デイヴィッド・J・チャーマーズのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
(上巻より)
第5部はいよいよ本書の核心とも言える「心と意識」の問題に分け入っていく。まず著者は、VRではデカルト二元論が成立する可能性を指摘する。VR環境下のユーザーはバーチャルな身体を持つが、その脳は身体とは分離されVRの外にある。つまりVRでは事物を支配する物理学と、行動を支配する心理学の2つのプロセスが並走しているのだ。エリザベト女王はデカルトに宛てた書簡の中で、「物質でない心がどうやって物体を動かすことができるのか」という素朴だが厄介な質問には、神経科学による究明が進んだ今日では唯物論的な説明が当然に持ち出されるところだろう。しかし、バーチャル世界内の生物にとっては物理的世界は演算エンジンによる単純化された物理学に支配されているものの脳はバーチャル世界外にあり、階層が一つ上の物理学(量子力学や相対性理論を含む)により支配されている。そうすると、バーチャル世界内の視点からは、物質的でない何らかの意思が存在するように感じられるのだ。逆に、シミュレーション外の我々がシミュレーション内部と相互作用すると(これはつまり非純正シミュレーション的状況を指す)、シミュレーション内部ではデカルト的二元論(内部の身体と外部の心の区別)が成立しているのを知る。
この二元論で分たれた心身を調和させるには、バーチャルの体をバーチャルの外と中から同時に制御する必要がある。これは外から見ると唯物論でしかないが、内部から見るとこれはまさに「形而上学的」なもの、物理的には知覚できない何かに由来する認知システムに他ならない。超自然的であると目されがちなデカルト的二元論が、シミュレーションを導入することで自然主義の内部で処理できるというのが面白い。
それではシミュレーションのようなデジタルシステム内の存在は意識を持てるのだろうか。これは、人間の心を脳からデジタルコンピュータに転送する〈精神アップロード〉によりアップロードされた心は、元の心と同一なのか、という問いと等価である。著者は「意識」とは主観的経験であるとするが、その主観的経験がいかなる物理的プロセスにより生ずるのかはいまだにわかっていない。客観的な振る舞いである「知能」を解明する〈イージープロブレム〉に比べ、主観的経験である「意識」を扱う〈ハードプロブレム〉は格段にトリッキーな問題なのだ。トマス・ネーゲルによれば意識とは、「そのようなシステムであるとはどのようなことか」と言える何かが存在することと等価である。フランク・ジャクソンの思考実験「メアリーの部屋」で指摘される通り、赤い色の刺激が生じるプロセスは解明できても、赤いという意識体験がなぜ生じるかはわからない。振る舞いの説明と振る舞いが生じる理由の説明は異なるのだ。著者はこの「意識」を自然主義的に説明するには、既存の基礎的性質に何かを加える必要があると主張する。その一つが〈汎心論(自然のあらゆる物理系に何らかの意識の要素が備わっている)〉だ。では汎心論のもとならば機械も意識を持つことができるのだろうか。
〈他我問題〉は他者が意識を持っているかどうかは確かめられない、というジレンマだが、著者はこれを「他者が哲学的ゾンビ(外見上は通常の人間と変わらないが意識体験のみを欠く存在)でないことをどのようにして知るのか」へと変換する。現実の我々に意識があるということは、我々の世界はゾンビのそれとは異なり物理的構造の一段上に何かがある世界であること、つまりシミュレーション説が正である可能性を排除しえない世界であることを意味する。とすれば、〈フェーディング・クオリア(徐々に機械にアップロードされる脳)〉の思考実験からも、シミュレーション内存在すなわち機械も意識を持ちうると主張できることになる。
