秋満吉彦のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ「100分de名著」のプロデューサー秋満吉彦さんをナビゲーターとして3人の知識人の読書との関わりを通して、血肉となる本の読み方を伝えてくれる。
本とともに生き、仕事としている方の経験談はとても深かった。秋満さんの補助線も広がりを感じた。
斉藤幸平さんの章は、ご本人の話を聞いたり著書を読んでいるためか特に驚きはなく淡々と読んだ。
小川公代さんの章では、ゴシック小説から見出す弱い立場の人たちの存在からケアの倫理に繋がっていくことに興味を持った。ゴシック小説家に女性が多いことは知らなかったし、ネガティヴケイパビリティを物語が養ってくれる、という点は納得。小川さんは無意識についても語っていたが、死が近い母親への語りに尽力する姿に感動した。これってミルトンエリクソンの無意識に語りかけるやつだよね?と浮かぶ。
本の読み方として柱リーディングを推奨。長い時間かけて一冊をじっくり読むことで、長期的なスパンで自分を育て、生きていく上で必要な「体力」をつけることができるとのこと。実践したくなる。
能楽師の安田登さんの章では、古典から吸収する力に圧倒される。
AIによってシンギュラリティが起きる未来。これと同じくらいの特異点を過去にあったかどうか考えてみるとそれは「文字の発明」ではないかと。
古典を読み解く術が複数紹介されている。漢字が中国から入ってきたとき、その概念が日本にあるものには「訓」を付けたわけだが、「死」には訓がない。ということは日本には死の概念がなかったのではないか。「問う」とはどういうことか考えると、「訪う」や「弔う」と同じく、自ら働きかけ何かの行為をすることである。故に答えのある問いは「問い」ではないと主張する。
古典は原語で読むべき、解釈が変わってしまうことがある。新約聖書の「悔い改めよ」は古代ギリシャの方言では「考えを180度変えなさい」という意味になる。など具体的な古典の面白がり方を伝えてくれる。「タウマゼイン」に出会える読書をしてほしい。「タウマゼイン」とは「wonder」「驚き」という意味。プラトン曰く「哲学の唯一の始まり」である、と。
最後にこの一冊を通して印象に残ったこと。
能にはシテとワキという役割がある。シテは何か問題を抱えている幽霊、ワキはシテの問題を解決するために、直接的には尋ねず、間接的に語らせる場を作る。シテが問題を語り昇華できたときに成仏できる。これが「弔う」である。
これって、小川さんの章で言っていた、死が近い母親に語りを通じて心を癒すことに繋がっているのではないか?と思った。直接的ではなく間接的に無意識に向けて語るという相手への思いやりが大切なのかもしれない…と。
直接的な読書のノウハウというよりは、読みたい本が増えた感覚が心地よく、読みたい意欲が高まった一冊だった。 -
Posted by ブクログ
100分de名著が本を紹介する番組であり、そのプロデューサーが、さらに一歩進めて「血肉となる読書」について、番組に出演した3人の講師に、自身の本との出会い方や血肉化の過程を紐解いた本です。
もともとEテレの100分de名著は大好きな番組で、3人の講師の方々が出演した番組も見ていたこともあり、こういう思いで本を紹介して下さっていたのだなぁ…と思いながら読んでいました。
プロデューサーの方が終わりにで、本を読むことが、戦争を防ぐために遠回りでも一番確実な方法だと信じています、という言葉が響きました。
知識や情報を得るための読書から自分へのメッセージとして自分ならどう考えるかという視点を教えられたり、自分は常々気になる言葉や文章に出会うと、メモやコメントを書きながら読むため進みが遅いのですが、励ましももらえた本でした。 -
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100分de名著で講師を務めた3人の専門家たちが、
本を人生に役立てるための読み方、『血肉となる読書』を紹介している本です。
経済思想家の斎藤幸平、上智大学教授でケアについての著作が有名な小川公代、能楽師の安田登。
私は小川公代は馴染みがあるので共感できる部分が多いと感じました。一方、能楽師の安田登に関しては全く予備知識がなく、語られる内容が新鮮で…その上ご本人の軌跡がなんとおもしろいことか!驚きを持って楽しく読みました。古典は難しくて全く読めない私ですが、これを機にチャレンジしてみたいと思います。
