菅野覚明のレビュー一覧
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10年ぶりくらいに著者の本を読んだが、やはり彼の武士道論は素晴らしい。武士は命を懸けて戦うからこそ事実確認から入ることを重んじていた。甲陽軍鑑に書かれた脇差心。武士ならば立派な武士になろうというのが武士道の起源。葉隠に書かれた死に狂いするなかにこそ忠孝は存在するという鍋島直茂の言葉。軍隊がなぜ掃除をするかといえば戦闘者は見る存在であり、相手の油断や隙を見つけなければならない、そのためには隅々まで神経が行き届いていなければいけない。優しくできるのは強さという前提があってこそ。朝倉宗滴の犬ともいへの言葉の真意は何をしても勝てばいいということではなく、どんな卑怯な相手にでも負けてしまっては何も言えない、嘘や卑怯は最終的には自分を滅ぼしてしまうかもしれない、そういう厳しい現場を生きていることを自覚せよであること。すでに死んだ自分になるための自分の死にざまを思い描く観念修行で、それが死ぬことと見つけたり。潔さとは散り急ぐことが美しいのではなくタイミングがぴったり合っていることが美しいということ。文武の文は詩歌管弦の分野であること、知情意の情に関わるところで、相手の心情を察し深く思いやる能力があるかないか、もののあわれを知る心があるか。
司馬遼太郎の進歩主義、近代的合理主義は、もちろん武士も合理性を持ち合わせていたがもっと大切にしていたものがあり、それを否定する武士道に相反する思想である。 -
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本書は、新渡戸稲造以前の本来の武士道とは何かを語る書
それを、武士道の逆襲といっている。
武士とは神仏に頼らず、己の力のみを頼りにするというところがよい。
新渡戸稲造の武士道とは、”Bushido, the Soul of Japan ”
明治国家体制を根拠として生まれた近代思想である。
「武士道」とは武士のそれではなく、明治国家の近代市民の思想なのである。
本書は、それを「明治武士道」といい、本来の男道、武士道とは区別している。
本来の武士道とは、平安中期、八幡太郎義家以来徳川幕府にいたる武士のの流儀・気風を言う。
それを、「兵の道」「弓矢の道」「武士道」「男道」などという。
■武士道とは
①八幡太郎義家以来の「本来の武士道」 江戸時代前期まで、戦国乱世の先頭者の精神そのもの 武士たち自身の俺は武士だという自覚そのもの
②「士道」 山鹿素行以降の平和な時代の武士道 己の職分を知る、戦場における戦闘者の働きを儒教的道徳によって説明する 多分に本来の武士道が含まれている
③明治武士道
■武士とは
・次の3つを満たすものが武士
①戦闘を本来の生業とする者
②妻子家族を含めた独特の団体を形成して生活をする者
③私有の領地の維持・拡大を生活基盤とし、かつ目的とする存在
・自己や一族の生死存亡はすべて自分の力のみかかっている
・自己の存在を保つためには、刀を抜いて切りかかるその一事にある
・武士は武力のみならず、知恵、人望、統率力など有形無形のあらゆる力の総合の上に立つ
■実力家業の世界
・よりどころは、神でも仏でもない。ただ、己の力のみ
・強ければ奪い、弱ければ奪われる。それが武士の掟
・自らの存続をするためには、事実だけだ。そして証拠を重んずる
・勝って生き残るか、負けて死ぬか、その2つに1つ。中間なるものはない
・武士はただ強いだけではない、相手の心情を察し、思いやりを持って応える「武士の情」をも持ち合わせている。
■兵の威
・肉体のすべてが武器であるともに、精神もまた武器である
・制約とは弱み、相手が鬼だろうが神だろうが、踏み込んでつかみかかれ
・常在戦場
・武士は「名」を重んじる。勝ちがなければ、そもそも名を得られない。いったん得たあとも、勝ちつづけていかなければ、その名を保つことができない。
・平家物語 齋藤別当実盛
・優れた武士とは 剛強にして、分別・才学ある男。豪強とは、他人に頼らず、また他人を気にかけずひたすら自分の力と分別によって手柄を立てようとする武士
・武士が生きるのは、金品や言葉のやり取りでなく、命のやり取りである。
