清水俊史のレビュー一覧
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ネタバレ面白い。感想はあとでまとめるとして、読みながら疑問に思ってチェックし、改めて調べて、誤字なのではないかと思う個所を記します。
16頁8行「供儀」→「供犠」
91頁6行「巻木」→「薪」? ※「まき」の誤変換か
136頁10行「法」のルビ「ほう」→「ぼう」
136頁12行「一如」→「一等」?
148頁6行「曹洞宗の僧侶」→「臨済宗の僧侶」
150頁1行「正当」→「正統」? ※83頁12行ほか
152頁5行「秋山」→「秋月」 ※次頁の2カ所も同じ
153頁8行「無中」→「夢中」
155頁6行「専修」の説明→初出は145頁11行
212頁8行「有」のルビ「ゆ」→「う」
版を重ねるならば修正されたほうがよろしいかと思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ独身未婚中年男性の自分が読んでみました。
なかなか面白かったです。
結論としては、日本の僧侶は破戒者なのでお布施をするに値する者がいないという、至極まっとうで身も蓋もない話なのですが(笑)、それを仏典に基づいて考察しているところは非常にアカデミックです。
一方、あまり現代的問題を取り扱ってはいないので、僧侶に「お気持ちで」と言われた時に「こういう理由であなたには高額包めない」という理由として述べて僧侶に打撃を与えることのできる実用的な内容ではないですね(笑)。
自分もプライベートで知り合った若い人で僧侶がいますが、妻帯していますし、僧侶を「仕事」として捉えているように思えるときがあって、もう少し宗教者として人を救おうということを考えてくれないかなともどかしくなることがあります。
それはもう少し年齢を重ねてみないとわからないことなのですかね・・・。
著者の清水先生の他の本も読んでみたいなと思いました。 -
Posted by ブクログ
『ブッダという男』に比べると、いくらか我々の現実社会とのつながりのあるテーマでもあるため、入口としても扱いやすい。
そもそもの宗教心自体も日本人の我々はあやふやな面が多いが、その中で「お布施は気持ち」というトピックから、寺院と檀家の関係性、実利的な側面も見える功徳の積み方の規定、各宗派の相違点などが、ある種金銭を伴う即物的な感覚を通してより実感的に把握できた。
とはいえ、本書の内容から生臭坊主として周囲のお坊さんを揶揄するような行動変容も起こらないだろうが、リアルな実情として見えてくる部分も多い。
変わらず、宗教学内での内紛が行われていることがあとがきにある。 -
Posted by ブクログ
散文優先の現代的研究に基づく初期仏説の解説。近現代の歴史的解釈の仏説は、現代的価値観、それも理想的なバイアスがかかっているという立場。
終章及び参考文献が特にまとまっている。かつての日本の研究者達を大胆に否定しまくっており、出版妨害があったというのもわからなくもない。
初期の仏説において、そもそも何が正しいのかわからないということは大前提であり、何かしらのバイアスがかからないとまとめられないだろう。
人間の理想の投影的なバイアスはなかなか気付きにくい分とても鋭い。
また、捨て去ろうとした神話的部分に価値を持って解釈しようとする見方も新しく、もっと広げて研究が進んでいったら面白ろそう。 -
Posted by ブクログ
おもしろかったですね〜。そして、難しかったです。初学者の私でしたが、理解しかけた感覚は得られました。
神がいる宗教よりも私はやっぱり仏教の方が合っている気がします。
特に信心深いわけではないので、部分的に都合よく解釈して日々に生かしたいなあというモチベーションがあります。
自分の考えていることと近いことが記されていたりすると、その宗教を身近に感じるわけですが、東洋思想にはとてもその感覚があります。
中でも、仏教の核心は自己変革であるというように書いてありましたが、ここは結構好みなポイントでした。
洞察を深めて知恵をつけ、進んでいくのは自分自身であり、誰かや何かが引っ張ってくれたり、引き上げてくれたりするわけではないということだと理解しましたが、非常に現実的で共感できます。
もっと勉強してみたいなと思いました。 -
Posted by ブクログ
従来の釈尊および初期仏教の研究が、近代以降のヒューマニズムを無反省のまま釈尊の教えのうちにもち込んでしまっていることを批判するとともに、とくに無我と輪廻をめぐる釈尊の思想が、当時のインドの思想史的状況のなかでどのような画期性をもつものだったのかということを論じている本です。
著者が批判の俎上にあげているのは、「ブッダは平和主義者であった」「ブッダは業と輪廻の存在を否定した」「ブッダは階級差別を否定し、平等思想を唱えた」「ブッダは女性差別を否定した」という四つの主張です。著者はテクストにもとづいて、これらの解釈が「現代人ブッダ論」にすぎないと批判します。
一方で著者は、「歴史的関心を持ってブッダの実像に迫ろうとするならば、初期仏典を字義どおりに受け入れるのではなく、批判的にこれを読む必要がある。しかし、“批判的に読む”という営為は必然的に解釈を要求するため、先入観なく「歴史のブッダ」を復元することは事実上不可能である」ことを認めています。そのうえで、初期仏典は釈尊の弟子たちが彼の偉大な業績を示すために編纂したということに目を向け、当時のインドの思想史的状況のなかで初期仏教の画期性がどこにあると考えられていたのかということの解明へと進んでいきます。著者は、バラモン教やジャイナ教と仏教のちがいについて検討をおこない、バラモン教において恒常不変である「自己原理」を釈尊が否定する一方、「業報輪廻」にもとづいて五蘊が構成されることを認めていたと主張します。
著者は、「当時の宗教家・思想家たちの最大の課題は、どのように輪廻という苦しみを終極させるのかであった」と述べており、こうした課題に対する釈尊の回答を明らかにすることが本書のねらいだということができます。ただし「自己原理」を否定する以上、輪廻によって生じる苦はもはや「自己」の苦ではないはずです。本書の示す釈尊の回答が、当時の思想史的状況のなかで画期的なものと受け止められたというのであれば、その理由についてもうすこし立ち入って考察することが必要だったようにも感じます。