読んだ内容をすぐ忘れてしまう人、なかなか読み進められない…など何かしら読み方に迷いがある人におすすめ。そんなのはないという人でも、それぞれの専門家の語りは、もうそれだけでおもしろいのでおすすめです。
100分de名著のプロデューサーであり、この本の編者でもある秋満吉彦の噛み砕いた解説(解説というよりは、研究者の内容を受けてさらに自身のエピソードや裏話を語る)がまたわかりやすくておもしろい。
たくさん刺激をもらえる一冊でした。 -
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今の時代は先の見えない激動の時代、戦前と雰囲気が似ているとも言われているそうだ。
100年前の名著には、そんな時代を生き抜いてきた人類の知恵や経験がつまっていて、未知の危機に向き合うための“時代を超えた真理”を受け取ることができるのだという。
「読書とは、自分とは異なる他者の思考パターン、深層心理、喜びや苦しみを少し分けてもらう行為」
特に印象に残ったのは、1度読んで理解できるものは、実は自分の思考の枠の内側にある“予定調和”にすぎない、という話。
むしろ、違和感のある表現や理解できない価値観を、“異物”として飲み込み、持ち続けること。その蓄積が、後から自分の見える景色を変える可能性がある。
古典や名著と呼ばれる本で、未読のものはまだまだ沢山ある。
教養のため?後の作品に大きな影響を与えているから?何となく読まなきゃという感覚だけはあったが、取っ付きにくさを感じていた。
けれど、人々がずっと考え続けてきた、簡単には割り切れないテーマだからこそ読み継がれてきたもの。取っ付きにくくて当たり前だと腑に落ちた。
引っかかりながらも、“違和感のある一文を大切にする”ことを意識して読んでみたい。 -
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「難読名著の読み方」
自分は伊集院光のファンどころかやや崇拝しているところがある。
100分de名著のプロデューサーの手による著作で、番組で紹介された名著の背景など語られているが、冒頭の「ハムレット」の件だけでも読む価値はあると、個人的には思う。
ここでは伊集院が碩学の専門家をうならせる解釈を提示する。これを著者は「無知との遭遇」と表現していた。
伊集院はクイズ番組でも活躍しているが、高学歴の他プレイヤーに比べると、必ずしも博識とはいえない。ではなぜシャープな解釈が可能となるのか。
おそらく高度な内容を生活実感と結びつけられる地頭の良さによる物なのだろうと思う。
これは彼のバックボーンである落語(「初代」三遊亭楽大)のスキルやライフワークたるラジオへの情熱も関わっているのだろう。
経験の全てで文章を解釈するというのは、「難しい本を読むためには」(山口尚/ちくまプリマー新書)にも通じるものがあったと思う。 -
Posted by ブクログ
タイトルと目次見た段階でのある程度の推測は「結局歴史は繰り返すっていうか、人類は学習しないから同じ事や同じ失敗やらかすから、それが名著に予言として現れてるんだろうな」みたいな先入観で読み始めた。
まあその予想としては概ね外れてるとは思わないけど、基本的に「プロデューサー目線の100分de名著」をやってる。
端的にはそういうことだけど、それがつまらないかといえば流石に裏方でもエンターテイナーだなぁと。
中でも「赤毛のアン」「アルプスの少女ハイジ」「ピノッキオの冒険」は、見下してる訳じゃないけど多分今後手に取らなかった部類の本だと思うが、俄然読みたくなった。
てか、この番組面白そうだなぁ。配信か本で読んでみようかな。
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Posted by ブクログ
ネタバレ感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会的なものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。(「人生論ノート」三木清著、新潮文庫)
普通に読むと逆ではないかと思ってしまう。なぜなら感情なんて個人のものなのだから主観的に決まっているし、知性は客観的なことについて言及する能力のはずだ。ここには、三木らしいレトリックがある。この言葉のいいかえの部分に注目してみよう。