第6部ではテクノロジーの観点から捉え直した「倫理」がテーマとなる。バーチャル世界で良き生を送ることができるのか?ロバート・ノージックの〈経験機械〉の思考実験はVRは錯覚であるとしてノーの答えを出すが、バーチャルにも実物と等価のリアリティを認める著者の答えは、もちろんイエスだ。では何が良き生をもたらしているのだろう。著者は良き生の基礎として「快楽主義(ヘドニズム)」「欲求充足」「ウブントゥ(人とのつながり)」「客観的リスト」などを挙げ、これらはVR世界でも損なわれずに保たれていると主張する。バーチャルが欠く代表的な現実世界の事物である「身体性」「誕生と死」についてすら、著者はいずれ技術的に解決されバーチャル世界にもたらされるはずだという。著者のこの視点は「全ての価値の源は我々の〈意識〉にあり、そうであるならば意識が現実世界と同様に保たれるバーチャル世界でも価値ある生は可能だ」という信念に基づいている。
では「正しさ」についてはどうか。トロッコ問題の状況下、シムを殺すことは同義的に許されるのか。一般的には功利主義など、行為の結果に着目する〈帰結主義〉と、カントの定言命法に代表される、従うべきルールを重視する〈義務論〉が対立軸を構成するが、エリザベス・アンスコムは両方を批判したうえでアリストテレスの〈徳〉に回帰すべきと主張する。「正しさ」という概念は曖昧で役に立たないため、道徳的評価としては「不公平な」「勇敢な」「優しい」などの具体的・個別的表現を用いるべきである、と。これを踏まえ著者は、価値の源は〈意識〉であり、フルスケールのシミュレーションであればシムにも意識があるはずなのだからシムにも守られるべき道徳的身分を認めるべき、とする。そもそもシム、引いてはシミュレーションを作ることの道義性については、カントの定言命法第二定式「人間性の定理」に従い、それらを目的達成の手段ではなく目的自体として扱うべきだとする。つまり著者に従えば、科学技術などの目的でシミュレーションを行うことは道徳的に受け入れられないことになる。またバーチャル世界では資源の希少性が解消されるため、分配の観点からは平等をもたらすものの、参加者間の抑圧関係がなくならない限り、社会的平等は解消されないだろうとも説く。
最終の第7部はバーチャル世界のいわば各論。個人的にはこの章が最も刺激的だった。まずは言語について。バーチャル内部と外部を隔てるものは、それを説明する言語に起因するという著者の主張のもと、分析哲学の方法論を用いてバーチャル世界の言語の意味について考察を重ねて行く。言語の意味は頭の中にあるとするフレーゲ/ラッセルの立場とは異なり、クリプキ/パトナムの提唱する〈外在主義〉、すなわち言語は周囲の環境等の外的要因によって決定されるとする立場を採用し、バーチャル世界の言語もそれが使われる原因となった対象を指示している限り正しい語の使用に従っているとする。パトナムの〈水槽の中の脳〉が「自分は水槽の中の脳ではない」というとき、彼が指示するのはノンバーチャルの「脳」ではありえず、バーチャル世界のビットでできたバーチャルな水槽の中の「脳」を指示しており、その環境にある存在を示指示していることになるため、その言説は正しい事態を表していると言える。しかし一方で外在主義は意味が環境に依存しない言葉、「人」「行動」「コンピュータ」には適用されないため、「私はコンピュータ・シミュレーションの中にいる」というシミュレーションは常に/全面的に正しい可能性が出てくる。本物の「脳」とシミュレーションの「脳」はよく似た構造的役割を担っているからだ。
つまり適用されるべきは〈構造主義〉なのだ、と著者はいう。コンピュータ・シミュレーション内では各要素が微調整された因果関係の複雑なパターン、すなわちアルゴリズムを形成しており、この因果関係こそがノンバーチャルな物理的世界に比肩するほどのリアリズムを創出しているのだ。この考え方はグレッグ・イーガン、J・R・サールやパトナムの「物理的システムがアルゴリズムを実行するかどうかは客観的問題ではなく、見る人の目の中にある(=因果関係は単なる相関または規則性である)」とするヒューム的な見方と対照をなす。イーガンの「塵理論」の塵のような任意の物理的システムは必ずしもアルゴリズムを創出する因果関係を持っていないのだ。著者によれば、アルゴリズムを物理的システムが実装するにはその「因果構造」が計算の形式構造を備え、かつ「反事実的条件文的構造(実際に起きていない事実からの推論を可能にする構造)」を具備していなければならない。シミュレーションを行うためには、その基礎となるシステムが因果構造を持っており、それがシミュレーションに反映されなければならないのだ。
