると、英雄に対する認識が変わる。個人に注目するのではなく、もっと大きな集団に目が向くようになる。
それに基づき、平均的な大人の知識ベースを算出したところ、得られた答えが〇・五ギガバイトだった。
運輸当局は人間がオプティカルフローを知覚することを利用して、減速させたい区間では、実際よりも速く走行しているような感覚を抱くように車線を引く。これは高速道路の出口ランプあたりでは特に有効だ。
まず働きバチがいる。巣を守り、蜜や花粉を集め、冬を越すための食料であるハチミツをつくり、それを貯蔵しておく小部屋をつくり、幼虫に餌をやるメスだ。
続いてランドアーは、私たちが人生七〇年のあいだ、一定の速度で学習を続けると仮定し、持っている情報の量、すなわち知識ベースの大きさを計算した。さまざまな方法を使ったが、結果はだいたい同じだった。一ギガバイトである。
なぜ、これほど無知な私たちは、世界の複雑さに圧倒されてしまわないのか。知るべきことのほんの一端しか理解していないのに、まっとうな生活を送り、わかったような口をきき、自らを信じることができるのか。 それは私たちが「噓」を生きているからだ。物事の仕組みに対する自らの知識を過大評価し、本当は知らないくせに物事の仕組みを理解していると思い込んで生活することで、世界の複雑さを無視しているのである。
脳は最も有益な情報を選び出し、それ以外を捨てるという作業に忙しい。すべてを記憶することは、本質的な原則に意識を集中し、新たな状況に過去に経験したものとどのような共通点があるかを認識し、有効な行動を見きわめる妨げとなる。
説明深度の錯覚」
重さの異なる物体を二つ、紐で結んで落下させたらどうなるかを予想している。そして自らの思考のよりどころであった物理法則の理解に基づき、二つの物体が重量にかかわらず同じ速度で落下することを正確に推測していた。
ただ物体が曲面上を回転するときには、この法則は当てはまらない。
直観は単純化された大雑把な、そして必要十分な分析結果を生む。それは何かをそれなりにわかっているという錯覚を抱く原因となる。しかしよく考えると、物事が実際にはどれだけ複雑であるかがわかり、それによって自分の知識がどれほど限られているかがはっきりする。
それからコロニーを離れ、他のコロニーの女王バチと生殖する雄バチがいる。
個々のハチに自らを守る力はない。働きバチは交尾ができない。雄バチは食料を集められない。女王バチには幼虫を世話することはできない。それぞれの個体には決まった仕事があり、そこにおいて卓越した能力を発揮する。
専門知識の集合体として、うまく機能すれば各部分の総和を超える集団的知能を生み出す。
コミュニティのなかに知識があることを知っているだけで、私たちは自分が知っているような気になる。
たしかに大げさな言い分ではあるが、今日の世界で、私たちは驚くほど人づての情報だけを頼りに生きている。自分の身に起きることのうち、直接的な知覚経験を通じて理解することはほんのわずかだ。
私たちの知識ベースの大部分は、外界とコミュニティに存在している。理解とは、知識はどこかにあるという認識でしかないことが多い。高度な理解とは、たいてい知識が具体的にどこにあるかを知っているというのと同義である。実際に自らの記憶に知識を蓄えているのは、真に博識な人のみである。
すでに世界を変えつつある超絶知能とは、知識のコミュニティである。テクノロジーの大きな進歩を実現する道は、超人的能力を持った機械を創ることではない。広がりつづける知識のコミュニティを、情報が自由に行き交うようにし、協業を促すことによって実現する。
概して、問題に対する強い意見は、深い理解から生じるわけではない。むしろ理解の欠如から生じていることが多い。
偉大な哲学者で政治活動家でもあったバートランド・ラッセルはそれを「情熱的に支持される意見には、きまってまともな根拠は存在しないものである」と表現している。
意見が神聖な価値観で決まれば、結果がどうであろうと関係なくなるというのは、他者を説得することを生業とする人々が数千年のあいだに身につけてきた知恵だ。
