大野晋のレビュー一覧
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キ、ヲ、ヂ、ヒコ=男の神
ミ、メ、ベ、ヒメ=女の神
仏教の伝来 蘇我氏は賛成、中臣氏、物部氏は反対。
仏神=ホトケという神。神宮寺=神社の中に寺を建てた=神仏習合。
神道。両部神道と山王神道。伊勢神道。卜部神道。
国学としての神道=江戸時代。本居宣長など。新政権の御維新=神武の親政に復帰すること=神仏分離令、廃仏毀釈。
神社なのに本尊は仏像=ホトケが神の領域に入り込んでいた。
日本語と同じ文法構造=アルタイ語=ツングース語、モンゴル語、トルコ語を含む言語群。しかし文法は同じだが単語は共通ではない。
インド最南端のタミル語が対応語を持つ。朝鮮語とも。
カミの言葉はタミル語から。 -
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大野晋先生の切り口は面白い。
「もののあはれ」、「ものさびし」、「ものいひ」などの「もの」の付く古語の意味を正確につかむために、「もの」という言葉にスポットをあてて突き詰めていく。
現代では、「もの」と言われれば、「物体」としての「もの」くらいしか思い浮かばない。
しかしながら考えてみると現代でも、「物思い」など、「もの」が付く言葉がある。この「物思い」の「もの」は、決して物体としての「もの」ではない。
この「もの」という言葉を題材として、源氏物語での用例を読み解きながら、古語の「もの」という言葉の意味を解明していく。
大変面白く読ませていただき、ためになった。 -
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・大野晋「日本人の神」(河出文庫)は いかにも国語学者大野晋らしい書であつた。内容は「日本語のカミ(神)という言葉の由来をたずねてみようと」(10頁)いふものである。語源に始まり廃仏毀釈まで、いやもつと幅広い話題にあふれてゐる。その根本には国語学者の思考と方法がある。もともとは「一語の辞典」といふシリーズの1冊として刊行され たといふ。この「神」へのこだはりもむべなるかなである。
・巻頭の語源で問題になるのがカミのミである。これが大野の上代特殊仮名遣ひに関連するといふのはよく知られたところで、神のミは乙類であつて、甲類の、 例へば鏡のミだとか、上のミだとかとは別の音であるといふことである。つまり、従来の「神」の語源説はまちがひなのであつた。そこから日本の「神」の概念を考へ、仏教の「仏」との対比をし、更にその両者の関はりを考へていく。この中で本地垂迹や神仏習合に触れ、関連して国学の発展に言及する。神をめぐる日本の思想史とでも言ふべき内容である。かういふので終はれば、失礼ながら何だこれだけかといふことになつてしまひさうである。ところがそこは大野晋である。そんな形では終わらない。まだ先がある。「カミの輸入」である。その前に「ホトケのぶちこわしとGodの輸入」なる章があり、西洋的な一神教に於ける神との違ひに触れてゐる。そのうへで、日本のカミはどこから来たかを最終的に考へるのである。結論から言へば、大野晋の専売といつても過言ではないタミル語である。日本のカミはタミル語から来た……大野晋であるから、ある意味で予定調和的な世界である。さうであるからこそ、ここできちんと日本語とタミル語の関係を説明してゐる。タミル語とは、「インドの最南端に、現在五〇〇〇万人の使用人口を持ち、B.C.二〇〇年~A.D.二〇〇年の間の、詩二四〇〇首 を持つ」(132~133頁)言語である。「日本語との間に五〇〇の対応語をもつが、それだけでなく朝鮮語との間にも何百という多数の対応語をもつ」 (133頁)言語である。しかも、考古学的にも日本とタミルの関係が明らかになつてゐる(134頁)。このあたりは他の大野の著作に詳しい。本書に関連して言へば、カミ関連の語の対応ももちろん多くあり、しかも、その意味内容から日本のカミと「音形と意味において全面的に対応する」(177頁)語もまたあるのである。ただし、この事実から日本のカミ概念が先かタミル語が先かの判断はできない。いづれにせよ、ここで大野の考への正当性が確認されることにな る。これを我田引水と言つては失礼であらう。ただ、私はタミル語を全く知らないので、大野が日本語との対応等を示しても、その妥当性を判断することができず、さうなのかと感心するばかりである。このカミに関しても同様、大野によれば、日本のカミは確かにタミルに続いてゐると思ふ。現在、この大野の起源説がどのやうに評価されてゐるのか、これを私は知らない。ただ、学会で広く受け入れられてゐるのかどうか。国語学会は困惑の体であらうか。言語学的にはいろいろと問題が多いらしい。だからといふわけではないが、私も眉唾の感を捨てられないのである。おもしろいことはおもしろい。例の如く、なかなか見事な素材の料理の仕方、書きつぷりである。首尾一貫してゐる。だから、こんなにうまくいくものかと思ひつつも、感心して読んでしまふ。それでも、私にはタミル語について今一つ釈然としないものが残る。この起源説によるカミ解釈が大野の言ひたかつたことだといふのは分かる。分かるからこそ、ここでもそれをもつとつきつめてほしかつたと思ふばかりである。 -
