福尾匠のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
新進気鋭の哲学者、福尾匠の話題書。
本書『置き配的』は私の聴いている人文系Podcastで名前が次々と挙げられ、日々の暮らしで意識せざるを得ない状況に追い込まれていた。なので、遂に手に入れた高揚感でワクワクしながら読み始めた。
いやはや、これは高難易度である。
令和人文主義界隈の執筆家たちのような手取り足取りのガイドを勝手に想像していたが、引用される著作やアートがほぼ分からない。前提とされる概念を把握していないので、文字を追っても目が滑り容易に理解しがたい。
強敵であることを早々に察知し及び腰になってしまったが、それでも読む手が止まらない。著者の論考をいっぺんに理解することは難しいが、取り扱う題材の魅力と著者の流麗な文体が読むこと自体を楽しませてくれる。不思議な作品である。
〈密〉と〈疎〉の論考は、いろいろなメディア媒体で解説や批評がされているのでそちらに譲るとして、ここでは第10回の論考に触れたい。ほとんど唯一履修済みであった村上春樹『TVピープル』より『眠り』を絡めた論考は個人的に読み応えがあった。
主人公の女性が原因不明の不眠症により、夜の時間丸ごとプライベートに費やすことができるようになる。その特異な生活を過ごす中、昼と夜の分割を皮切りに義務と私空間、頭と身体といった具合に徐々に境界が遊離し、現実感そのものが揺らいでいく。そのおどろおどろしい描写を改めて思い出した。
この作品批評を援用し、著者は疎外=譲渡される限りのものとしてしか私の固有性はありえないという結論へと導く。『眠り』の主人公は不眠症を通して一見自由な時間を謳歌できる幸せを獲得したかに見えたが、反面昼間の現実=義務を強く意識することになりその狭間で自己が遊離していく。著者はこの遊離を責めるのではなく、疎外=譲渡によるズレの中でしか自己は成立しえないのだと示している。
本書は主に前半は東浩紀の論考との対比を行い、後半はドゥルーズ&ガタリの論考を下敷きに書者自身の思想を展開していく。繰り返すが正直私には難しかった。ただ同時代の著者が繰り出した重厚な批評に触れられたことに、大きな満足がある。 -
Posted by ブクログ
エッセイであり批評である、パンチの効いた言葉たちを浴びる
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この副題には、エッセイでないものは批評ではなく、批評でないものはエッセイではないという私のひとつの信念を込めている
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平和なときに「みんな」で考えるのは、戦争の準備だ。平和なときに「それぞれ」で考えるのは、今が平和であることを確認することだ。ふたつのことはすれ違っている。大人は器用にこのふたつを行ったり来たりするけど、ずっと迷っているだけだともいえる。
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社会的分断というのは、言葉の面から見れば、あらゆる言葉がその集団の内部ではミームとなり、外部からの、あるいは外部の集団への言葉がスパムとなることを意味するだろう。これは標準語と方言のようないわゆる中心-周縁図式とは異なる社会言語学的な軸として考えることができるかもしれない。
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真面目な言葉とふざけた言葉、客観的な説明と主観的な意見、指示と喩えの分割は、言葉に対して距離を置くことのできる人間にとってしか役立たない。よかれ悪しかれ、私たちはそうした距離の失調しつつある時代を生きている。あらゆる言葉は信じることができるかどうか、共感できるかどうかで測られる。現代が共感と反感の時代に、あるいは視覚的コミュニケーション優位の時代になったと言うだけでは片手落ちだ。その一方で言葉の使われかたも変化しているはずであり、小説が察知するべきはその変化だろう。
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喩えでしかないものの領分が失効するとき、描写は筋を際立たせるためのものではなくなり、内面は行動を際立たせるためのものではなくなるからだ。それらはどれも言葉であることにおいて等価になる。