となると、「実在の背後には因果構造=数学的構造がある」というよりは、むしろ「実在とは数学的構造に他ならない」ということになる。これは〈科学的実在論〉と呼ばれる立場の中でもとりわけ論理学と数学による記述を重視する〈構造実在論〉に近い。この構造実在論は、数学的構造が物理的世界の全てであるとする〈存在論的構造実在論〉と、物理的世界の根底には数学的構造を超えた何かがあるとする〈認識論的構造実在論〉に大別されるが、前者は〈純粋ビットからイット説〉に、後者は〈イットからビットそしてイット説〉にそれぞれ対応している。特に後者は〈シミュレーション説〉と整合的であると言える(結局のところ、完全シミュレーションの内部からはそこでの物理学の基礎にある構造を知ることができないから)。
ただし、数学的構造のみが実在の根拠であるとすることはできない。数学は因果構造を持っていないので反事実的条件を意味のある形では記述できない。そこには因果構造=自然法則を記述できる物理理論が必要なのだ。さらに物理理論には大きな強みがある。それは外部世界を単に記述するだけでなく、外部世界と我々の経験や観察との結びつきを可能にする。逆にいえば、因果構造を持ち観察を可能にするのでなければその物理理論は〈構造的理論(数学的法則で因果構造と観察との結びつきを明記する)〉とはいえないことになる。つまりこの理論をシミュレーションが備えているのであれば、それはノンシム=現実世界と同一の理論を備えていることになり、したがってシム世界でも物理理論は真であることになるのだ。
では完全シミュレーションで不可知であった物理構造の基礎(イット)とはなんだろう。著者はそれが「意識」ではないかという。〈メアリーの部屋〉の思考実験でわかるように、構造だけでは意識体験を捉えることはできない。この見方は〈カント的謙抑(物自体は不可知)〉と通底している。カントによれば、我々は時間と空間、因果関係といった「もの同士の外在的関係」は認識できるが、「ものの内在的性質(他のものとの関係性から独立の性質)」は認識できない。つまり現象として認識できる領域は関係の広いネットワークすなわち〈構造〉であり、著者はそれが「意識」と関係があると考えているようだ。
我々が「見た通りのものが実在する」と信じていた〈エデンの園〉と異なり、科学革命以降は「実在は見た目以上のものである」と我々は信じている。この見方はシミュレーション内部にいる時と同じだ。では前者〈マニフェスト・イメージ〉と後者〈科学的イメージ〉は何が違い、どのように調和されるべきなのか。
著者は、後者をもとにして前者の概念を作り変える〈再構築〉を提唱する。我々は科学革命後、〈原始主義〉から現象をその役割や働きから理解しようとする〈機能主義〉に移行したのであり、そこでは構造主義と同じく因果構造が重視される。経験論者ジョン・ロックがいうように、赤色は原始的・客観的な第一性質ではなく、正常な知覚者の内部で固有の感覚経験を引き起こす「因果的な力」となる。同様に、空間も科学革命後は内在的に実質を持つものというよりは、派生的・付随的に supervene するものとして、主にその機能面から捉えられるようになる。
そうしてみると、これはバーチャル空間での色や空間の捉え方と同じであることがわかる。それらは〈エデンの園〉における意味では存在しないが、機能的な意味ではノンバーチャル空間と同様に存在している。そこでは全ては見た目通りではない。相対性理論や量子力学、ひも理論が我々の直感と相反するのと同じように。しかし一旦機能主義を採用してしまえば、バーチャル空間や相対性理論の世界における経験も実在と同様に理解できることになるのだ。
