体験格差、と言われはじめてからしばらくたつが、実をいうとここに言われている格差のつく「体験」が、なかなかよく分からない。
もっというと、ここに書かれている体験のほとんどをしたことがないのだが、それで後が変わったのか、といわれるとよくわからないのだ。
疑問はもっとあって、例えば楽器を演奏できる技術はた
...続きを読むいしたものだが、演奏する以前に体験すべき何ものかがないと、それは空っぽのものになる。文科系の多くのものがモノになるための根元にあるものは、他人がどんなにがんばっても、たぶん教えられない。
この本を読んでいて思ったのは、ここでいう「体験」はそういう体験ではないのだろう、ということだ。
違和感はまだあって、大きな花を咲かせた才能が必ずしも裕福な出身だったろうか、むしろ大変な苦労をしていることが多いのではないか、ということだ。
ただ、今現在の事情は、変わってきているようにもみえる。
つまり、核家族を中心とした社会は行き着くところまでいってしまって、たとえば、近所の
お姉さんと遊んだり、何かを教えてもらったりということは、たぶんないかも知れない。
自治会の子供会で芋掘り、というのもあまりないかもしれない。こどもが減って、自治会は
子供会自体が維持できない。
こどもたちの親はさすがに戦時中ということはあるまい。
私の世代は限定的ではあるが、家の回りに自然が残っていて、花のみつをなめたり、空き地でよもぎを摘んで帰って、売ってあるようにはできないだろうが、と思いながら草餅を作ってみたりした。
その前の世代より、不完全だが、やろうと思えば体験は自分で求めてできるものだった、とは言える。
その他、もろもろのことなどがおそらくできなくなっているのだろう。
こうなると、役割を果たしつつある「体験格差」という概念を否定的に考えるべきではないのだろう。
読むと、この本は筋は通っているようだ。
実績もあがってきているようだ。
それなら、育ててやるべきではないのか。
少し、いいたいことはあるけれど。