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山と山の絵をとりあえず並置してみること、映画的経験と日常的経験をとりあえず並置してみること、こうした離接的綜合の技法によって、派生的なものとして劣位に置かれるもののポジティビティ=実定性を捉え、両者の関係をより創造的なものとして考えることができます。 -
Posted by ブクログ
『眼がスクリーンになるとき』。タイトルに引かれて久々に哲学関連の本を読んだ。良書だったので感想を書かずにはいられない。難解で知られるドゥールーズ『シネマ』の入門書であると同時に、「創造」についての本でもある。
何を隠そう僕は学生時代に『シネマ』を読んだものの1ミリも理解できなかった人間だ。何が書いてあったか全く覚えていない。でも、平易な文からいつ間にか哲学書になっていく文体で、最後まで読み通すことができた。哲学の入門書は退屈なことが多いけど、読み終えたときにカタルシスが得られる。1992年生まれで現在大学院生の著者、なんとこれがデビュー作だという。
本のタイトルになっている「眼がスクリーン」って何? それは対象を「リテラルに(=文字通り、見たままに)」見るということ。〈眼ースクリーンは与えられる「見え(vision)」を受け取るだけだ〉。眼がスクリーンになるとき、隠喩は文字通りに読まれ、映画のワンシーンは批評の理論が適応されるのではなくそのまま見られる。これはある種「誤読」を生むかもしれないが、この考え方でドゥールーズは新しい概念を創造した。本書を読むと、この思考法を追体験できる。
この本を読み終えた人はドゥールーズの『シネマ』を理解しただけで満足せず、何かを創造することに生かすべきだろう。ドゥールーズは映画について哲学するのではなく、映画を使うとこんな概念を生み出せますよ、というスタンスで思考した。映画などの芸術や哲学の理論、これらに詳しいだけでは新しいものは創り出せない。芸術や理論がそもそも持っている余剰というか、本書に出てくる言葉を使えば「力能」に注目すると、自分には見えていなかった新しい思考の地平が現れる。
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私や私の友人たちはもう20代が終わりかけているか、あるいは30代になっている。幸せそうな人はあまり思い浮かばない。不幸を嘆いているというよりは、背中に焦燥感と閉塞感が滲むという感じ。
この世界についての閉塞感をどうにかする足しになったら良いなと思いながらこの本を読んだ。ツリー的で体系だった密な形式の文章ではなくて、リゾーム的で断片的な疎の文章だから、生き方の指針は強くは示されていなかった。でも、そのような文章のスタイルが大事だというスタンスは理解できた。この世界の閉塞感を正面から密に論じてしまうことは、結局同じ世界の中に取り込まれることになる。例えば、マークフィッシャーは、密な世界を密に(真面目に?)論じたが故に袋小路に入っていったのではないか。
「平和と愚かさ」の問題にもかなり通じる。平和とは考えないことである。であるならば、平和について密に考え、声を上げ、行動することは、既に平和ではないということになる。平和は思考できない。
将棋のように、相手の王を詰ませようと向かっていく密なスタイルでは、窒息するほかない。
私は囲碁を打つから著者の囲碁と将棋の比喩を面白く思った。囲碁棋士は、解説するときに、よくわかりません、とよく言う。私はそれがかなり好きで、かなり疎だなと思う。もちろん囲碁棋士は常人では理解が及ばないほどとんでもない数の手を読んでいる。その上で、どの可能世界(盤面)が良いのか判断がつかないために、出てくる言葉は、わからない、となる。囲碁はどこまで強くなっても、ゲームそのものの複雑性に人間の知性が追いつかない。解説という役割は、ゲームの状況を理解可能な言葉にして観客に伝えるということだが、囲碁棋士はその役割からヌルっと降りてしまう。だから、囲碁の解説は解説というより、どのように考えると良さそうかをリアルタイムで見せる行為に近い。こうしたらどうか、ああしたらどうか、と。
多少はわかる回と、かなりわからない回がある。
7回がかなりわからなかった。4回も。
全体的に言えば、前半より後半の方がわかりやすい気がする。6回から後、疎と密(置き配的)の対比がある程度はっきりしたあたりから少し読みやすい?