リーダーのもう一つの任務は、自らの無知を自覚し、他の人々の知識や能力を効果的に活用することだ。優れたリーダーは個別の問題について深い知識を有している人々を周囲に配置し、知識のコミュニティを形成する。それ以上に重要なのは、優れたリーダーはこうした専門家の意見に耳を傾けることだ。意思決定をする前に、時間をかけて情報を集め、他の人々と相談するリーダーは、優柔不断で頼りなく、ビジョンがないと思われることもある。世界は複雑で容易に理解できないものであることを認識しているリーダーを、きちんと見きわめようとするのが、成熟した有権者である。
流動性知性とは、誰かが「賢い」というときに私たちが念頭に置いているものだ。その人物はどんな話題についても迅速に結論を導き出し、新しいこともすぐに理解する能力がある。一方、結晶性知性は、記憶の中に蓄積され、すぐに使える知識がどれだけあるかを指す。そこには語彙の豊富さや、一般知識の豊かさが含まれる。
知識はコミュニティのなかにあるという気づきは、知能に対するまったく別のとらえ方をもたらす。知能を個人的属性と見るのではなく、個人がどれだけコミュニティに貢献するかだと考えるのだ。
その人物が居合わせたとき、集団が問題解決に成功した頻度、あるいは失敗した頻度はどの程度か。
認知的分業のなかで自分にできる貢献をし、知識のコミュニティに参画することが私たちの役割ならば、教育の目的は子供たちに一人でモノを考えるための知識と能力を付与することであるという誤った認識は排除すべきだ
私たちが個人として知っていることは少ない。それはしかたのないことだ。世の中には知るべきことがあまりに多すぎる。多少の事実や理論を学んだり、能力を身につけることはもちろんできる。だがそれに加えて、他の人々の知識や能力を活用する方法も身につけなければならない。実は、それが成功のカギなのだ。なぜなら私たちが使える知識や能力の大部分は、他の人々のなかにあるからだ。
知識のコミュニティにおいて、個人はジグソーパズルの一片のようなものだ。自分がどこにはまるかを理解するには、自分が何を知っているかだけでなく、自分は知らなくて他の人々が知っていることは何かを理解する必要がある。知識のコミュニティにおける自らの位置を知るには、自分の外にある知識について、また自分の知っていることと関連のある知らないことに自覚的になる必要がある。
「ダニング・クルーガー効果( 3)」、すなわちパフォーマンスが低い人ほど、自らのスキルを過大評価するという認知バイアス
Posted by ブクログ
いわゆる「無知の知」に関連する最新の知見に触れることができる。身近に情報が溢れ、知らずのうちに「知っている」感覚に陥ってしまうため、自身の理解度に対して常に謙虚でいる姿勢が必要だと感じた。
また、誤った情報を強固に信じている人々に対して、考えを軟化してもらうアプローチについても述べられており、非常に示唆に富む内容だった。
Posted by ブクログ
人は自身を過大評価する。なのにこのような大きな文明を維持できている。なぜか?人間がどのように思考し、知っていると「錯覚」し、それで時に問題が起きたり、あるいはうまく物事が進むのか?が軽妙な語り口で、読者にも気づかせるように書かれている。非常に注意深くかかれ、「知っていると錯覚する」ことについても利点と欠点とが示されている徹底ぶり。
読みやすいが、一度時間を置いてまた読みたくなる本。まずは一読するのは良いと思う。
Posted by ブクログ
スティーブン・スローマン他が取り組んだ、壮大な問い、私たちはなぜ自分の知識を過大評価するのか。知ってるつもりになって、平気で生活しているのか。トイレの水の流れる仕組み、自転車が動く仕組み、など日常的に使っているのに、簡単に説明できないことがたくさんある。
我々は、分かった気になっているだけなんだと気付かされる。認知科学の観点では、極端な意見を持っているひとは、実は中身を理解していなかったりするんだと。これは、非常に気づきの多い本だと思う。てっきり知ったかのように振る舞っているけど、それは強がりであり、虚勢であり、実は完全に理解していない。
我々は、わかっていないということさえわかっていない時がある。これが、備えられず、一気にやられる可能性もある。戦争であれば、それは脅威だ。なぜ我々がこの世界を、知ってると勘違いして生きていけるのかというと、その答えは筆者からすると、嘘の世界を生きているからということになる。
