免疫が必要なのは身体システムだけじゃない。社会システムも、感染症に対する免疫が必要だ。
リモートワークが定着し、業務システムが急速にDXを推し進め、世界は
狭くなったと感じる人も多いだろう。しかし、僕は全く逆の視点から、世界は狭くなったと感じる。(対面営業じゃないと成約率が悪いと危惧する部長、オンラ
...続きを読むイン会議だと議論が活発化しないと危惧する部署が例)コロナ化を通じて、逆に人は目の前の人や物事にしか本当に向き合うことはできないのだと感じた。家族との時間が増え、自宅の環境が整い、休日はいつもは通り過ぎていた公園に本とコーヒーを持って出かけるようになり、近場の飲食店で食事を済ませるようになった。公園の景色も、そこでのんびりする時間も悪くないし、近所の飲食店も意外においしい。コロナによって世界はむしろ狭くなった。そして、家族や恋人、少ない友達との時間を大切にするようになり、自宅が居心地のいい場所になり、身近な景色を愛せるようになった。
・…そして気づけば、予定外の空白の中にいた。多くの人々が同じような今を共有しているはずだ。僕たちは日常の中断されたひと時を過ごしている。
それはいわばリズムのとまった時間だ。歌で時々あるが、ドラムの音が消え、音楽が膨らむような感じのする、あの間に似ている。学校は閉鎖され、空を行く飛行機はわずかで、博物館の廊下では見学者のまばらな足音が妙に大きく響き、どこに行ってもいつもより静かだ。
僕はこの空白の時間を使って文章を書くことにした。予兆を見守り、今回の全てを考えるための理想的な方法を見つけるために。ときに執筆作業は重りとなって、僕らガチに足をつけたままでいられるよう、助けてくれるものだ。p8-9
→空白の時間ね、確かにそうだ。しかも世界中がそれを共有している。その中で、物を書く作業は頭の整理に最適だよね。
・ただし希望はある。「アールノート」は変化しうるのだ。変化が起こるかどうかはある意味、僕ら次第だ。僕たちが感染のリスクを減らし、ウイルスがひとからひとへ伝染しにくいように自分達の行動を改めれば、アールノートは小さくなりら感染拡大のスピードが落ちる。これこそ僕たちが最近、映画館に行かなくなった理由だ。必要な期間だけ我慢する覚悟がみんなにあればついにはアールノートも臨界値の1を切り、流行も終息へと向かうはずだ。アールノートを下げることこそ、僕たちの我慢の数学的意義なのだ。p19-20
→個人的には、こーやってわくわくするような学術的知識で理論化して、外出自粛の意義を唱えてくれた方が身に沁みる。
・…何かが成長する時、増加量は毎日同じだろうと考える傾向が僕らにはある。数学的に言えば、僕たちは常に線形の動きを期待してしまうのだ。この本能的反応は自分でもどうにもならないほどに強い。
…(しかし)現実には、そもそも自然の構造が線形ではないのだ。自然は目まぐるしいほどの激しい増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている。自然は生まれつき非線形なのだ。
感染症の流行も例外ではない。とはいえ科学者であれば驚かないような現象が、それ以外の人々を軒並み怖がらせてしまうことはある。こうして感染者数の増加は「爆発的」とされ、本当は予測可能な現象にすぎないのに、新聞記事のタイトルは「懸念すべき」「劇的な」状況だと謳うようになる。まさにこの手の「何が普通か」という基準の歪曲が恐怖を生むのだ。p22-23
→コロナを通して、「正しく恐れること」の大切さを感じる今日この頃。こういう知識もあるのとないのでは心の余裕は変わってくる。でも、怖いものは怖い。その心理との中間を考慮して、集団の動きを予想しないと。
・コロナウイルスに愛する抗体は持たぬ僕らも、どんな困った状況にでも対抗できるそれならば持っている。何かにつけ、始まりの日付と終わりの日付を知りたがるのはそのためだ。僕らは自然に対して自分たちの時間を押し付けることに慣れており、その逆には慣れていない。だから流行があと1週間で終息し、日常が戻ってくることを要求する。要求しながら、かくあれかしと願う。
でも、感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。なぜなら、最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち方とは限らないからだ。不可能なこと、または現実性の低い未来を待ち望めば、ひとは度重なる失望を味わう羽目になる。希望的観測が問題なのは、この種の危機の場合、それがまやかしであるためというより、僕らをまっすぐ不安へと導いてしまうためなのだ。p28
→人の心理まで考える。そこから生まれる希望的観測も考える。その上で何を希望することが許され、何が許されないかを把握する。間違った希望的観測はまっすぐ不安につながるなんて、恐ろしい。その転換点には必ず失望があるってことか。
・…自分の損得勘定だけにもとづいた選択はベストな選択とは言えない。真のベストな選択とは、僕の損得とみんなの損得を同時に計算に入れたものだ…。
つまり、残念だが、パーティーは次回にお預けだ。p41
→ナイスな警告だと思う笑。
