デヴィッド・ボームのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
本書によると、対話とは、共通理解を探し出す行為で、対話のビジョンとは、誰もが同じ立場にいること。ディスカッションと違って、物事の分析ではなく、議論に勝つことでも意見交換することでもなく、様々な人の意見に耳を傾け、それを掲げてどんな意味なのかをよくみること。
もともと、ディスカッションという言葉は、打楽器や脳震盪と語源が同じで、ものごとを壊す、という意味があり、ディスカッションとは、分析、解体作業を意味するらしい。
このあたり欧米人にはイメージつきやすいかも知れないが、対話やディスカッションに慣れ親しんでいない大半の日本人にはちょっと想像つきにくいのではないだろうか・・・また、対話についてはワールド・カフェで体感する方がわかりやすいかも知れない。
深く読み込む前に、内容が結構学術的で難しかったので、予備知識程度でしか吸収できませんでした。機会があれば、いずれゆっくり読んでみたいと思います。 -
Posted by ブクログ
何世紀にも渡って条件づけられてきた心の大部分がパラドックスにとらえられる傾向があり、結果的に現れた難題を「問題」として考える間違いを犯しがちである。
観察者が目を向けるべき間違った点は、まさに本人の中に存在する。
ルーマンの自己記述にもつうじる「自己受容感覚」
インコヒーレンス:意図と結果が噛み合ない事
コヒーレンス:一貫性
両方必要、完全はあり得ない
コヒーレントを人は好む(真実、や信念にも似た感覚?)
現代/単にコヒーレントを強要使用しようとするだけで、インコヒーレンスを探して取り去ろうとはしない。→インコヒーレンスがさらにひろがる。
終わった思考は消えるのではなく折りたたまれる。
自然/母の有限性
コミュニケーションは人対人だけでなく、科学者であれば自分対学問ということもありえる。
最終的には自分以外のものを通して自分の内部の自分が気づけていない部分に気づかされる事が必要だという事がいいたかったのだろうか。
社会秩序維持のための「仲良し」神話の副作用として、それが強ければ強いほど、現代ではどんどん人間嫌いが増えているのではないか?(秩序維持のためのコヒーレンスの押し付けによるインコヒーレンスの増大)
そういった中での対話機会というのはもしかしたら想像しているものとは形態が違うかもしれない。何かのメディアを通したものである可能性も高いし、二者関係だけではない気がする。