ラディゲのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
【本の内容】
第一次大戦下のフランス。
パリの学校に通う15歳の「僕」は、ある日、19歳の美しい人妻マルトと出会う。
二人は年齢の差を超えて愛し合い、マルトの新居でともに過ごすようになる。
やがてマルトの妊娠が判明したことから、二人の愛は破滅に向かって進んでいく…。
[ 目次 ]
[ POP ]
作家が若いときでないと書けない物語があるように、読者もまた若いときでないと感じ得ない衝撃があると僕は思う。
そういった意味で、『肉体の悪魔』は10代の頃に読んでいたらもっとぶっ飛んでいただろうなと悔やまれる一冊だ。
これでもかというほど一人称で書かれていて、景色はあまり意味をなさない。
傷つけたのが自分なら、傷を癒すのも自分でなければならない。
すべては愛するがゆえ。
もっと上手い方法があるのに、そうすることができない。
若さというのは後悔でさえ勘定の内なのだ。
粗削りとさえ感じるが、それこそがこの小説の魅力であり、心に突き刺さる。
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
三角関係を描いた作品ですが、主人公が自分の恋心に気づくのあまりに遅くて、かなり焦らされる感覚がありました。
ゆったりとした展開なんだけど、ちょいちょい印象的なイベントがあって、その都度、お前何をやっているのだ…と登場人物たちに突っ込みたくなる感じでした。とりわけフランソワの母の軽率さ驚いてしまったよ。
作者がところどころメタ的に前へ出てくるのが、自己顕示欲高めに感じられて、自分はあまり好きではなかったです。
終盤のチロリアンハットの場面は、そこまでの繊細な心理劇と比べると急に喜劇的で、決着に向けて人物の感情を強引に動かしているように思いました。 -
Posted by ブクログ
三年半ほど前、高校生のときに古書店で古い文庫を買って
積んだまま読まずに〈引っ越し処分〉していたことを思い出し、
反省しつつ光文社古典新訳文庫を購入。
早熟・夭折の天才と言われるレーモン・ラディゲの(短めの)長編小説。
1920年2月、パリ。
高等遊民の一種である二十歳の青年フランソワ・ド・セリユーズは、
社交界の花形アンヌ・ドルジェル伯爵およびマオ夫人と出会った。
フランソワの友人で外交官のポール・ロバンも交えて
サーカスを楽しんだり非合法のダンスホールで踊ったりして、
彼らは親交を深めていった。
フランソワは次第にマオ夫人に恋情を覚えるようになり、
距離を取るべきか縮めるべきか思い悩む。
一方、マオの心は……。
享楽的な暮らしを送る、
20世紀になっても貴族としての特権意識を失わない伯爵と
控え目な妻の間に、
上品だが物怖じしない青年が割って入るという
三角関係の物語。
フランソワはマザコンであることを自覚し、
母から精神的に自立するには一人前の男として
誰か特定の女を愛す必要があると考え、
最良の相手がマオ・ドルジェルだと思い至る。
それは恋ではないと思うが(笑)。
一方、マオは名家の出で、
若くして伯爵夫人となったため、
一般的な意味での社会経験に乏しい女性で、
夫の庇護下で安閑と暮らしていることに
引け目を感じていたかもしれない。
そんな彼女が――『肉体の悪魔』の人妻マルト・グランジエとは違って
――実際に不貞を働くわけではないけれども、
不意に現れた気品のある――しかし、
実は内面はウジウジ、グシャグシャしている――青年に
心を動かされ、思い悩むという話。
彼女は秘密を抱え込んでいられず、
自分と彼を引き離してくれとフランソワの母に手紙を書き、
遂には夫にも心情を告白してしまう。
面白いのはエンディングでの夫のリアクション。
彼はあくまで妻を籠の中の鳥のように愛で続ける意思を翻さず、
結果、彼女の心は
現状以上にフランソワへ傾くことはないとしても、