・勝つことが命である。犬といわれようが、畜生といわれようが勝たないことにはお話しにならぬ。
・分別のある大将とは、覚え、すなわち、経験と実績がある大将でなければならない。
・武士にあるまじきこと、ふたごころ、すなわち心に嘘偽りがあることをいう。うろんたる事、あいまいなこと、裏表のはっきりしないこと。
■主従
・忠孝の道徳や、利害、報酬だけで、主従の緊密な一体が生まれることはない、幼少から生活をともにした具体的な実体験から生じる。
・侍に上がり下がりはない。武士としての本文を超えた、人間としての心のふれあいのことを言う。
・武士の値打ちは、死んでみてはじめてそれと知れる。
■一生
・いかなる場合にも刀を抜かないのであれば、その者は武士ではない。そして刀を手に取る時は、まさに人を切るときである。
・第一抜くべきときに刀を抜かぬのは、男道に反するということだ。
・武士道とは死ぬことと見つけたり 武士は常に、死を意識して死ぬ覚悟をもっている。
・武士の定年は60ではなく、刀を抜いて死ぬまでだからだ。
・武士とは、人をあてにせず、また、他人の仕方を云々したりそれに左右されたりせず、自ら磨き上げた己の力をよりどころとする
■明治武士道
・西洋式軍隊の強さの根源は、節約とのメカニズムである。
・帝国軍隊は、近代的な国家の軍隊でなければならない。
・軍隊の精神的基盤たる軍人道徳は、結局、武士たちの道徳に頼らざるをえない。
目次
第1章 武士道とは何か
第2章 勝ちがなければ名は取れぬ
第3章 主君と家来
第4章 一生を見事に暮らす
第5章 明治武士道
あとがき
ISBN:9784061497412
出版社:講談社
判型:新書
ページ数:304ページ
定価:880円(本体)
発売日:2004年10月20日第1刷 -
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201309/
武士の実力は、基本的には、リアルな物質的な力の総合にある。現実に己の存亡を懸けている現場にあっては、そのことを単純に否定するような妙な精神主義の入る余地はない。ただ、そのリアルな力の現実を見据えつつ、その力を保持し、駆使し、拡大していくことができるための条件として、ある種の人格的、精神的な力が考えられていたのは確かである。/
今日の社会では、一応の建前として、自他の対立は、話し合いによって解くべきであるという考えが主流を占めている。理性的な対話こそが無垢・絶対であるとする立場に固執するならば、たとえば問答無用で切りかかってくる武士に対して、どのような言葉を投げかけうるのかを考えてみる必要があるように思われる。自分と他人は異なっているということの深さは、何によっても埋めがたい。どうしても対立を解消したいのなら、刀を抜いて相手を倒す以外にない。こういう考えを、野蛮であるといって片づけるのは簡単である。しかし、そういったからといって、自他の隔たりの深さという問題自体がなくなるわけではない。むしろ、武士を野蛮と笑うそのときに、私たちは、他者の他者性という問題自体を見失っているかもしれないのだ。/
武士道はキリスト教と矛盾しないという対外的な説明に使われた武士道は、ここでは逆に、キリスト教は武士道と矛盾しないという対内的弁明に用いられることにもなる。/
本書がとらえる武士道の基本骨格は、キーワードで示すなら、「私」「戦闘者」そして「共同体」である。これらは、それぞれ「自立」「実力」「心情的一体」という三つの価値に対応している。それは新渡戸稲造の『武士道』とは、まるっきり似ても似つかぬものであるということだ。/ -
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ネタバレ【Impression】
武士道を全く持って勘違いしていた。
確かに言われてみれば、「武士道」が全て綺麗ごとで(現代的な感覚で)語られていることに違和感はある
実際、「殺人」を生業としている人たちのことで、そのような世界に身を置いている人に対して、現代の感覚での道徳がニアリーイコールとなるはずはない。
「武士」の世界の凄絶さがよく伝わってきたと同時に、頭の中の整理も出来てよい本だった
【Synopsis】