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春の うきうきした感じを言ふためにこれを出した。それからすればこれは納得できる訳だと思ふ。では、大野晋編著「古典基礎語の世界 源氏物語のもののあはれ」(角 川文庫)にどうあるか。結論だけ記せば、「『源氏物語』以前のモノノアハレは専ら『人の世のさ だめのあわれさ』に限られていた。ところが『源氏物語』ではそれが右に見たように『男と女の出会いと別れのあわれさ』の意に片寄って使わ れてゐる。」(188頁)つまり、先の徒然とは非常に違ふのである。ただし、補足的に「『源氏物語』には『季節の推移に感じるアハレ』を いうモノノアハレがある。」(189頁)とも記す。これならば徒然と同じであらう。しかし、本書で20頁以上にわたる説明は季節の推移で はなく、あくまで人事中心である。なぜさうなるか。モノノアハレを含むこの部分の章題を「『運命、動かしがたい事実・なりゆき』というモ ノ」といふ。モノの基本的意味が既に人事なのである。本書副題から知れるやうに、これはあくまで源氏の中でのこと、300年後の徒然にこ れは必ずしも適用できない。そこでこんな差が生まれるのである。
・本書で採り上げてゐる語は源氏で使はれるモノのついた語である。モノノアハレは当然としてモノガタリ、モノオモヒ、モノイヒ、モノイ ミ、さらにはモノス、モノモノシ、モノヲ等の活用語や付属語まで含む。更にはモノノケやモノノベなどといふいささか場違ひと思はれる語も 出てくる。これらに関する記述には、いかに千年の時代差があるとはいへ、本当に驚くべきものがある。目から鱗、に違ひないのだが、それは 想像を絶する類のものであるとさへ言へる。これは章題を並べるだけで分かる。「『世間のきまり』というモノ」「『儀式・行事』というモ ノ」「『存在』というモノ」「『怨霊』というモノ」、ここに先の運命が加はる。これだけであるが、私達の感覚から理解できるのは「存在」 ぐらゐであらうか。モノとはかくも広い意味を持つ語であつたのかと思ふ。時代変はればである。かくして、ここで私が思ふのは、本書は一般 向けの啓蒙書ではあつても、いかにも国語学の書であるといふことである。これまで記したやうに意味を並べてゐるからだけではない。方法論 の問題である。章題は源氏の語彙から抽出してまとめられたものである。いくつあらうが、とにかくそれらを片端から検討していつた結果であ る。モノノアワレを桐壺から順に検討する。そこから見えてくるものは……膨大な量の語の検討結果から帰納法的に導き出されたモノノアハレ は人事中心の意味であつた。モノガタリでもさうして出てきたのは、「まず第一に人間の運命の展開を虚構の言葉によって、字に書きつける作 品ということであった。」(154頁)この運命にはモノのルビがつく。この運命と虚構がポイントである。それがモノとカタリが複合してで きた語の意味であつた。現在、私達が使ふ物語もここから出たに違ひない。その差が千年といふ時の流れを表してゐる。それを一つ残らず調べ 上げる方法論から導き出す。かういふのが国語学のやり方なのだと思ふ。大野晋はかつて上代特殊仮名遣ひを網羅的に調べてその法則を見つけ た。その対象を源氏のモノを中心とした語彙に移し、そこから私達が当然と思つてゐる語の意味を明らかにしていく。この過程は実におもしろ い。目から鱗以上の驚きである。大野晋とはかういふ人なのだと思ふ。そして、やはり「古典基礎語辞典」を読まねばならぬと思ふ。 -
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もともとが講演録だということで、とても読みやすい本です。
内容的にも、体系的にまとめられたものではなく、思ったことをトピック的に並べたもののようです。だから関心を持った部分だけを読めるようになっています。
印象深いのは最初の「未知と既知」「ウチとソト」の区別と日本語の文法との関係について述べられた部分です。ハとガの違いなどの考察を通して、日本人の心理構造にまで踏み込んで考察しています。まるで古代人の心にそのまま触れるようなスリリングな分析です。
日本語の素朴な疑問としてよく挙げられる問題が、実はそうした精神構造を土台にしたものであることが平易に解き明かされています。 -
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ネタバレ日本語タミル語起源説の大野先生の著作。神(カミ)という言葉は元々、恐ろしい威力をもったもの。神仏習合によって救助するカミと考えられるようになり、怨霊を鎮めるための仏教行事が生まれた。この御霊信仰は平安時代が起源と考えられているが、古代タミル語にもmu-iという同義の言葉が輸入されており、カミ信仰の原型は古代インドに発しているのではないか?というもの。
宗教儀式と稲作技術の用語が弥生時代に古代インドから多くもたらされたのは事実だと思う。しかし一番に気が付く問題として、日本人は南インドの人間に似ていない。遺伝学等、学際的研究が望まれる。 -
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大野晋さんの名作。
何度読んでも、新しく気づかされる。
◯「思うと「考える」の違い
「思う」はひとつのこと 、「考える」は複数を比較すること。
◯「うれしい」と「喜ばしい」の違い
個人的な満足と、社会的な慶祝・お礼。
◯「通る」と「通じる」
向こうまで見渡せること、太い道。細い道を通すこと。
◯「最善」と「最良」の違い
善行と良質と覚える。善は行為に、良は質に。
◯「は」と「が」
「は」問題を出して、その下に答えが来ることを予約。
「は」は対比。
「は」は限度。
「は」は再問題化
「は」は取り立てる、とりわけ。
「が」は、名詞と名詞をくっつける。
「が」は現象文。
「は」は問題を提示し、下で解答を示す。
「が」は新事実を写生する。
◯社説を縮約する。次に要約する。
◯敬語についても示唆に富む。