・…今、僕たちが直面している状況では、ありとあらゆる反応が予見される。怒る者もあれば、パニックにおちいる者もあるだろう。冷淡な反応もあれば、シニカルな反応もあり、信じられないと思う者もあれば、あきらめる者もあるだろう。その点を心に留めておくだけで、普段よりも人に優しくしよう、慎重になろうとすることができるはずだ。さらに、スーパーの通路で他人をぶしつけな文句で罵ってはいけないということも覚えておこう。p62
→想像力が余裕を生むってことだな。
・ウイルスは、細菌に菌類、原生動物と並び、環境破壊が生んだ多くの悲しい難民の一部だ。自己中心的な世界観を少しでも脇に置くことができれば、新しい微生物が人間を探すのではなく、僕らの方が彼らを巣から引っ張り出しているのがわかるはずだ。
増え続ける食料需要が、手を出さずにおけばよかった動物を食べる方向に無数の人々を導く。たとえばアフリカ東部では、絶滅が危惧される野生動物の肉の消費量が増えており、そのなかにはコウモリもいる。同地域のコウモリは不運なことにエボラウイルスの貯蔵タンクでもある。
コウモリとゴリラ——エボラはゴリラから簡単に人間へ伝染する——の接触は、木になる果実の過剰な豊作が原因とみなされている。豊作の原因は、ますます頻繁になっている豪雨と干ばつの激しく交互する異常気象で、異常気象の原因は温暖化による気候変動で、さらにその原因は…。
頭がくらくらする話だ。原因と結果の致命的連鎖。しかし、他にいくらでもあるのこの手の連鎖は、以前に増して多くの人が考えるべ喫緊の課題となっている。なぜならそれらの連鎖の果てには、また新たな、今回のウイルスよりも恐ろしい感染症のパンデミックが待っているかもしれないからだ。そして連鎖のきっかけとなった遠因には必ずなんらかのかたちで人間がおり、僕らのあらゆる行動が関係しているからだ。
この本の序章で、僕はあえて少し大げさな表現を用いて、今起きていることは過去にもあったし、これからも起きるだろうと書いた。だからこれは、いい加減な予言ではない。そもそも予言ですらない。むしろ、あくまで客観的に、こう付け加えてもいい。コロナウイルスとともに起きているようなことは、今後もますます頻繁に発生するだろう。なぜなら新型ウイルスの流行はひとつの症状にすぎず、本当の感染は地球全体の生態系のレベルで起きているからだ。p67-69
→確かに、今回のコロナウイルスが偶然の産物としか考えられないのは危険だ。エボラがより人に感染しやすいように変質したら…と考えただけでも背筋が凍る。でも、それは十分に怒る可能性がありそうだ。コロナを通して人類が学んだことを、しっかり仕組みにしないといけない。
・…目には見えないそんな脅威に押しつぶされそうになりながら、人々は日常に戻りたいと望み、自分にはその権利があると感じている。日常が不意に、僕たちの所有する財産のうちでもっとも神聖なものと化したわけだが、これまで僕らはそこまで日常を大切にしてこなかったし、冷静に考えてみれば、そのなんたるかもよく知らない。とにかくみんなが取り返したいとおもっているものであることは確かだ。
しかし日常は一時中断され、いつまでこの状態が続くのかは誰にもわからない。今は非常時の時間だ。この時間の中で生きることを僕らは学ぶべきであり、死への恐怖以外にも、この時間を受け入れるための理由をもっと見つけるべきだ。ウイルスに知性がないというのは本当かもしれないが、すぐに変異し、状況に適応できるという一点では人間に優っている。そこはウイルスに学んだほうがよさそうだ。
現在の膠着状態は甚大な被害を生むだろう。失業、倒産、あらゆる業界における景気低迷。誰もがそれぞれの難題の山とすでに取り組み始めている。僕たちの文明が、スピードを落とすことだけは絶対に許されないようにできているためだ。ただ、今度の流行のあとで何が起きるのかの予測は複雑すぎて、僕にはとても無理だ。降参する。その時が来たら、変化をひとつずつ、受け入れていきたいと今は思っている。p96-97
・旧約聖書の詩篇第90篇にひとつ、このところ僕がよく思い出す祈りがある。
われらにおのが日を数えることを教えて、
知恵の心を得させてください。p97
(中略)でも、僕はこんなふうに思う。詩篇はみんなにそれとは別の日を数えるように勧めているのではないだろうか。われらにおのが日を数えることを教えて、日々を価値あるものにさせてください——あれはそういう祈りなのではないだろうか。苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々も含めて、僕らは人生の全ての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか。p99
・コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを。
このところ、「戦争」という言葉がますます頻繁に用いられるようになってきた。フランスのマクロン大統領が全国民に対する声明で使い、政治家にジャーナリスト、コメンテイターが繰り返し使い、医師まで用いるようになっている。「これは戦争だ」「戦時のようなものだ」「戦いに備えよう」といった具合に。だがそれは違う。僕らは戦争をしているわけではない。僕らは公衆衛生上の緊急事態のまっただなかにいる。まもなく社会・経済的な緊急事態も訪れるだろう。今度の緊急事態は戦争と同じくらい劇的だが、戦争とは本質的に異なっており、あくまで別物として対処すべき危機だ。