因果関係の推論、という点に着目すると、我々がいかに愚かな判断をしているかがわかる。水道口の蛇口を撚れば、それだけ多くの水が出てくる。だから、空調の温度設定を急ぐ時には徹底的に低く、または高くセットすれば早くその期待値に到達すると勘違いする。身近な体験が、思い込み、知ってるつもりを生んでしまう。あると思い込んでいた知識は、実は別のところに置いてあるということだ。それが、インターネットのソーシャルの中にあるとすれば、知識は集合知のようなものになっているかもしれない。一方で、断絶すれば真の知識、つまり曖昧かつ限定的な知識のみとなり、判断軸として十分ではないかもしれないという説だ。GPSを切られた自動車、クルーズが、運転を誤った例などが、自動化のパラドックスと言える。自分自身の力で判断、行動できる力が必要だ。
もう一つ、大きな固定反応は、とにかく道徳的反応だろう。中絶はいけないとか、いいとか、戦争は反対、とか理由も個別事象も一切なく、ただただ理由なく決めてしまう。
そして、集団的な知識、チームワークによるアウトプットを最大化することが近年わかってきているという。その上で、正しい、賢い判断をすべきととく。オランダのチューリップを買って、暴落した人もいる。集団知を集めて、極めて賢い選択肢を進む。これには、正しいリサーチが必須だ。ことチームであれば、それぞれの得意分野を活かしてそれぞれ個人の無知、そして誤った感覚と判断をなるべく是正する。
無知であることを理解、集団知を活用する、そのために、しっかり自身の感性を高める。
Posted by ブクログ
主題はすでに題名に書かれている。
「なぜに」「いかに」を読み進める本。
読むだけでも楽しいけど、自身の謙虚さを育てる助けにもなれば、他人様を受け入れる助けにもなるやも。
Posted by ブクログ
笑えてくるほどおもしろい、人間にとっての知識の本質的な本。SNS等に散見される南郭濫吹な人々も仕方ないのかなと諦観できるようになれるかも…?行動経済学や認知心理学の本を読むときの前提知識として読むべき。
Posted by ブクログ
本書の結論は、「知能は特定の個人ではなく、コミュニティの中に存在する」です。
個人は驚くほど無知であり、人類を発展させたのは、集団(コミュニティ)がもっている知性であることをいっています。
巻末に、本書の三つの主題、「無知」、「知識の錯覚」、「知識のコミュニティ」が書かれています。
「無知」
・個人が処理できる情報量には重大な制約がある
・人間は、自分がどれほどわかっていないかを自覚していない
・知識を全て足し合わせると人間の思考は驚嘆すべきものとなる、ただ、それは、コミュニティとしての産物であり特定の個人のものではない。
・たった一つのモノについてさえ、そのすべての側面に精通することは不可能だ。
・人間は、自分が思っているより無知である。
・われわれの認知システムは、要点や本質的な意味だけを抽出する。複雑な因果関係に遭遇すると要点のみを抽出して、詳細は忘れる。
・自分がしらないことをしらないということが往々にしてある。
・テクノロジーが進化していけばいくほど、それを完全に理解できる個人はいなくなる。
・トースターを作ろうとしても作れる人間は限られている。
・本当はわかっていないのに、分かったつもりになっている。
・私たちが知っておかねばならないことの多くは恐ろしく複雑で、どれだけ目を凝らしても理解できない。
「知識の錯覚」
・前向き推論(原因から結果)のほうが、後ろ向き推論(結果から原因)より簡単だ。
・私たちは、近寄ると危険なものに対しては嫌悪反応をしめす。
・人間は共同で狩りをしたことで知能が向上した、それは、社会集団の規模や複雑性が高まったことに起因する
・最も優秀な人とは、他者を理解する能力が最も高い人かもしれない
・技術はもはや人間がコントロールできる単なる道具ではなくなった。システムがあまりにも複雑になったので、もはやどのような状態になるか、ユーザが常に把握できなくなった。
・知覚の錯覚がどこにあるかは個人ではわからなくなった。だから、信頼できる人の意見をそっくり受け入れざるを得なくなった。