それでは「全ては錯覚だ」ということになるのだろうか。エデンの園のマニフェスト・イメージは正確な外部世界の反映ではないかもしれないが、それでも現実を生きるためのガイドとしては十分実用に足るものだ。しかしそれを実在と考えてしまうと即座にデカルト的懐疑に直面する。やはり空間や色は外部世界に直接備わるものではなく、その様な機能を我々の側に生じさせる因果的構造なのだと考えるべきだという。つまり全ては錯覚であり錯覚ではないのだ。認知学者ドナルド・ホフマンは、我々の認知が正しいかどうか、つまりインターフェースは進化の面からすれば副次的な問題であり、重要なのは環境に適応し子孫を残せるかどうか、つまり機能面や因果構造面だという。だとすれば、エデンの園における我々の知覚もインターフェースとしては十分実用的だが、外部世界の忠実な反映である必要はないのだ。
スラヴォイ・ジェクはこの状況を反転させて、むしろすでに通常の物理的世界の方がバーチャル化しているのだという。そもそも物理世界も機能主義的な構造の世界なのだ。著者はこの立場を〈不完全実在論〉と呼ぶ。自由意志も善悪も、人間から完全に独立した絶対的ななにものかは存在しないが、機能的にそれらと同等の役割を果たすものであれば存在する。錯覚であり錯覚ではないのだ。そして意識も錯覚ではあるが、我々が色・時間・時間の特質を構造化するためのプラットフォームとして実在していると言える。エデンの園を追放されてプラトンのイデア界へのアクセスを絶たれた我々は、意識を通じてそれらと同等の特質を経験できるのだ。
終章では再度デカルト的懐疑に戻る。究極のグローバル懐疑論とも言える〈ボルツマン脳〉説を採用すると、我々は外部世界の知覚と付随する科学的推論を否定することになる。そうすると、ボルツマン脳の成立根拠となる物理理論をも否定せざるを得ない。したがって著者はグローバル懐疑論は否定されるべきなのだという。我々の経験法則を説明不可能にするようなボルツマン脳などの〈カオス説〉は、驚くほどの偶然に頼ることになるので、確率的に真ではあり得えず、我々はそのシナリオ内にいないことが確かめられることになる。つまりまずデカルトの〈知識の問い〉にはイエス(外部世界は「知覚できる」)と答えられ、さらに外部世界が知覚できるのであれば何らかの構造があるはずであり、つまり〈実在の問い〉にもイエス(外部世界は「存在する」〉と言える。つまり「説明(知覚)」が「構造」を生み、「構造」が「実在」を生むのだ。
自身が認めている通り、著者の見方は〈認識論的構造実在論〉者としてのカントに近く、カントの観念論にある程度の親しみを持つ自分にとっては本書の主張には肯じえる点が多かった。 -
Posted by ブクログ
バーチャルリアリティ(VR)に関する本となるといかにも自然科学主義・還元主義的なものを連想してしまうが、本書のテーマはなんと〈形而上学〉である。「この世界には我々に現前してくる以上のものが備わっている」という形而上学的テーマに、科学革命以降のパラダイムを存分に適用しながら丁寧に取り組んでいく。〈テクノフィロソフィー〉(哲学はテクノロジーに関する新しい問いに光を当てるのを助け、テクノロジーは哲学に関する古い問いに光を当てるのを助ける)の理念のもと、VRを題材に昨今の思想界が敬して遠ざけてきた形而上学に真正面から取り組んだ意欲作と言える。
本書のメインテーマが形而上学であるということは、議論の起点となるのがデカルト的懐疑論であることからも明らかだ。本書では、〈デカルト的(方法的)懐疑〉、すなわち「自分の周りの現実をどのようにして知るのか?現実が錯覚でないことをどうやって知るのか?」という問いが、より現代的な〈シミュレーション(仮)説〉、つまり「シミュレーションの中にいないことをどうして確認できるのか(ニック・ボストロム)」に変換されている。その上で著者は、バーチャル世界に関する三つの問い、すなわち
1. 〈知識の問い〉:バーチャル世界にいるか否かを知ることができるか?(認識論)
2. 〈実在の問い〉:バーチャルの事物はリアルか?(形而上学)
3. 〈価値の問い〉:バーチャル世界で良い人生は送れるのか?(価値理論)
にそれぞれノー、イエス、イエスと答える。これはつまり「リアリティ」と「良き人生」が我々の認識とは独立だ、と言っていることになる。我々は世界をあるがままに認識できようができまいが(つまり自分がシミュレーション内存在であることを認識しようがしまいが)リアルで幸福な人生を送れる、ということになるのだ。