●現代の日本において語られている「武士道」は、武士の本質を表したものではなく「明治時代の国家・軍事体制を整えるため、世界に日本を説明するため、キリスト教と日本人の価値観の根底が一致していることを示すため」提示された概念のこと。
●武士道は、「本来の武士道」と「明治武士道」に分けることが出来、現代において語られているのは後者である。前者も正確には2分割でき、「太平時代(徳川政権)以前以後」である。
●前者の武士道においては、太平時代においては前時代の「壮絶たる武士」の行動を否定しようという動きはあるが、根底に通じる「理想の武士像」は同様である。要するに、後期武士道は儒教的な概念から武士の行動を説明するものであり、前期武士道は血みどろの戦闘の中において達成される。
●中庸はダメであり、両極端の矛盾を同時に体現する事が求められる。
●明治武士道は、天皇を中心とした「軍隊」を整えるため、武士と主人の間に存在した「つながり」を見出すため「大和魂」という「同じ日本に住んでいる」というところに見出した。かつ、外国におけるキリスト教と日本の価値観は似ている、ということを証明するために明治武士道を作り上げた。要するに「国民道徳」である。そして国民道徳において「戦闘者」であることを薦めていない。しかし、武士は「戦闘者」でないと成り立たない、よってイコールではない。 -
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明治以降の新渡戸武士道と本来の武士道は違うぞ、では本来の武士道とはなんだったのかってゆう本。
様々なエピソードや論考がとてもおもしろった。明治になって武士道が廃れ新渡戸武士道として復活するまでのところも、いきなりお家の私兵って具体的な個人の関係が抽象的な国家の軍隊にならなかったので、天皇の統帥権ってのは天皇という人格を利用したもんだとか。キリスト者が武士道を擁護してった背景に、西洋に日本にも道徳があるというのを紹介しようとしたところが大きく、新渡戸武士道もその点で本質から逸れてしまっただとか。
この本で紹介された武士の考え方で今の生活に説明がつくものも以下のように多々あって、そこは参考にしたいと思った。
武士道の根源とは本当の実力とは何かととの問いの中から生まれた。腕力だけでなく、統率力や人望や経済力や運など、様々な要素を含めたものが実力である。
重要視するのは説明でなくて事実、そうじゃなきゃ命を預けられない。
形や威儀へのこだわりは実力の発露、すべてが威の表現である。
勝たなければ名は得られない。地名を名字にするのもその地を守り抜いて来たという実力の証。
大高城から一晩動かなかった家康、これは武士としての分別があったから。一は一と事実をありのまま受けとめる分別が大事。 -
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神の存在の曖昧さを考えると、この国それ自体の曖昧さをも考えざるをえなくなる。
天照大神、天皇、日本、戦争、アメリカ…。
「自分以外にも人がいる」から、他者があったから、思想が生まれ、神が生まれ、国家が生まれ、天皇が生まれたという気がしてならない。
要するに。
怪しい、不吉な「他者」を疑う心の働きが、歴史そのものなのではないか。
自らの安心・安定こそが追求すべき正しい事柄であるとして、様々な「ラベル分け」によって、時には排除によって、人類は幸福(とされるもの)を獲得してきた。
世間で事実とされている歴史の正体って、実はその程度のものなんじゃないのか。
「その程度」のものの表面のみをすくい取って、教科書に貼り付け、それを事実であるとしているだけなんだけど、学ぶ気力のない人間は(楽をしたがるから)本当にそれを信じて、おしゃべりを始める。
その無気力さが、神の曖昧さと交わって尊王攘夷思想に結実したのが、この島国の歴史。
「〜主義者」とやらに都合よく、歴史がねじ曲げられた。
歴史は、「あるようでない」の代表格。
「あった」としても、それは物凄く個人的な性質を持っているはずだ。
その個人的な編集作業を誰にどう引き継ぐのか、自分が参加したい社会をどう築きあげるのか…。
そういう「気付き」に歴史性が宿り、遺伝し、物を語らせ続けるんだと思う。
「もののあわれ」、「かなしさ」を人の最も根源的な神がかった経験であるとした本居宣長は、個性の重要さに気付いていたのではないか?