前半は置き配的なことがどのようなことが書こうとするパートだが、なにをしようとしているのか最初よくわからなかった。第一回も読み直したらすごく緻密だと思ったけど、柄谷と東を対比的に出してきて、どちらかに肯定的な評価をしながら論じるのかな、と思ってたら、どちらも置き配的(=パフォーマティブ)として、批判されていた。二者の対比があって、両者とも批判されるというのは少し珍しいような気がした。
それにしても、著者は要約が綺麗だ。
8回のラトゥールの要約とかめちゃわかりやすい。3回のオースティンとバトラーの要約とか。そう思えるのは、多少自分で読んだことがあるからで、全然読んだことのないクラウスとか出てくると難しい。現代美術の話題もわからない。
この本は議論をきちんと理解するための本ではなくて、生活で出会う言葉や出来事を、並べる一例を見学するみたいな感じがする。フーコーやドゥルーズの議論をもう少しきちんと理解したいが、それは非美学のほうを読めば良いのだろうか。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ筆者の考えや思考を全て自分のものとして噛み砕いて理解できたわけではない。きっともう一回読んだら別のところが印象に残る気がします。
一番印象に残ったのが「バイラルなものに対してその換喩としての個人を操作の対象とし、そしてその個人を置き配的なネットワークの末端=端末にすること」というフレーズ。
あくまで私の解釈だか、“バイラルなもの"は操作不可能な他者を指しており、それを換喩としてメタデータを操作(=批判)の対象とすることで、コミュニケーションが置き配的、個人を端末にする(=コミュニケーションが通知を鳴らす/通知が鳴ることが目的になる)ことなのかなと。
そして、それは蛙化現象の事例で見られるように、自己の心身を分離させ(=メタデータと実存を分け)、それを相手に投影させている、と私は捉えた。
これはあくまでも感想。この置き配的なコミュニケーションに抗うには、他者をメタデータと実存に分けずに向き合うことが求められているのかなと感じました。 -
Posted by ブクログ
(01)
本書も,映画の本でもなく,映画史の研究でもない.何の本なのか,といえば,著者が冒頭でいうように,ドゥルーズ「シネマ」(*02)の解説書ではあるが,おそらく「シネマ」の詳細な解説が読めてよかったという読書体験にはならないはずである.
終盤のモチーフとなる仮構や偽といった話題へと接続しつつ,偽造や模倣,そして新しさや芸術,哲学といった問題が,ドゥルーズ「シネマ1」及び「シネマ2」から注意的に,注目的に引かれ,取り扱われる.これらの問題系は本書のさまざまな読み方の方途のひとつを示しているように感じる.
本書の真面目な通読を試みた読者はこんな疑問を残すかもしれない.「で?」「だから?」「著者のオリジナルは?,言いたいことはどこに?」
このような疑問符は通俗的なものだろうか?
解説書を自称する本書の額面に騙されてはいけない.本書には何事かの「新しい」身振りがあり,素朴な眼には,おそらくその新しさは見失われず,見逃されずに現れる(目が洗われる?).
ドゥルーズの「シネマ」や,そのドゥルーズの批評の対象となったベルクソンの「物質と記憶」並びに「創造的進化」を図式的に分かりやすく解説したというにとどまらず,創造的で芸術的な解説に著者は挑んでいる.クリエイティブな解説の理論を組み立てつつ.
「はじめに」で宣告されているように,「二重の適用に代えて二重の引き継ぎをおこなう書物として「シネマ」を読む」書物が本書であるが,そこには三重の引き継ぎや差し向けがあることを読者は了解しておく必要がある.ただ見ること,ただ読むこと,ただ見て読んで書きつけ記録し解説すること,その創造的な困難を本書は引き受けている.
(02)
本書を読むとき,「シネマ」を読んでみたくなり,映画を見てみたくなる,できれば,素朴に読み,ただ見るというやり方で.
「シネマ」や数々の映画は,未読や未見のひとびとにも開かれているし,私のように何も読んでいない何も見ていない読者にも,本書はあけっぴろげに開かれている.
リュミエール,グリフィス,エイゼンシュテイン,ヒッチコック,ブレッソン,フェリーニ,レネ,ゴダールといった映画史を彩る映像作家たちの名が出てこないではない.アリストテレス,ライプニッツ,スピノザ,パスカル,カント,ヒューム,フーコー,メイヤスーといった哲学史に連ねられるだろう面々を本書のうちに眼にしないではない.
運動イメージのうちで,情動イメージの領分とされるクロースアップの解説では,カサヴェテスのあの顔たちを想起してしまう読者も多いだろう.