夫との間には、
さながら一枚の紗幕が掛かったかのような距離感が
生じてしまうのだった。
マオにもっとバイタリティや図々しさがあれば、
苦労を承知で自由を求めて外へ飛び出す、
イプセン『人形の家』のノラのようになれたのだろうか。
仮装舞踏会は準備すら中途半端で、
一同はこれから改めて各々の役回りを定め、
それに従って上辺だけは楽しそうに、
力尽きて倒れるまで踊り続けるのだろう。 -
Posted by ブクログ
三年半ほど前、
高校生のときに古書店で古い文庫を買って積んだまま
読まずに〈引っ越し処分〉していたことを思い出し、
反省しつつ光文社古典新訳文庫を購入。
早熟・夭折の天才と言われる
レーモン・ラディゲの(短めの)長編小説。
作者の分身と思しい語り手〈僕〉の思い出。
分けても15歳からの激動の日々について。
第一次世界大戦下のフランス。
〈僕〉は四つ年上の画学生マルト・グランジエと出会い、
興味を募らせていったが、
彼女には婚約者ジャック・ラコンブがいた。
しかし、彼女が予定通り結婚した後も
互いに秋波を送り続け、
ジャックが戦線に送られた不在のうちに、
当然のように一線を超えてしまった――。
20世紀不倫小説の古典、但し、
当事者が十代なので相当に青臭い。
結末は2パターンのいずれかであろうと
予想しつつ読み進めた。
1.ジャックが戦死し、
マルトは晴れて〈僕〉と再婚。
2.マルトと〈僕〉は
白い目で見られる不倫に倦んで関係を清算。
が、どちらでもなく、
しかも、1・2よりもっとひどいエンディングだった。
そもそも〈僕〉は周囲を見下す鼻持ちならないヤツで、
マルトが彼のどこに惹かれたのか、よくわからない。
ジャックに問題があったとすれば、
マルトが絵を嗜むのを快く思っていないらしい点ぐらいだし。
彼女も若かったので、スリルを求めていたということか。
もう一つ考えられるのは、下品な穿鑿で恐縮だが、
マルトにとって性的な相性が
ジャックより〈僕〉の方がよかったから、かも……とかね。
とはいえ、独白の中でしばしば愛を口にする〈僕〉は
女を嫌いではないし、
その気になればセックスも充分に出来ます、というだけで、
本当に女性を――マルトを――愛しているとは受け取れず、
これはホモソーシャル小説の変形ではないのか?
と疑ってしまった。
女性との性的接触を汚らわしいが避けて通れない道と考える
高慢な男子が、一人の女の人生を踏み躙ってしまう、
といった筋書きの。
タイトル"Le Diable au corps"(カラダの悪魔) とは
《胎児》ではないのかな。
それが宿ったがためにマルトと〈僕〉は破局を迎えた、
という。
いや、不倫なんだから避妊しなさいよって話で。 -
購入済み
難しい
難しいですね。
若いうちに読んでたらなにか思うところもあったかもしれないけれど、
今の私にはなんと言ったら良いのかわかりません。
私の感受性の問題だろうか。
ともかく一つ言えるのは、若いうちに読んだほうが良いと思います、そのときは理解できないとしても。
初めて読むのが歳を取ってからだと、
理解はできてもどう評価したら良いのかわからない感じになってしまいます。 -
Posted by ブクログ
訳者中条省平さんの解説から引くと、筋書きは、
早熟な少年が、人妻に恋をし、その夫が戦争に行っているのをいいことに肉体関係を続け、彼女の生活をめちゃめちゃにしてしまう、
というもの。
作者の実体験に基づいて、16〜18歳のときに執筆されている、というのが、まず驚き。
ヒロインであるマルトの人格がよく分からないというか共感し難いのだけど、古典新訳の対象として選ばれたのは何となく理解できるような。
『カフェ古典新訳文庫』で思い入れのあるひとの文章を先に読んだからかもしれないが。
少なくとも100年前の小説には思えなかった。
三島由紀夫が惚れ込んだ作者と作品らしい。
赤ちゃんの父親が誰か、という点で、終盤くるんと一回転して、元に戻る辺りは、してやられた感がある。
