独ソ戦で実在した女性だけの狙撃小隊を題材とした『同志少女よ敵を討て』を読んで、そちらはフィクションなのだが、本書の『ゲットーの娘たち』は実話。いずれも女性が戦う話だが、重みと残酷さが全く違う。戦う相手との対等性がないから、被虐的で不利な立場からのレジスタンスである。
ユダヤ人という差別の対象に加え、「女性」という更に弱い立場。女性が真に弱い立場なのかは異論があるかもしれないが、戦争においては腕力の差に加え、女性性自体が欲望の対象とされかねないという事実から、不利である。そして本書ではそのハンデを負いながらも逞しく生きるゲットーの女性を描くと同時に、やはりその対象となる惨さも描くのである。
ー 「たとえ死ぬとしても」とレニャはアッバ・コヴネルのレジスタンスの信念をそっとつぶやいた。「食肉処理場にひきずられていく無知な羊のようには死なない」
彼女の決意は熱い炎のように燃え上がった。それはすでにベンジンの若者のあいだに燃えさかっていた炎だった。
食肉処理場に引きずられていく無知な羊にはならない。ガス室に運ばれる車両で、なすすべくなく諦めざるを得ない絶望に対し、まだ戦っていくという勇気を奮う方が難しい。殺されるくらいなら、最大限の抵抗をしてやると想像では言えるが、いざ銃を目の前にしてその姿勢を貫けるだろうか。
写真も掲載されている。綺麗な女性たちだ。
一皮むけば、人間は悪魔だ。服従の真理やアイヒマン実験などもあるが、悪魔という以外に、この所業を形容できない。どうしてこのような事ができるのか、命令への服従以外に、本質的に人間に悪質なものが眠っているのではないかという気がする。それは日常些細な嫉妬や欲望なのかもしれないが、何かをきっかけに増幅し、暴発するのではないか。それを防ぐための法律や道徳だとしても頼りない気がする。