・人の信念を変えることは難しい。それは価値観やアイデンティテxと絡み合っていて、コミュニティと共有されているから。ただ、頭の中にある因果モデルは限定的で誤っていることが多い。
・専門家でないのに、専門家のように口をきく集団となって、ますます自らの専門知識への自信を深める危険。
・政治的議論は、きわめて皮相的、たいした議論もせず、さっさと意見と固めてしまう
・優れたリーダは、人々に自分は愚かだと感じせずに、無知を自覚する手助け必要がある。
・また、リーダのもう一つの任務は、自らの無知を自覚し、他の人々の知識や能力を効果的に活用すること、専門家の意見に耳を傾けること。
「知識のコミュニティ」
・個人の知性を表すg因子(IQの一種)に対して、集団の知性を評価できるc因子が発見された。しかも、集団知性である、c因子を重視すべきとの結果がでた。
・集団にとって、一番重要なのはアイデアではない。重要なのは、チームの質である。
・学習の目的は、知識の習得でなく、目標達成のための行動ができることだ
・文章を暗記していても、理解できているとはかぎらない
・本来の教育では、持っていない知識に目を向ける方法を身につけることもある。それには、思い上がりを捨てること、「なぜ?」を自問することが必要
・個人としてもっている知識は少ない。そのために、他の人々の知識や能力を活用する方法も身につけなければならない。
・近年学問の領域が拡大するにつれて、知識コミュニティも拡大の一途とたどっている。専門知識は意図的に分散されている。
目次は以下の通りです。
序章 個人の無知と知識のコミュニティ
第1章 「知っている」のウソ
第2章 なぜ思考するのか
第3章 どう思考するのか
第4章 なぜまちがった考えを抱くのか
第5章 体と世界を使って考える
第6章 他者を使って考える
第7章 テクノロジーを使って考える
第8章 科学について考える
第9章 政治ついて考える
第10章 賢さの定義が変わる
第11章 賢い人を育てる
第12章 賢い判断をする
結び 無知と錯覚を評価する
Posted by ブクログ
タイトルから自分が勝手にイメージした内容とは異なっていましたが、「読んでよかった」と思えた本です。
「ヒトは、自分自身が思っているほど、物事を理解していない」ということについては、自分自身のこととしても何度も体験したことがありますし、他人を見ていても何度も経験したことがあるので、ヒトにはそういう傾向がある、と思ってはいましたが、もっと一般的というか普遍的であることを、この本を通して確認できました。
そもそも、人間どうしがコミュニケーションに使う道具である「言葉(言語)」自体も、まだまだ完成してはいないことを考えると、ヒトが物事をあまり理解していないことについては、まったく違和感ありません。
その一方で、「個人としては理解できていないことが多くても、集団として、個々人の理解している部分をつなぎ合わせることで、集団の知を形成できる」ことについては、これまであまり意識したことがなかったので、読んでいて「なるほど」と思いました。
これまでは何となく、「少数の個人がもっている知によって、集団の知は形成されている」と思っていたのですが、知は少数の個人に偏っているわけではない点は、集団に属する各個人に勇気と存在意義を与える捉え方だと思いました。
しかしながら、「集団の知」は、決してプラス面だけでなく、無根拠な「知」の共有になる可能性もあり、諸刃の剣である点は、心しておきたいことだと思います。
個人の知と集団の知について、そのあり方や活用は改めて考え直す必要があると思います。
また、そういった知の養成の場であり、活用の場である学校や各種組織については、そのあり方を考える上で、必読の書だと思います。
Posted by ブクログ
本書で書かれていることは自明のことかもしれない。しかし、人は自分が思っている以上に無知であると気づかせてくれる。
また人の記憶が脳だけでなく世界にあることと知識のコミュニティという概念は自分にとって新鮮だった。新しい視点から世界を見ることを可能にしてくれた。
Posted by ブクログ
この本は
①、我々の知識の殆どは他人(環境)任せ
②、我々はその事を理解出来ていない
③、しかし①である方が効率的
