韓非のレビュー一覧
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韓非子シリーズの最終巻。第40の難勢から第55の制分まで。正月に読み終えた。一貫して論理性を追求し、法術を重視して、儒子・墨子の世界観を弾劾する。
例えば、第43の定法では、韓の申不害の術(任用、評価、登用などの政治術)と秦の公孫鞅の法(行政法と刑法、賞与)を挙げ、双方とも必要である旨を説く。
第49の五蠹(ごと)は始皇帝も読んだとされる名文で、世の中は変わるものであり、それによってとるべき対策も異なるということを古代史を紐解いて解説し、古代聖王の行いを踏襲すべきという儒者・墨者を弾劾しつつ、今の世での法術による統治の必要性を説く。
第50の顕学も韓非子の自著とされ、儒・墨を詐欺師と断じ -
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第3巻でも引き続き現実主義に立って、理想論ではなく現実の統治とはいかなるものかを説いている。
前半の説話集では、宋襄の仁や矛盾などの説話が語られている。宋襄の仁は、まさに孔子が理想とする仁の発想が、リアルな政治の現実では役に立たないことも多いことを示している。また、全体として、完全無欠ではない君主が利益に左右される臣下をいかに統率して行くかという点に重きが置かれている。理想論よりは、今の現実社会にも妥当するのでは無いかと思う。
後半の難とされる一連の章では、議論の様相がディベートとなる。前提として過去の説話を紹介した上で、或るひと曰く、という形で別の現実的な視点から批評する。最後の方の章で -
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そもそも、良い馬をつけたけんこな車を、五十里ごとに1つずつ配置し、それを中程度の普通の御者に任せたなら、できるだけ速く、できるだけ遠くにゆくということも、達成できるわけである(なにも飛び抜けたものが必要なわけではない)
事実とは思わないことでも、十人が言うとあるいはと疑い、百人が言うとそうかもしれないと思い、千人になるとかたく信じこんでしまう
古い時代では、男でも耕作をしなかった。草木の実があって食物は十分だったからである。(中略)ところが、今、一人の人に五人の子供がいるのは多いとはいえないが、その子どもたちがまたご人ずつの子供を生むとなると、祖父が生きているうちに25人の孫ができることに -
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古代の聖王の仁義の徳を語っても、それで国を正すことができないのは、これはやはりそれで遊ぶことはできても、実際には国を治めることのできないものだからである
賢明な君主は、相手が自分に背かないことを頼みとはせず、相手がそむけないような自分であることを頼みとする。相手が自分を騙さないことを頼みとはせず、相手が騙せないような自分であることを頼みとする
上君のともにおるは皆その師なり、中は皆その友なり、下はことごとくその使なり
そもそも烏を馴らすには、その下羽を切り取ってしまう。下羽を切り取ると、必ず人に頼って餌を食べることになるから、どうしても人になれない訳にはいかない
君主は外国を手本にしよ -
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韓非子第三冊。矛盾・良薬口に苦しは本書に収録されている。
第二冊に書いたように、信賞必罰・上下関係の絶対がくどいくらいに書かれている。正直、やりすぎだと感じるような一節も目に付く。たとえば、秦が飢饉になった時に、臣下が民のために五つの御苑の野草や野菜・橡の実や棗・栗を開放するように進言したのに対し、
「わが秦国のほうでは、民は功績があれば賞を受け、罪があれば罪を受けるのだ。今、五つの御苑の野菜や木の実を開放すると、民は功績のある者も功績のない者もともに賞を得たことになる。そもそも、功績のある者もない者も、みな一緒にして民に賞を得させるというのは、これは国の乱れるもとである。まずは、五つの御苑を -
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引き続き、シビアすぎる一節。
「さて、君臣上下の関係には、親子の間の情愛はない。それなのに、道義を立てて下々を縛ろうとすれば、上下の間には必ずひびが入るだろう。それに父母が子に対する場合さえ、男子が生まれたら祝いあうが、女子が生まれたら殺してしまう。男子も女子もどちらも父母の胎内から出てきたのに、男子は祝われて女子は殺されるというのは、あとあとの便宜を考え、さきざきの利益を計算するからである。してみると、父母が子に対する場合さえ、やはり打算の心を働かせてそれに向かっている。ましてや、親子の情愛がない場合ではなおさらではなかろうか。このごろ、学者が君主に説くのは、みな利を求める心を棄てて、愛しあ -
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ネタバレ完全な政治などないのだと教えてくれる本。
韓非子は法家思想の代表格だ。
彼は政治の基本は賞罰しかないと言い切っている。
確かに功績のあるものを褒め、間違ったことをした者には罰を与えるというのは理に適っている。
当時の中国の時代に儒教的な教えを広めていた中でも韓非子は批判している。
人は信賞必罰をもってしか動かせないと。
時に非情にうつる彼の手法であるが、
それは必死に国を変えようとしている彼の思いではないか。
いつの時代も変革を求めているなかで
変わらない世の中であるが、彼は自分の思想をもって国を変えようとした。
その思い・情熱には感動できるものがある。
それがこの時代にも読み継がれて