友田健太郎のレビュー一覧
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自称詞〈僕〉について、『古事記』から現代までその歴史をたどり、特に幕末維新期、身分制社会から近代社会に移行する中で、吉田松陰を中心とする志士たちにとって「対等な仲間意識」を表現する上での特別な意味を持った自称詞であったことを論じている。また、女性が排除されてきた自称詞として、〈僕〉とジェンダーの問題についても触れている。
自分は幼い頃、自分の名前を自分の呼称として用いていたが、そこから〈僕〉や〈俺〉といった自称詞にうまく移行できず、自称詞にコンプレックスを持っていた。今では場面に応じて〈僕〉や〈俺〉も普通に使っているが、いずれもしっくりはきておらず、そんな〈僕〉を含む自称詞に複雑な思いを抱く自分にとって、本書は非常に興味深い内容だった。 -
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まず「自称詞」という聞き慣れない言葉は、著者は意図的に使っている。簡単に言えば、一人称代名詞+α=自称詞である。αには社会的機能や使用者の自意識が入る。このαの部分について書かれたのが本書となる。
日本語の一人称代名詞(本書における自称詞)には英語における“I”がない。”I“には、自分のことを指す以上の意味はなく、英語で“I”を使われたとき、それだけではその人がどのような人なのか類推することはできない。性別さえわからない。
しかし日本語においては「俺」にせよ「僕」にせよ「私」にせよ、自分のことを指すというだけではない意味が含まれてしまう。性別はおろか、TPOや本人の意図まで推測できることがある。記憶が曖昧だが、このようなことは片岡義男が指摘していたと思う。たぶん片岡義男だったと思う。
ちなみに、日本語の一人称代名詞で”I“にいちばん近い用法は、女性が使う場合の「私」だと思うけれど、日本語における女性の自称詞についても本書では詳述されている。
著者は56歳にして、本書が初の著作となるらしいが、とてもおもしろく読めた。あとがきを読むと、群像の新人賞に村上春樹論を送り次点に選ばれたことがあるらしく、そう言われてみると本書でも文芸批評的な手つきが見受けられる場面があった。本書で大きく紙幅を割かれている吉田松陰にせよその弟子たちの文章にせよ、「僕」という言葉を通じて彼らの内面にまで潜るわけで、それはたしかに文芸批評的なものに近いかもしれず、結果的にはそれが読みやすさにも繋がっていた。 -
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米国人研究者によるユニークな江戸時代の政治力学に関する論考。精読したわけではないがたいへんおもしろかった。跡継ぎ不在で領主がなくなると、本来は領地没収となるのだが、そこを領地では「生きているかのように」演技し、それを見届ける徳川の大目付としても事情をわかっていてなおその演技におつきあいすることで、互いに秩序を守る=「表」を維持することに協力する姿が描かれる。そこらへん、事前に徳川とは「内証」の交渉をしておくわけだ。ほんとうにあったことは「表」の記録だけではわからない。江戸時代は体面を維持することがなにより重要だったため、この「表」と「内証」の政治が広く行われたが、近代において立憲制と個人の権利という言説の中で正当性を失ったため、「表」と「裏」、もしくは「本音」と「建前」という世界になったという結論も一理あるなと思わせる。
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「僕」という自称詞の歴史について考察している内容だそうなので、面白そうなので読んでみた。いわゆる日本語にある自称詞「僕」の使用された歴史を、上代の『古事記』『日本書紀』『万葉集』から、現代の芸能人である「あのちゃん」まで、その使い方を考察しているわけだ。その中心は「僕」が頻繁に使用されるきっかけとなった江戸時代の元禄から幕末まで、特に吉田松陰を巡る人間関係、明治時代の学校教育で使われた教科書関連、そして現代の村上春樹の小説での使い方が中心となっている。当然ながら、漢字では日本と深い関係にある中国や、歴史的に見て過去に漢字文化圏であった国々との比較にも言及している。ただ、幕末の記述の充実さに比べて他の時代の使用例の分析が大雑把なのはいただけない。ちなみに、著者である友田は気付いていないようだが、村上春樹の小説が世界的に人気でありノーベル賞の候補とあれほど騒がれていても賞を取れない根本的原因と思われる事象に触れているのには驚かされた。本書を読んだ方は分かっただろうか。