〈知識の問い〉…自分がシミュレーションの中にいないことを証明できるか?著者の答えは「否」だ。なぜなら完全シミュレーションではどんな証拠もシミュレーションできてしまうから。カール・ポパーに言わせれば反証可能性を持たないそのような仮説は科学的でないことになるが、例えそうでも〈シミュレーション仮説〉は我々の世界を考察する一助になる、と著者はいう。
それなら懐疑論、とりわけ外部世界の全てを疑う強力な〈デカルト的懐疑〉は克服不可能なのか。この懐疑論は「感覚はこれまでも主体を騙してきた。今は騙していないとどうして言えるのか?」と問う。この問いはヒラリー・パトナム〈水槽の中の脳〉やボストロムの〈シミュレーション説〉にそのままスライド適用され、より現代的な色彩を帯びて我々に迫る。これらは懐疑論の普遍的形式、〈マスターアーギュメント〉を形成しているからだ。
1. あなたは自分がシミュレーションの中にいないことは確かめられない。
2. シミュレーションの中にいないことを確かめられないならば、外部世界について何も知らない。
3. したがって、あなたは外部世界について何も知らない。
デカルトは「我思う故に我あり」で主観的意識を知の拠り所とした。では我々はどうすれば外部世界の知識を得ることが出来るのだろうか?
反懐疑論への最も有効な攻撃として、〈シミュレーション返し戦略〉なるものがある。外部世界知識を主張する者に対し「シミュレーション世界の住民もそのように主張するだろう」というものだ。これは上述のマスターアーギュメントの前提1を強力にサポートする。
例えば、デカルトは外部世界の完全性を信じていた。神は完全であり人間が騙されることを許容しない。であるならばこの神を経由していれば人間の外部世界に関する知識は正しいはずだ。しかしこれもシミュレーション返し戦略で簡単に論駁されてしまう。人間の作ったシミュレーション内で「シム(シミュレーション世界の住人)」も同様の主張をするだろうからだ。
バークリをはじめとする観念論的実在論、すなわち「見えが実在である」はどうか。観念論は観察を実在の前提とするが、では観察されない世界は実在しないのか。ここでもデカルト同様「神」の存在により実在性の担保が試みられるが、神ならぬコンピュータでも代役は可能だ。シミュレーション内の「シム・バークリ」は「シミュレーションは見えない、だから存在しない。認識が全てだ」と主張するだろうが、当然それは間違いである。
カルナップをはじめとする「ウィーン学団」の主張する〈論理実証主義〉は「検証可能性」を科学的に有効な仮説の条件とする。彼らは懐疑論はこれを満たさないとして却下するが、シミュレーション仮説はどうか。完全シミュレーション内ではシミュレーションの存在を検証することは不可能であり、科学的に無意味であるということになるが、著者は「科学的に検証不能であることと無意味であることは関係がない」という。感覚を通じて検証不能な命題であっても、有効な命題は数多あるからだ。他にもパトナムの「水槽の中の脳」やラッセルの「単純さ」を用いたシミュレーション仮説への攻撃も反駁可能だとする。
さらに、知的生命体によるシミュレーション技術の広範な伝播を前提とすれば、この宇宙は無数のシミュレーション宇宙を内包するはずであり、我々は確率的にシミュレーション内のシムである可能性が高くなる(シミュレーション論証)。この前提を阻害する〈シムブロッカー〉はいくつか観念できるものの決定的な要因とはならない。想定されるシムブロッカーの種類は①「シムの作成は非実際的または不可能」、②「シムは作成可能だがそれを行う人間に似たノンシムはほとんどいない」、に大別されるが、これらが否定されるならば③「我々はシムである」が肯定されることになる。そして著者はボストロムの議論を引き合いに、①②が真である可能性よりも③が真である可能性が圧倒的に高い、すなわちシミュレーション説は正しいと結論づける。