お昼のメロドラマ的な安っぽい作品とも言えるし、夭逝した天才作家の傑作とも言えるし、出版社の腕の見せ所のある作品か。
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Posted by ブクログ
ラディゲと言われても良く知らない。コクトーと言われると「オルフェ」を思い出す。その程度の知識で読んでみた。
物語自体は刹那的で破滅的なひたすら身勝手な若者の恋愛悲劇で、正直、だから何?的なものではある。だがしかし、一人称の語りが一貫して第三者的であり、なおかつ詩的で、この小説を単なる恋愛悲劇と呼ばせない文学的な厚みを持たせている。実際、その表現力は実に的確で、詩的だ。
「猫だって一生軽いコルクに悩まされるより、ひと月だけ重い鍋を引きずるほうがましだと思うにちがいない。」
「この残忍な愚弄は、愛が情熱に成長するときの声変わりだった。」
「妻を亡くし、これほど誇り高く絶望を克服する男を見て、いつかは世の中の秩序が自然に回復していくことを悟った。」
肉体の悪魔というタイトルだが、悪魔は出てこない。ここにあるのは、永遠に刹那的には生きられない人間の運命と、実態としての肉体をもって続いていく人間の血縁と、その檻に囚われて叫び声をあげる人間の精神なのだと思った。 -
Posted by ブクログ
二十歳で夭折した20世紀フランスの小説家レイモン・ラディゲ(1903-1923)による、自伝的要素を含んだ処女小説、1923年。
本作品の舞台が戦時下であると語るところから、物語は始まる。
「僕はさまざまな非難を受けることになるだろう。でも、どうすればいい? 戦争の始まる何か月か前に十二歳だったことが、僕の落ち度だとでもいうのだろうか?」
第一次大戦という、深甚な虚無に否応もなく曝された少年。時代が少年にも強いる精神の屈折。無邪気で在ることを許さない、屈折。
それでもこの少年は、子どもじみた万能感から、自分が子どもであることを否定して成熟した大人であろうと、心理に於いても行動に於いても演じていくのか、演じさせられていくのか。そして、女を愛し所有しようとするその振舞それ自体がどうしようもなく幼稚でしかない少年、その幼稚さの残酷さが戦争と云う時代の雰囲気の中で詩情の顔をして剥き出しになった物語。
「これまでは、欲しいものはすべて、子供だからといって諦めなければならなかった。そのうえ、人がくれた玩具は、お礼をいわなければならないという義務感で楽しさが損なわれた。そんな子供にとって、自分から進んでやって来る玩具は、どれほど貴重なものに見えたことだろう! 僕は情熱に酔っていた。マルトは僕のものだ。僕がそういったのではない。マルトがそういったのだ。・・・。『いいわ、噛んでちょうだい。わたしにしるしをつけて。みんなに知らせたいの』」
若さ、というよりも、幼さと云っていいエゴイズム、臆病なエゴイズム。そこに発する愛情と支配欲、嫉妬と憎悪、desperate な情熱、野蛮な激情、それら感情の極端な振幅。そして複雑に錯綜する自省。そこには、虚無に浸された頽廃した諦念とともにある暗く透明な影、「無」へ、消えてしまえばいい。「社会」も「道徳」も「政治」も「宗教」も、この少年の内に入り込む余地は無い。
「僕の心はまだ未来のことなんか考えない年齢だった。そうだ、僕がマルトのために望んでいたのはすべてを消してくれる無だ。いつの日かまた一緒になれるもうひとつの世界なんかじゃない」
この科白は虚無の中に在る「愛」の言葉の極北だろう。
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「もし愚かな青春があるとすれば、怠惰だったことのない青春だろう。・・・。はたから見れば空っぽに見えるこの長い日々ほど、僕が多くを学んだことはかつてなかった。・・・、僕はこの長い日々、自分の未完成の心をじっと見つめていたのだ」