④、しかし②を理解していないと問題が多発する
と言う事を、例を挙げて解説する内容が終始延々と記述されており、恐らく誰しも何となく思っていた事が殆どに感じます。
それでも良い本だと思うのは、あとがきに書いてあるとおり、『改めて考えてみるまで、こうした考えを明らかだとは思わないから』。
内容は具体的な事柄に対しての対策と言うよりも人生の各事柄(生活、勉学、人間関係)のどの事にも言える汎用的なもので、且つふわふわと思っていた事が明確化された事で各事柄に対するより良い選択や方向性の決定に寄与してくれる内容であり、人生を豊かにしてくれるものだと感じます。
コミュニティにおける効率と言う強みを重視し過ぎており、少々スタンドアローンの重要性を軽視し過ぎているきらいはありますが、本の内容(コミュニティ)を鵜呑みにしないと言うのも、当の本に記述されている事だと言うことを加味して、人生(文明社会での生活)の基礎力を高めてくれる良本だと思います。
Posted by ブクログ
「人間は自分が思っているよりも無知である」
無知の知を自覚することは、人間の性質上なかなか簡単にできることではないらしい。本当は説明できないのに「知っている」と思い込んでしまうのは、一種の錯覚。
世の中のすべてのことを理解するのは不可能。どれだけ仕事をこなせるようになろうが、幅広い知識を持つようになろうが謙虚さはだけは忘れないでいたい。
Posted by ブクログ
人間は自分の知識を過大評価する生き物である。
人は全てのことを理解することは不可能である。
人間は知識のコミュティーに生きている。自分の無知を自覚し、適切に周囲から正しい知識を求めることができれば、賢い判断が出来るだろう。
個人でどれだけ賢いかはあまり意味がなく、ひとつの集団内でどれだけ賢いかどのように自分が貢献できるかが大切なのかと思った。
最近、仕事であまりに理解力がない自分に嫌気がさしていた。また、私は理解したつもりになることが多く、何を持って理解したことになるのかというのが分からなかったので、少しでもこんな自分の自分の助けになればいいなと思い、この本を手に取った。
結論としては、私の求めていた物事を理解するとはどういうことかというような内容ではなかったものの、研究の事例を出しながら知識をコミュニティで共有する人間の本質的な性質や傾向を知ることができた。人は往々にして自分の知識を過大評価するものだという話に救われた部分もあり、よく周りを見てみると必ずしも正しいことを言っている訳ではないことに気づき、周りも自分と同じで自分を過大評価してることもあるのかもしれないと思った。また、賢い判断をする為には何でも知ってる賢い個人がいるだけでは意味がなく、集団として、賢い判断ができるようにしなければならないというのが、改めて当たり前のことに気づかされたような感覚になった。自分の無知を嘆かず知らないことをちゃんと人に聞こう(信頼出来る情報源から)と思いました
Posted by ブクログ
脳科学や認知系の本は少し読んでいたので「そうだよね」とサクサク読めるのだけど、それも正に知識の錯覚なのでだろう。何となくは知っているけど因果関係をちゃんと説明できるかと言われると...。
とは言え、後半は新鮮な感覚。個人として貢献度は (どんな偉人でも) 限られる。複雑な世界では 集団としてパフォーマンス、チームへの貢献度が重要。コンピュータに例えた話は分かりやすい。高性能CPU(IQ高い人)ばかり集めてもシステム全体は機能しない。単純な作業を素早くやる人も必要で大事。高いパフォーマンスを上げる集団(システム)として。第十章は良き。
Posted by ブクログ
非常に自分にとって耳が痛い本でした。
・人は無知を自覚しておらず、自分と他人との知識に境界線を持っていない
・個人の知識はあまりにもごく僅かで、知識はコミュニティに依存している
・自分の無知を自覚するためには、因果的説明が適している
これらは特に意識しなければいけないと実感した。
なまじ本を読み、知識を持っている「つもり」なだけで、実際には説明することも難しい。
知識がどこにあるという理解だけであったと思いしらされた。
だからこそ、もっとアウトプットするべきだ。