悲しさは、無常観とは違う。
喪失する悲しみが、自分がどれだけ「未完」であるかを物語るからだ。
「未完である」から、「可能性」がある。
子供の存在はただただ正しくて、どこまでも未完成。
だから、「世界は、生まれたもの、すなわち本来的に子供であるところの存在者を愛しかわいがる為に存するのである。(P270)」
おれは民族主義者でもなんでもない。
国家、民族、性別、宗教。
誰の目から見ても明らかな、人間の(最低限の)共通した性質、よく似ている部分を利用することでしか自分を主張出来ない、他人との違いを確認出来ない人というのは、悲しい人間だと思っている。
「個性」の大切さを知ると、自らの所属する社会のルーツを知る必要性が生まれる。
「学びたい」という欲求が、とても解り易い姿で目の前に現れる。
時々、快楽も一緒に現れる。 -
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ネタバレ結果から言うと、武士道について新しい洞察を得ることができ、非常に面白い書でした。
本書ではまず、武士道の由来と内容が4章にわたって展開されます。
ここで冒頭から強調されるのは、武士道とは 「殺るか殺られるかの血みどろの現場で形成された」ということです。
この前提が一気に武士道という思想を不思議なもの、奥深いものとしてくれます。
なぜなら、武士道はなぜか「卑怯であっても勝つことがすべて」な超功利的な思想とはならなかったからです。
武士道を形成した武士道以前の現場が、「きれいも汚いもすべて出尽くした」超功利的な状況であり、おそらく「勝つことの際限のなさ」を悟ったがゆえに、武士道は精神的価値に重きを置く思想として形成されたのではないか、と筆者は分析します。
この考えが正しいかどうかはさておき、この「超功利主義を経験した末の精神的価値の選択」という点に、私はちょっとした感慨を覚えました。
では武士道はどういった点に重きを置き、また具体的にどういった内容だったのか、それが 「第3章:「最強の武士」になるための奥義」、「第4章:『朝倉宗滴話記』の思想」で詳しく語られます。
例えば武士が重んじた「潔さ」とは命を粗末にする思想ではなく、「タイミングを重視する」考えであることです。
時期でないのに死に急いだりせず、また逆に見苦しく言い逃れをしてじたばたすることなく、時期が来たらスパッと身を処す、ということです。(そのタイミングの美しさが「散り桜」に例えられるわけです。)
また武士は「もののあわれ」を非常に重視しました。本書では『千載和歌集』に収録されている八幡太郎義家(源義家)の和歌が紹介されていますが、
「吹く風をなこその関と思へども 道もせに散る山桜かな」
その意味を知ると、「最強の武士」として侍たちの尊敬を集めたあの義家がこのような優しい心を有していたのかと驚かされます。
第5章と第6章では、それまでの武士道の思想を受けての現代社会に対する筆者の分析が展開されます。
それまでの章にもチラホラと垣間見れますが、筆者が現代社会の合理主義的功利性とそれを前提した倫理観に改善の余地を見出していることは明らかです。そしてその近代的、合理主義的功利思想の体現者として司馬遼太郎が引き合いに出されています。
確かに司馬遼太郎の作品には本書で言及されるような「精神性に重きを置く価値観の否定」が垣間見れますが、筆者が指摘するほど否定しているとは私はつかみ取れていません(ただ司馬遼太郎の乃木希典に対する否定的態度には病的とも言えるものを感じます)し、司馬遼太郎のそのスタンスは先の大戦の苦しい経験から生まれたと考えると大いに同情の余地があると思います。
しかし私は筆者の述べる「強さ」に重きを置く倫理観に強く共感します。この「強さ」とは力の強さだけでなく、勇気や忍耐力、克己心も含まれます。強い者は余裕があります。だから強い者は他者に対して優しくなれる。逆に強さがない者はいくら心根が優しくてもそれを外に発露できません。
(武士はこの「強さ」を重視していました。だから強い武士ほど「もののあわれ」を知り、そして涙もろい。)
後半の筆者の持論の展開は少々突っ走っている感があり、その断定的主張についていけない人が出そうですが、全体を通して武士道の理解を深められる良書だと思います。 -
