腑に落ちるような落ちないような。たぶん、私は基本スタンスとして「真実か嘘か」ではなく「どう語ったか」を重視したいと考えているし、当事者という言葉自体学術研究上の記号であってそれが本人にとってどうあるかは別次元の話だと捉えているからだろうな。
自身の暴力性・権力性を認識するというのは研究やら支援やらに関わるのであれば必要だと思うけど、そこを「おこがましさ」とか「罪悪感」とかの綺麗な言葉にしていいんだろうかという思いはある。というか昔読んだ民俗学研究の論文にそういう話あったような。
当事者であり研究者である人がカムアウトすべきかという問題はまだ自分の中で整理できてない。当事者であることを隠して研究をするのは卑怯かという問いであれば、研究者としての暴力性を認識して引き受けているならええんちゃうのとは思う。
当事者であることをカムアウトすることによるバイアスとか研究者である人格に被害者性を帯びることであれば、一研究者として書いた論文に対して「あなたは当事者だから」という側と闘うなり受け容れるなりする気力があるなら、って感じかな。正直、そういうこと言う人におもしろい研究者いないイメージなので相手せんくてもと思っているけど、そのことによって傷つくことは弱さではないので、耐えろというつもりもない。ただ、当事者であることを明かした上で論ずるなら、当事者性と研究者の暴力性を両方自覚して書かなきゃいけないからその分難しくはなるよね、と思う。どちらかだけで書くほうが、遥かに楽に書けるとは思う。
自分自身が当事者であることを明かした上で研究をするべきか、という話を昔某研究者と話した記憶をうっすら思い出した。たしか、結論は、明かすも明かさないも戦術、だった気がする。
明かす痛みも明かさない痛みもあって、それはすべて個人である本人が負うしかないというのが少なくとも今の日本の現状。それが社会構造的な問題であるということはまた別の話。