また自分の知識はコミュニティに依存しているという部分で、知識のコミュニティは良い点も悪い点もあることを知り、まずは自分がどのコミュニティにいて、自分はなにを知らないのか?どんな価値観を持っているのか?を考え直してみようと思う。
個人の知識はコミュニティに依存しているからこそ、個人の能力ではなく、コミュニティにどれだけ貢献できるか、という考え方は改めて考え直された。
分量も多く、読むのに時間はかかったが、認知科学という人間を俯瞰して見ることが出来る学問を少しだけでも知られて楽しかった。
Posted by ブクログ
・人間は自分が知らないということを知らない
・理解してると思ったことは実は理解してない
・説明は詳細に読みたくない人がほとんど
・集団としての知識がある
読むのに時間がかかったけど、専門的ではあるけど読みやすくて良い本
Posted by ブクログ
人がいかに自分の無知を理解していないかを説明するとともに、そこに気づく重要性を説いた本。
ファスナーや自転車の仕組み、(住宅ローンなど)ローンのからくりといった、多くの人が知っていると思っていることをいかに理解できていないか、色々な例を出しつつ説明されているので、説得力がある。
また、パフォーマンスが低い人ほど、自らのスキルや成果を過大評価し、パフォーマンスが高い人は、自分の成果を過小評価する傾向が高いというのも、マインドとしては理解できる。
この認知バイアスがかかってないか、我が身を振り返りたい。
Posted by ブクログ
理解していると思っていたのに、いざ説明を求められるとどう答えればいいか分からない。そんな「分かったつもり」の状態になっていることは自分も多々あるが、それは人間が、様々な知識を持った人々が集まり形成する知識コミュニティの中で生きているために起こる錯覚である。知識を共有してもらうことで、外から得た知識を「自分の頭の中にもともとあるもの」と混同してしまうらしい。それ故に己の無知にも気がつかない。
大事なのは、全てのことを知るのは到底無理であると理解すること。自分が無知であるということを自覚すること。自分がどれだけ理解できているかを確認すること。そして謙虚に学ぶこと。
本書を読んで、なるほどと思う部分も多々あったが、きちんと理解できているようには感じないので再読の必要あり。
Posted by ブクログ
知っているということより
自覚的であることが大切だ。
この本に書かれていたことに驚きはなかった。新たな発見といえるものも少なかった。だが、自覚的になれた。これは大きな成果です。
Posted by ブクログ
知らないことをすぐに調べられるスマホがあると、考える余地もなく検索してしまう時代になった。調べて答えが出てくるから記憶しようとすることをやめてしまうことを実感しています。他にも、普段使っている道具の仕組みを説明できないことから、実は知らないことばかり。人は全ての知識を知ることはできない。だからこそ色んな仕事があって、色んな人が協力していきていく、人と生きていく生き物なんだなと思いました。
Posted by ブクログ
能力の低さに相反して自責思考の強い自分には目から鱗の本やった。書かれている集合知の概念をあらゆる組織で共有できれば生産性も幸福度も爆上がりすると思う。
Posted by ブクログ
複雑な世界をすべて理解することなどできないため、人間の知性は新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化してきた。我々は自身の外部、"知識のコミュニティ"に蓄えられた情報に頼って生きており、認知的分業を行っている。そこには、外から入手できる知識と頭の中にある知識を混同して自分が多くを理解しているという"知識の錯覚"が生じており、飛躍的なイノベーションを促すなどのいい側面もある一方、薄っぺらい情報に流されやすいといった弊害もある。まずは自身が無知であることを自覚し、知識のコミュニティへ貢献するという精神を持つことが重要である。
筆者も述べている通り、新たな概念を提唱しているというよりは、無知を自覚しましょう、と促している内容。知識のコミュニティに貢献するという意識は、個々人のキャリア形成やナレッジ蓄積の根幹となるマインドになると感じた。