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吉本隆明という思想家を、「個」のありようについて問い続けた「哲学者」として読み解いています。とくに『固有時との対話』についての突っ込んだ考察を展開しており、興味深く読みました。
人間は、単独では自然から自立することができず、みずからを類的存在とすることによって、つまり社会の共同性というもう一つの全体性の部分へと吸収されることによってしか、「個」としての自立をなしえないというのが、吉本の思想の基礎をなしています。しかし、そうした「個」は明晰判明な自己意識などではなく「違和としての自己」であると見定め、そこから思索を開始しようとしたところに、吉本の思想の特異性があると著者は考えます。そして、このような吉本の思想の原点を、敗戦によって経験することになった「断層」に求めるとともに、吉本の転向論が、伝統的な生活意識と近代的な市民社会的意識との間の「断層」を問題にしようとしていたことを明らかにしています。
さらに『固有時との対話』を手がかりに、吉本が自己の内部世界と現実的な秩序との「違和」を「違和」として認めつつ、そのはざまで(ハイデガー的な言い回しを借りるならば)詩作=思索をおこなっていることを確かめようとしています。
『転向論』『固有時との対話』『共同幻想論』などの仕事を一本の太い線でつなごうという試みがなされており、おもしろく読みました。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
存亡を懸けて自己を問う。
武士道とは大和魂ではない。
[ 目次 ]
第1章 武士道とは何か(混乱する武士道概念;武士道の原像;実力稼業の世界)
第2章 勝ちがなければ名は取れぬ(実力とは何か;勝ちがなければ名は取れぬ;朽ちもせぬ空しき名;過激な分別;有るものは有る、無いものは無い)
第3章 主君と家来(頼もしき家来;妻子の一命;恋か、忠義か;諌言は一番槍にまさる)
第4章 一生を見事に暮らす(根本は人を切ること;死の覚悟;武士のたしなみ;我一人の精神)
第5章 明治武士道(軍人精神の成立;『軍人勅諭』;明治武士道;キリスト教と武士)
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☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
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共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
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[ 参考となる書評 ] -
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[ 内容 ]
日本人は神さまとどのようにつきあってきたのか。
古代から近世、そして今に至るまで、多様に展開された「神の形而上学」を検証。
[ 目次 ]
第1章 神さまがやって来た
第2章 神道教説の発生
第3章 神国日本
第4章 正直の頭に神やどる
第5章 我祭る、ゆえに我あり
第6章 神儒一致の神道
第7章 神道の宗源は土金にあり
第8章 危ない私と日本
第9章 人はなぜ泣くのか
第10章 魂の行方
結び 神さまの現在
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武士道が、最近巷で喧しいが、武士の武士道と明治期以降の武士道は、全く異なるもであるという的確な視点立った武士道についての解説書である。武士は、死と引き換えに戦闘する。根本は人を切ることであるのであるから、死は戦闘の為の引き換えになった倫理であろう。明治期以降の武士道は、その死の引き換えは、現実にはない。精々陸軍の死との引き換えがあったのであろうが、これは、国家の権力的統括の必要性もあったのであり、本来の武士道とは全く違うものであり、武士個人の責任とは違った位相で語られることとなった、と思う。著者は、明治15年に下された「軍人勅諭」は、自立した戦闘者としての武士を「私情の信義」として否定したと述べる。武士の義とは、人を斬る義であって、又、斬られることもあるという義でもある。そこには、自己の確定こそが、思想として深められる必然的切っ掛けがあるが、軍人勅諭のように、国家のための、他者による義が説かれ諭されるためにする構造などにはないのが本義であろう。明治武士道の虚妄性がここに潜むと私には思える。