第3部はリアリティとは何かを問うていく。著者は〈シミュレーション実在論〉、すなわち「ヴァーチャル・リアリティ(VR)をはじめとするシミュレーション内の事物は錯覚などではなくリアルなものだ」と主張する。シミュレーション内の事物は〈リアリティ・チェックリスト〉、すなわち「存在、因果的力、心からの独立、非錯覚、本物〉の要件を満たす。デジタルプロセスが事物の根底にあることをもって、それがリアルではないとは言えない。デカルトの悪魔のシナリオもパトナムの水槽の脳のシナリオも、そこには錯覚などなく主体の抱く信念はほぼ正しい、すなわちリアルなものなのだ〈非錯覚説〉。
面白いのは、著者の議論がリアリティの本質を問う形而上学的説、すなわち誰がこの世界を作ったのかという創造説と接続していることだ。創造主に関する〈存在論的証明〉〈宇宙論的証明〉〈デザイン論証〉がいずれも超自然的な神に関するものであるのに対し、〈シミュレーション論証〉は〈自然主義〉、すなわち万物は自然の法則で説明できるとする立場と整合的だ。
そしてその自然主義の立場からは、世界のあらゆるものは「ライフゲーム」におけるオートマトンと同じくビットのパターンでできている、とする〈ビットからイット説〉が生じる。〈意味情報〉(有意味な情報)はビットの連なりである〈構造情報〉により担われ、それが事実をコードするときに〈記号情報〉と呼ばれる。ここでは構造情報は物理的プロセスにより具体化されており、その意味で〈イットからビット〉が生じることとなり、これら2つを接続すると〈イットからビットそしてイット説〉が得られる。
一方、これとは異なり、ビットこそが宇宙の基本的な構造をなすと主張する〈純粋ビットからイット説〉もあり、「物理的存在は数学用語で完全に記述でき、世界は数学的な構造情報を基礎として成立している」とする〈構造実在論〉につながっていく。
このビットで構成された世界はシミュレーション説におけるリアリティを大きく補強する。〈ビットからイット創世説〉のもとではビット生成者と世界の創造者の仕事は同一視され、シミュレーション世界とそうでない世界におけるリアリティを区別する必要がなくなる。どちらも、イットでできたビットの配列がそれを感知する者に正しく知覚されるための調整、すなわち〈構造〉の整備を行うのだ。「物理学は構造、すなわち数学的方程式と観察結果に還元される」とする〈構造主義〉のもとでは、ある物理理論はその構造が世界に存在していれば真となる。そうであれば、実在の光子やクォークとシミュレーション世界における光子やクォークは、それらが数学的・観察的な役割を果たしているのであればどちらも実在とみなせることになる(機能主義)。ここに著者はデカルト的懐疑の前提(リアルは感知出来ない)を突き崩す可能性を見出しているようだ。
第4部はバーチャル・リアリティ(VR)への構造主義の適用を問う。没入・インタラクティブ・コンピュータ生成を要素とするVRにおけるリアリティ=実在とはどのようなものか?前章の〈ビットからイット説〉を引き合いに、VRの中の事物もそれに対応するビット構造を背後に持ち、「デジタル事物」として他のデジタル事物に対する因果的な力を及ぼすことができることが示される。現実世界のいくつかの事物は「基体中立的(本質は何でできているかではなく、どのような結びつきでできているかで定まる)」であり、それらはVRでも完全に再現できる。VRの事物は先述のリアリティの5つの基準のうち4つないし5つを満たすのだ。
そしてそのようなVR技術のさらなる進化を前提とすれば、我々はリアリティの概念を拡張すべきだという結論に至る。異なる複数のVRの内容の差異について、その相関性までも含めてリアリティとして受け入れる必要があるというのだが、これは必然的に高精度なディープフェイクにどう対処していくかという問題に直結する。シミュレーション仮説によれば、そのシミュレーション内ではリアリティの要件を満たすディープフェイクを我々は判別することが出来ないかもしれない。しかし、たとえば全メディアが一斉に関わるような大掛かりな陰謀論は往々にしてラッセルのいう「単純さ」を欠くため、多様かつ信頼に足る情報ソースを確保していればそのような企みに気づく確率は高くなる、と説く。
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