客観的なもの=社会的なもの。主観的なもの=人格的なもの。このように三木による定義づけよにって文章を読みかえていくと、本当の意味がわかってくる。感情が社会的なものというのは、自分ならではの純粋な感情ではなくて、たとえば、他人がこの番組が面白いといえばなんとなく自分も面白そうだと思ったり、グルメサイトの口コミで多数の人がおいしいと書き込んでいれば、なんとなくそのレストランの料理をおいしく感じてしまう。感情というのはこんなふうにたやすく煽られたり、空気によって左右されたりするものだ。三木は、これを「社会化されている」「客観」と表現しているのだ。
しかし、知性は違う。社会やその場の空気に左右されず、きちんと自己の基準で良否を吟味し判断できるのが知性。だからこそ、三木は知性こそが主観的なものであり、人格的なものであると述べているのだ。
「感情を煽ることは容易だが、知性を煽ることはできない」
岸見さんは三木の知性に対する考えを一言に凝縮してこう表現してくれた。私たちは、ともすると、周囲の空気に流されてしまい、自分で考えることをやめてしまいがちだ。三木は、こうした状況を「精神のオートマティズム」と名付けて鋭く批判した。
若松さんとの打ち合わせの中で、特に印象的だったのが、「西田哲学は決して日常を離れた思想的営為ではない」というポイントだった。「純粋経験」などというと、日常を離れた悟りの境地のようなものであり、私たち凡人には関係のない高尚な概念だと思いがちだ。だが、若松さんは、たとえば、料理をするとき、掃除をするときなど、私たちの生活の中にも「純粋経験」はあるという。絵画を鑑賞するような事例がわかりやすいだろう。私たちは、美術館で絵画を鑑賞するとき、パッと見てよくわからない場合は、まずキャプションから読もうとする。その解説を見て絵画を解釈しわかった気になろうとするわけだ。
西田であれば、これは「美の体験」ではないというだろう。私たちは、事前に得た知識や、好き嫌いといった嗜好、慣れや習慣などを通して、事物を見たり体験したりしがちだ。だが、幾重にも重ねた色眼鏡を通してものを見てしまうがゆえ、「そのもの自体」を見ていないと西田はいう。「純粋経験」とは、こうした色眼鏡を一つひとつ取り外して「じかに観る」ということなのだ。自分と対象の間にフィルターを置かず、その体験そのものに身を浸してみること。そうすることで、私たちは世界の本質にもっと近づけるというのだ。
五十代も半ば近くになると、周囲の知人・友人たちも、部長やそれ以上のクラスの管理職を担っていることが多い。彼らの多くが、今、厳しい問題に向き合っているのだ。大きな企業ほど「大企業病」とでもいうべき病に苦しんでいる。
代表的な病は、管理部門の行き過ぎた肥大化である。知人・友人には、書籍やWEBメディア、映像などのコンテンツを制作する人や、学術界で働いている人が多い。だから、五十代で管理職といっても、フロントラインで働いている人が多いのだ。彼らと飲みにいくと真っ先に愚痴が出るのは、報告書や提出書類のたぐいがびっくりするくらい多いこと。このご時世、企業や研究機関への世間からの視線は厳しい。「コンプライアンスの順守」の名のもとに、それらに忙殺されて、肝心の学術研究や、コンテンツ制作に手が回らないことが多いというのだ。それに伴って、そうした報告書類を管理・処理する管理部門がどんどん大きくなっているという。実際に商品やコンテンツを作り、お金を稼ぐために最前線で戦っている彼らがそのことに注力できず、雑務に追われて疲弊してしまうという皮肉な現象……。まことに本末転倒なことが起こってるのだ。
それに追い打ちをかけるのが、全く現場のことを知ろうとしないトップや部門リーダーが、思いつきのような形で進めようとする「改革」という名の現場崩壊。それを支えているのは、たとえ現場のためにならない改革と分かっていても、自らの保身のために忖度しまくり、指令をそのまま説明もなくおろしてくるイエスマンの側近たち。
目先の成果が上がれば上に対してのよい報告の類になるから、勢い、短期的な成果ねらいの派手な商品や企画だけが尊ばれ、これまで企業や研究機関として大切に育ててきた、公共的な価値が高く、長期的なスパンでしか結果の出ない大事な仕事が次々に滅ぼされていく。結果、長らくその企業の商品やコンテンツを愛してきた人々が離れていってしまうのだ。
同世代のサラリーマンや研究者たちが直面している悩み、苦しみは、こんなふうにほぼ共通している。これは、今、日本全体を覆っている暗雲なのかもしれない。