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Posted by ブクログ
神道の内側、というか教義無き教義を見ていく意欲作。神をおとなう「客人」(まらうど)として捉える。この見方に合点がいった。著者の「力量」が見える。p77
「このように、神国という言葉は、日本という国の神秘性や優越性を直接言い表しているわけではない。神と人との独特な緊張関係において統一の成り立っている特殊な国情を第一義としてあらわしている。天照大伸の命によって天皇がこの国を統治することが定めれた時点に確定し、それが天皇のある限りに続いているのである。万世一系の天皇の統治とは、国柄の優秀性を表すものではなく、神国の特異な内部構造の要の位置に、神と人とを媒介する天皇という軸があるということを意味している。」
吉田神道から、垂加神道、北畠親房の「神皇正統記」に於ける神道論など、気づかなかった論理の展開があって、読ませる一冊。
天皇の統治者としての側面が表、祭祀者としての側面が裏にある。この裏を自律させる方向が神道教説の発生を促した。
引用
「 神の国のそのすがた
北畠親房の『神皇正統記』は、次のような有名な書き出しから始まる。
「大日本(おおやまと)は神国なり。天祖(あまつみおや)初めて基をひらき、日神(ひのかみ)(天照大神)ながく統を伝給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神団と云也。」
このくだりは、戦前・戦中のわが国においては、まさに日本が「家系、血統、或ハ特殊ナ
ル起源ノ故ニ」「他国二優ルトスル主義」を初めてそれとしてはっきり規定した文言として
称揚され、いわゆる皇国至上の考えを端的にあらわすスローガンとみなされてきた。確か
に、『日本書紀』神話の伝統を背負うわが国の統治のありようを、「我国のみ此事あり。異
朝には其たぐひなし。此故に神国と云也」と定義しきった点は、『神皇正統記』の大きな特
徴であるといえる。近世の国学者や、儒学者のある一派の人々は、北畠親房のこの定義を、
神の子孫が治めるという神聖性、および王朝の交代がなく囚が安定していること、という
二つに要約し、それをもって日本が他国に優れていることの根拠とした。親房のいう「異
朝には其たぐひなし」は、神国イコール他国に優るという主張として読まれてきたのであ
る。
だが、第一章で見てきたことからもわかるように、神であるということを直ちに神聖な
もの、優れたもののイメージに置き換えてしまうのは、日本の神のもつ奇(くす)しく異しい、底知れぬ豊かな奥行きを、痩せ枯れた抽象へとすり替えてしまうことになる。繰り返しいう
ように、日本の神は、真にして善なる超越者などという単純なものでは決してない。神は、のどかな田園風景と集中豪雨で泥につかった田畑とが、あるいは愛らしい飼い猫と敵の喉
笛に喰いつく化生の猫とが、同じでありつつ異なるという連続と断絶のうちに、いわば景
色の反転それ自体としてあらわれている何ものかである。その限りで、神は私たちの日常
の道徳の延長上にとらえることはできない。神国イコール他国に対する優越という理解に
は、神を道徳的な善なるものにみなそうとする近世・近代的な先入見が強く作用している
といわざるをえないのである。
『神皇正統記』の記述を注意して読めば明らかなように、この文言のどこにも、神国であ
るということは正しく優れていることだとは書いていない。他国よりも優れているとする
読みは、神とは正しく優れたものだという先入見から出てくるに過ぎない。そして、北畠
親房の考え自体も、神国の優越といった主張とは、おおよそかけはなれたところにあるの
である。
では、親房のいう神国の本当の姿とは、一体どのようなものだったのであろうか。
この国の初発のありようを国常立尊が方向づけ、天照大神の命によって天孫が統治する