今、戦争を語るのは、言ってみれば恣意的な言葉選びを利用した詐欺だ。少なくとも僕らにとっては完全に新しい事態を、そう言われれば、こちらもよく知っているような気になってしまうほかのもののせいにして誤魔化そうとする詐欺の、新たな手口なのだ。
だが僕たちは今度のコロナウイルスの最初から、そんな風に「まさかの事態」を受け入れようとせず、もっとも見慣れたカテゴリーに無理やり押し込めるという過ちを飽きもせずに繰り返してきた。たとえば急性呼吸器疾患の原因ともなりうる今回のウイルスを季節性インフルエンザと勘違いして語る者も多かった。感染症流行時は、もっと慎重で、厳しいくらいの言葉選びが必要不可欠だ。なぜなら言葉は人々の行動を条件付け、不正確な言葉は行動を歪めてしまう危険があるからだ。それはなぜか。どんな言葉であれ、それぞれの亡霊を背負っているためだ。たとえば「戦争」は独裁政治を連想させ、基本的人権の停止や暴力を思わせる。どれも——とりわけ今のような時代には——手を触れずにおきたい魔物ばかりだ。p101-103
→わかりやすい、しかし的を外した表現に落とし込んで、誤解を生み、余裕をなくすこともあると思う。コントロールはしやすいんだろうけど、しかも恣意的に。
・戦争という言葉の濫用について書いているうちに、マルグリット・デュラスの言葉をひとつ思い出した。逆説的なその言葉はこうだ。「平和の様相はすでに現れてきている。到来するのは闇夜のようでもあり、また忘却の始まりでもある」(『苦悩』より)戦争が終わると、誰もが一切を急いで忘れようとするが、病気にも似たようなことが起きる。苦しみは僕たちを普段であればぼやけて見えない真実に触れさせ、物事の優先順位を見直させ、現在という時間が本来の大きさを取り戻した、そんな印象さえ与えるのに、病気が治ったとたん、そうした天啓はたちまち煙と化してしまうものだ。僕たちは今、地球規模の病気にかかっている最中であり、パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終焉とともに消えてなるなることだろう。もしも、僕らが今すぐそれを記憶に留めぬ限りは。p107-108
(中略)しかし、そんな暮らしもやがて終わりを迎える。そして復興が始まるだろう。
支配者階級は肩を叩きあって、互いの見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を褒め讃えるだろう。自分が批判の的になりそうな危機が訪れると、権力者という輩はにわかに団結し、チームワークに目覚めるものだ。一方、僕らはきっとぼんやりしてしまって、とにかく一切をなかったことにきたがるに違いない。到来するのは闇世のようでもあり、また忘却の始まりでもある。
もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。まずはめいめいが自分のために、そしていつかは一緒に考えてみよう。僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。実のところ、自分の行動を変える自信すらない。でも、これだけは断言できる。まずは進んで考えてみなければ、そうした物事はひとつとして実現できない。
家にいよう。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼み、弔おう。でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう。「まさかの事態」に、もう二度と、不意を突かれないために。p114-116
・でも僕は忘れたくない。最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策に対して、人々が口々に「あたまはだいじょうぶか」と嘲り笑ったことを。長年にわたるあらゆる権威の剥奪により、さまざまな分野の専門家に対する脊髄反射的な不信が広まり、それがとうとうあの、「頭は大丈夫か」という短い言葉として顕在したのだった。不信は遅れを呼んだ。そして遅れは犠牲をもたらした。p110
・僕は忘れたくない。頼りなくて、支離滅裂で、センセーショナルで、感情的で、いい加減な情報が、今回の流行の初期にやたらと伝播されていたことを。もしかすると、これこそ何よりも明らかな失敗と言えるかもしれない。それはけっして取るに足らぬ話ではない。感染症流行時は、明確な情報ほど重要な予防手段などないのだから。p111
・僕は忘れたくない。今回の緊急事態があっという間に、自分たちが、望みも、抱えている問題もそれぞれ異なる個人の混成集団であることを僕らに忘れさせたことを。みんなに語りかける必要に迫られた僕たちが大概、まるで相手がイタリア語を理解し、コンピューターを持っていて、しかもそれを使いこなせる市民のみであるかのようにふるまったことを(移民たちのことを一切考慮せず、大切な知らせが当初、イタリア語のみで伝達されたこと、学級閉鎖にともない、いきなりオンライン授業が導入され、教育現場が混乱した状況などを指している)。p112