退屈という感覚は単なる個人の心理状態ではなく、政治的・経済的に構築された構造の一部として生み出されているのだと思った。退屈は、仕事と余暇の分断、そしてそれを支える資本主義的イデオロギーのなかで制度的に再生産されている。
ギグエコノミー(インターネットを通じて単発の仕事を受注する働き方のこと)に見られるように、現代の労働は短期的かつ不安定であり、アルゴリズムや他者の評価に左右され続ける。その結果、労働は自己実現の手段ではなく、主体性を弱めるものとなり、常に刺激に晒されながらも満たされない退屈を生み出している。これは暇だから生じる退屈ではなく、常に不足を感じさせられる構造から生じる退屈である。この構造は消費の場面にも当てはまる。SHEINの児童労働問題が繰り返し指摘されながら解消されないのは、消費者がその事実を知っていても、それを自分の問題として引き受けず、安さや即時的な満足を優先した消費行動を続けているからではないか。搾取の責任を企業や国家だけに帰すことはできず、消費者個人もまたこの構造に組み込まれている。重要なのは、退屈であることそのものではなく、退屈を退屈として認識し、立ち止まって考える時間を持てないことだと思う。退屈を即座に刺激で埋めてしまう行動の積み重ねが、モノの価値や労働の重みを考える機会を奪っている。手間をかけることは、手間をかけないことより価値が低いわけでも高いわけでもないが、作られる過程や投入された労働が見えることで、正当な対価について考える余地が生まれる。その対価を支払うかどうかは消費者の選択に委ねられているが、その選択は、考える時間があってはじめて成立する。退屈を排除するのではなく、退屈と向き合う時間を取り戻すことが、消費や労働のあり方を見直すための重要な手がかりになると感じた。