という形でこの図の形は確定した。『正統記』冒頭の語る神国の規定はこのようなものであ
った。この文言を皇国の尊貴性を説くものと解する読み方は、この箇所を、国家の統治形
態のゆるぎなきことが神によって約束・保証されていることを意味するものと読む。それ
は、王朝が一定しない他国(とくに中国)と比べたときの、わが国の「団体」の磐石さを示す
のだとされる。天皇による統治の絶対性を賛美するこの理解の仕方は、しかし、逆説的な
言い方になるが、実のところ全く天皇の立場に内在しないがために出てくる誤解なのであ
る。
親房は、南朝の重臣として、天照大神の正統たる天皇を、天孫降臨の際天孫に随侍して降った天児屋命(あまのこやねのみこと)の嫡流たる藤原氏が補佐する為政(摂関体制)のあるべき理念を追究した。
南北朝動乱のさ中で、すでに実質を失っていた天皇の為政の復興のために奔走していた親
房が、「日神ながく統を伝」えた天孫降臨神話の中に読みとろうとしたのは、神話の記述に
よって天皇の統治が保証されているなどという気休めではなく、天皇が統治するというこ
とが一体何を意味しているのかということであった。そのことの意味を正しくとらえ、そ
れにかなった為政が再び実現するならば、天地の初めに示されたこの国のあるべきありよ
うは必ず復活するはずだと、親房は考えたのである。
親房はいう「代(よ)くだれりとて自ら苛(いやしむ)むべからず。天地の始は今日を始とする理なり」と。
「神国の権柄武士の手に」前掲『太平記』〉帰してしまっている今日においても、神と天皇と
が根源的において一であるというこの団の基本のあり方は変わっていない。「神道に違(たが)ひては一日も日月を」戴くことができないという、この国のあらかじめ約束されたありように
かわりはないのであり・・・・。
p88三種の神器と「正直」
この国は、神を祭ることでのみ、国として保たれるのだ。親房は、このように考えた。三種の神器の象徴の内に彼が読み取ろうとしたのは、まさにこの点、つまり天皇が神を祭ることでこの国が治まるということの実質的な内容なのであった。親房はそれを、「政の可香にしたがひで御運の通塞あるべし」ととらえる。そしてこの「政の可否」の基準を示すのが、三種の神事なのである。
三種の神器は、為政のありようとして次のようなことを象徴するとされる。
「此三種につきたる神勅は正く国をたもちますべき道なるべし。鏡は一物をたくはへず
私の心なくして、万象をてらすに是非善悪のすがたあらはれずと云ことなし其すが
たにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源なり。此三徳をあわせ翕受(あわせうけ)ずしては、天下のをさまらんことまことにかたかるべし。」
荒ぶる神の跳梁する混沌を、治まれる世へと反転させた動力は、正直・慈悲・智恵の三徳
であった。「天地の始」における景色の反転がこの三徳によってなされたということは、衰
えた今日の世にあっても、この三徳が為政の上に実現されるならば、ただちに乱世を治世へと反転することができる。「今日を始とする」と説く親房の信念は、このようなものであった。
親房は、三徳の中でも特に、正直を重視する。正直は、天照大神そのものである鏡に付
された徳である。『神皇正続記』 には、『倭姫命世記』 や『宝基本記』 に記された「正直を先とすべき」 ことを示す天照大神の託宣が三つ載せられている。
日月は四州をめぐり、六合を照すといへども、正直の頂(いただき)を照すべし。
神はあまねく世界を照覧する。しかし、神が最も親愛するのは、正直な人々である。正直
であるとは、「左を左とし右を右とし」て「太神につかふまつ」る、平凡で素朴な人々のあ
りようである。巾ヨたり前を当たり前として行う人々こそが、忠実に神の祭りを全うするこ
とができる。当たり前を当たり前にということこそが、為政の根本なのでもある。
神を祭ることに忠実な人々のありようとしての正直こそが、神団の為政の根本原理であ
ると親房は考える。最も深く神を引き受ける人々は、平凡で素朴な人々である。それゆえ、
平凡で素朴な人々の当たり前の生活こそが、神を祭る団である神国の本当の内実である。
平凡な日常世界の持つ重み、奥行きを真に知る者こそが、神を祭ることを全うできるので
ある。