多かれ少なかれ,大きな開かれ方をした図式は,私たち読者がそれぞれに固有として持っている哲学体験や映画体験を私たちに想起させ,読者を図式へと巻き込んでしまっている.
本書の特徴は,ベルクソンからドゥルーズへと連なる機軸は保ちつつも,図式的(*03)な方法を推し進めていく先に映し出されたイメージを,こうした巻き込みもありうべきものとして書き取ろうとした点にあると感じる.
(03)
面白く,すこし可笑しく,しかし素朴な読みへと読者を巻き込むのは,「整理する」「整理してみよう」「大枠を提示」「位置づけを確認」「表にしてまとめ」といった親切なガイドにも現れているように思う.それらのいわば運動イメージ的な融通を示すガイドが,図式への手がかりが与えている.
それは,コンセプチュアルな描法(*04)と言ってもいいかもしれない.本書は著者自身の修士論文をコアとしており,論文おける作法や論法に見られる概念や図式による整理が,本書にも現われている.
各章の冒頭には,前章をどのように引き受けているか示されているし,章末には次章への展望が見通されている.章節の終わりに対比表(生成表?)が用意されることもあるし,文中で要点が図式的に記述されていることもある.読者は,おそらく本書に読み入ることで困難を強いられ,迷い,誤ることもあると思うが,こうした要所要所の図式的な手がかりに戻り,手がかりから先読みし,困難と向かい合うことも,立体パズルのような本書を読む愉しみとなるのではないだろうか.
図式的すぎるのではないか,これらの図式は恣意的なものではないだろうかといった批判もあるに違いない.適用主義と,読みに対する図式適用の暗示や誘導は矛盾していないのだろうか,という不安もあるかもしれない.
本書が目指す時点や地点は(それは地平や時間でもあるのだろうか?),「眼がスクリーンになるとき」である.これが可能になる情況には,図式的すぎることでしかたどり着けないのかもしれない.演繹,仮構作用,概念の創造との連関も確認される「図式」を,いくばくかの可能性としての「整理」を,著者が読者の目の前で生成する現場としても本書は位置づけられている.そこには目撃や衝撃が確かにあると感じる.
(04)
オプティカルまたは光学的に,カメラではなくてスクリーンとしての眼が問題とされている.しかし工学的にはどのような問題が本書から演繹されるのだろうか.
例えば,終盤に運動イメージにおける有機的描写に対し時間イメージにおける結晶的描写が配置される.この文学や映像における描写(descripution)と,工学的な(例えば建築のような)スケッチ,ドローイング,エスキース,パース,遠近法,製図とをどのように対比して述べることができるのか,またはできないのか.ダイアグラムや地層といった用語が工学のなかへ,フィギュールとして,またはリテラルに持ち込まれた場合,どのようなイメージとして現われるのか,何が仮構されるのかという設問や仮説は考えられてよいだろう.
フッテージという用語は著者が本書に加味した新味であるかとも思う.足場という含意をもたされたフッテージという言葉を,建築やいま造られつつある構造物にそのまま,「文字どおり」に運び入れ,受け入れたとき,構造から発生へ,イメージから間隙へ,識別不可能性の境位ともいえるような「足場論」または仮構についての考察が組み上がるのではないだろうか.
一方で,本書は,視覚的なもの,光学的な見えだけでなく,音声についても十分に検討している.歴史学や文学,民俗学への応用もまた愉しみな作業ではある. -
Posted by ブクログ
置き配とSNSにおける議論をアナロジーとして読み解くのはおもしろかった。
それまで対面でのコミュニケーション込で届けられていたものが、ただ玄関前に置かれ、そのことが証拠写真とともに配達完了の通知が来るだけに。
SNSでの議論も、コミュニケーションというよりも、言った、言ってやったという言質の確認になりつつある。
後半の議論が一読だけではうまく読み解けなかった。
もう1回くらい読んでみたい。
もしSNSの投稿の文字数がX(旧Twitter)のような140文字以内でなく、1000文字以上だったら、SNSはまったく違うコミュニケーションツールだっただろうというのが、印象に残った。
そもそも流行ってないんじゃないかはともかく、今とはまったく違うコミュニケーションとか議論の形があったかもしれない