もっとライトなものかと思って読み始めたら、間違いなく骨太本。説明深度の錯覚も興味深かったが、個人的には知識はコミュニティに蓄えられる、という主張がしっくりときて納得。個人の能力より、コミュニティの知をいかに上手く使うか、の方が大事という主張は個人の能力至上主義的な考えをしている自分には目から鱗だった。
フレーズ
人間は自分が思っているより無知である、
文明が誕生した当初から、人間は集団、一族、あるいは社会のなかではっきりとした専門能力を育ててきた。農業、医療、製造、航行、音楽、語り部、料理、狩り、戦闘をはじめ、さまざまな分野にコミュニティの専門家がいた。一人が二つ以上の専門能力を持つケースもあったかもしれないが、すべての分野、あるいは一つの分野のすべての側面に精通する者はいなかったはずだ。あらゆる料理を作れるシェフはいない。傑出した音楽家はいるものの、あらゆる楽器、あらゆるジャンルの曲を弾けるわけではない。なんでもできる人というのは存在しない。
知識がすべて自分の頭のなかにあるのではなく、コミュニティのなかで共有されることを理解しはじめると、英雄に対する認識が変わる。個人に注目するのではなく、もっと大きな集団に目が向くようになる。
それに基づき、平均的な大人の知識ベースを算出したところ、得られた答えが〇・五ギガバイトだった。
運輸当局は人間がオプティカルフローを知覚することを利用して、減速させたい区間では、実際よりも速く走行しているような感覚を抱くように車線を引く。これは高速道路の出口ランプあたりでは特に有効だ。
まず働きバチがいる。巣を守り、蜜や花粉を集め、冬を越すための食料であるハチミツをつくり、それを貯蔵しておく小部屋をつくり、幼虫に餌をやるメスだ。
続いてランドアーは、私たちが人生七〇年のあいだ、一定の速度で学習を続けると仮定し、持っている情報の量、すなわち知識ベースの大きさを計算した。さまざまな方法を使ったが、結果はだいたい同じだった。一ギガバイトである。
なぜ、これほど無知な私たちは、世界の複雑さに圧倒されてしまわないのか。知るべきことのほんの一端しか理解していないのに、まっとうな生活を送り、わかったような口をきき、自らを信じることができるのか。 それは私たちが「噓」を生きているからだ。物事の仕組みに対する自らの知識を過大評価し、本当は知らないくせに物事の仕組みを理解していると思い込んで生活することで、世界の複雑さを無視しているのである。
脳は最も有益な情報を選び出し、それ以外を捨てるという作業に忙しい。すべてを記憶することは、本質的な原則に意識を集中し、新たな状況に過去に経験したものとどのような共通点があるかを認識し、有効な行動を見きわめる妨げとなる。
説明深度の錯覚」
重さの異なる物体を二つ、紐で結んで落下させたらどうなるかを予想している。そして自らの思考のよりどころであった物理法則の理解に基づき、二つの物体が重量にかかわらず同じ速度で落下することを正確に推測していた。
ただ物体が曲面上を回転するときには、この法則は当てはまらない。
直観は単純化された大雑把な、そして必要十分な分析結果を生む。それは何かをそれなりにわかっているという錯覚を抱く原因となる。しかしよく考えると、物事が実際にはどれだけ複雑であるかがわかり、それによって自分の知識がどれほど限られているかがはっきりする。
それからコロニーを離れ、他のコロニーの女王バチと生殖する雄バチがいる。
個々のハチに自らを守る力はない。働きバチは交尾ができない。雄バチは食料を集められない。女王バチには幼虫を世話することはできない。それぞれの個体には決まった仕事があり、そこにおいて卓越した能力を発揮する。
専門知識の集合体として、うまく機能すれば各部分の総和を超える集団的知能を生み出す。
コミュニティのなかに知識があることを知っているだけで、私たちは自分が知っているような気になる。
たしかに大げさな言い分ではあるが、今日の世界で、私たちは驚くほど人づての情報だけを頼りに生きている。自分の身に起きることのうち、直接的な知覚経験を通じて理解することはほんのわずかだ。
私たちの知識ベースの大部分は、外界とコミュニティに存在している。理解とは、知識はどこかにあるという認識でしかないことが多い。高度な理解とは、たいてい知識が具体的にどこにあるかを知っているというのと同義である。実際に自らの記憶に知識を蓄えているのは、真に博識な人のみである。
すでに世界を変えつつある超絶知能とは、知識のコミュニティである。テクノロジーの大きな進歩を実現する道は、超人的能力を持った機械を創ることではない。広がりつづける知識のコミュニティを、情報が自由に行き交うようにし、協業を促すことによって実現する。
概して、問題に対する強い意見は、深い理解から生じるわけではない。むしろ理解の欠如から生じていることが多い。
偉大な哲学者で政治活動家でもあったバートランド・ラッセルはそれを「情熱的に支持される意見には、きまってまともな根拠は存在しないものである」と表現している。
意見が神聖な価値観で決まれば、結果がどうであろうと関係なくなるというのは、他者を説得することを生業とする人々が数千年のあいだに身につけてきた知恵だ。
リーダーのもう一つの任務は、自らの無知を自覚し、他の人々の知識や能力を効果的に活用することだ。優れたリーダーは個別の問題について深い知識を有している人々を周囲に配置し、知識のコミュニティを形成する。それ以上に重要なのは、優れたリーダーはこうした専門家の意見に耳を傾けることだ。意思決定をする前に、時間をかけて情報を集め、他の人々と相談するリーダーは、優柔不断で頼りなく、ビジョンがないと思われることもある。世界は複雑で容易に理解できないものであることを認識しているリーダーを、きちんと見きわめようとするのが、成熟した有権者である。
流動性知性とは、誰かが「賢い」というときに私たちが念頭に置いているものだ。その人物はどんな話題についても迅速に結論を導き出し、新しいこともすぐに理解する能力がある。一方、結晶性知性は、記憶の中に蓄積され、すぐに使える知識がどれだけあるかを指す。そこには語彙の豊富さや、一般知識の豊かさが含まれる。
知識はコミュニティのなかにあるという気づきは、知能に対するまったく別のとらえ方をもたらす。知能を個人的属性と見るのではなく、個人がどれだけコミュニティに貢献するかだと考えるのだ。
その人物が居合わせたとき、集団が問題解決に成功した頻度、あるいは失敗した頻度はどの程度か。
認知的分業のなかで自分にできる貢献をし、知識のコミュニティに参画することが私たちの役割ならば、教育の目的は子供たちに一人でモノを考えるための知識と能力を付与することであるという誤った認識は排除すべきだ
私たちが個人として知っていることは少ない。それはしかたのないことだ。世の中には知るべきことがあまりに多すぎる。多少の事実や理論を学んだり、能力を身につけることはもちろんできる。だがそれに加えて、他の人々の知識や能力を活用する方法も身につけなければならない。実は、それが成功のカギなのだ。なぜなら私たちが使える知識や能力の大部分は、他の人々のなかにあるからだ。
知識のコミュニティにおいて、個人はジグソーパズルの一片のようなものだ。自分がどこにはまるかを理解するには、自分が何を知っているかだけでなく、自分は知らなくて他の人々が知っていることは何かを理解する必要がある。知識のコミュニティにおける自らの位置を知るには、自分の外にある知識について、また自分の知っていることと関連のある知らないことに自覚的になる必要がある。
「ダニング・クルーガー効果( 3)」、すなわちパフォーマンスが低い人ほど、自らのスキルを過大評価するという認知バイアス