出隆のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
高校生の時、タイトルの意味が分からなくて、けどなんとなくカッコよく感じて手に取ったのが出会いでした。
以後、一生モノの本になりました。
なぜ、「一生モノ」かと言うと、まだ読めていないからですw
青春時代には、様々な本と出会い、人生観を揺るがし、進路さえも決定づけた、文字通り一生モノの本に出会う人もいることでしょう。わたしにも、そういう意味での一生モノの本は他に存在します。
けど、読みたいけれど読めずにいて、「いつかは読めるようになってやるゾ!」と思い続けている意味での「一生モノ」の本があっても良いのではないでしょうか?
どちらの意味だとしても、青春時代には、そういうガツンとくる本に出会って欲しいナ、と思うオバチャンなのです♡
あ、読めていないこの本ですが、高校生の時に出会って良かったことが一つありました。
それは、形而上学と形而下学があることを知ったことです。
要は、形而上学は哲学(厳密には哲学の一分野)で、形而下学は物理学だということです。
訳してみると簡単に分かります。MetaphysicsとPhysicsですから。
高校の教科でいえば倫理と物理、文系科目と理系科目、全然別の分野だと思っていた教科がグッと近く、目から鱗が落ちた思いで感じたことをおぼえています。
近代以降に分化が進む自然科学の元を知った気がしました。アリストテレス、さすが万学の祖!
高度化・細分化が進む諸学問ですが、迷った時には(キリスト教以前のものである)古代ギリシア哲学・科学・政治学などを眺め直すと、頭の中が整理できることがあるのでオススメでもあります。そういう意味(価値)としても「一生モノ」と言えるかもしれません♡
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Posted by ブクログ
ミレトス(現トルコ)。哲学発祥の地。ギリシアの植民市で、ギリシア文化の影響が比較的弱く、自由な気風。さまざな異文化が混在。ギリシア人は自然(世界)は神々により創られたと考えていたが、異文化の人々は別の神話(創造の物語)を持っていることに気付く。地域に関係なく当てはまる(神に頼らない)万物の根源(アルケー)を考え始める。水(タレス)、原子(デモクリトス)、数(ピタゴラス)、無限なるもの(アナクシマンドロス)、空気(アナクシメネス)。形而上学の出発点(原型)。
プラトンによれば、人間の魂は天上界にいたものが地上界に降りてきている。輪廻転生を繰り返している。永遠不変の本質も天上界にある。人間はそこで永遠不変の本質を見ている。地上界ではそれを思い出すことができない。正確な円や正義や美を理解できるのは、人間が永遠不変の本質をたまに思い出すから▼しかし、形而上学とは神秘的な天上世界の話ではないし、観念だけの世界の話でもない。形而上学とは何が存在すると言えるのか、物はなぜ物として成立するのか、原因・本質・実体とは何かを考えること▼事物の本質は、天上界にあるのではなく、事物そのものの内にある。事物の本質はそれが何であるかを表す「形」にある。コップの本質は水が飲めるその「形」にある。ちなみに、事物は形と素材で成り立っている。コップは水が飲める形とガラスという素材で出来ている。『Metaphysics(形而上学)』アリストテレスAristotle BC4世紀 (92)
〇エイドス。訳語「形相」。
〇ヒュレー。ものの素材。訳語「質料」。
神話、虚構の物語、語り伝えられたもの。ミュトス▼論理、理性、言葉、秩序。合理的な考え方。拾い集めるもの。ロゴス
五感によって得た独断的な思い込み(ドクサ)。理性を使って判断した客観的な知識(エピステーメ)。
観念主義。世界を形作るのは物質ではなく精神。人は天上界でイデアを見ている(プラトン)。自我は知覚の束(ヒューム)。世界はモナドで出来ている(ライプニッツ)。宇宙は精神をもった1つの生命(シェリング)。精神が歴史を動かす(ヘーゲル)。
物質主義。世界を形作るのは精神ではなく物質。万物の根源は水(ターレス)。世界は原子で出来ている(デモクリトス、エピクロス)。生産関係が歴史を動かす(マルクス)。世界は物質でできている(自然科学者)。
多くを知ることよりも、多くを考えることに専念すべき。デモクリトス
哲学、政治、詩、技術。並外れたところを示した人間はすべて憂鬱症である。『問題集』
物体を分割していくと、それ以上分割できない単純な実体(モナド)に行き着く。モナドは大きさを持たない、形を持たない、部品を持たない。物質ではなく、知覚する点。それぞれが独立した「視点」あるいは「表象の中心」として宇宙全体をそれぞれの仕方で映し出している。一つの宇宙を無数の視点から見ている。実在の基本単位は「物体」ではなく「視点・表象」▼モナド同士は相互作用しない。心が身体を動かしているわけではない。それにもかかわらず世界が秩序立って一つの整合的な現実として見えるのは、神があらかじめすべてのモナドの状態を完全に調和させて創造しているから。人間は神=自然の必然的法則として、自分の本性に従って必然的に行動している。人間の選択は原因の連鎖の結果ではない。別の行為も“できたはず”という感覚は錯覚▼現実世界は無数の可能世界の中から神によって最もよいものとして選ばれたもの。私たちが生きている世界には偶然や不完全さが見えるとしても、それは全体としての最善性の中に位置づけられている。絶対的な善悪は存在せず、神の視点からはすべて必然。神は介入する存在ではなく最適化された初期条件▼宇宙は物質の集合としてではなく、無数の視点的存在がそれぞれ宇宙全体を表象し、それらが神による調和によって一つの世界として成立する。ライプニッツ『モナドロジー』1714 -
Posted by ブクログ
再読。
プラトンとかアリストテレスは、高校の頃に適当にざっと読み流して済ませてしまったのだが、近現代の哲学書もある程度読んできた現在、あらためてこれら「基本図書」を読み返してみると、どうだろう。ことに哲学書に関しては、読むことに終わりはなく、すべてを何度でも読み返し、考え直していくのが正しいやり方だ。
紀元前4世紀頃に(散逸した形で)著されたこの本は、西欧哲学の起源を示す基本中の基本図書というべきものだ。近世以降のヨーロッパの思考は、アリストテレスの諸著作、特にこの本を読み解くことからスタートしたのだと言ってかまわない。いま読み返してみて、そのことを改めて痛感する。「西洋哲学」なるものの特徴的なものはこの本にすでに十全に現れている。
ただし、こんにちの我々から見て拍子抜けするような部分もある。たとえば、「火」を元素と考えたり、「運動」の原因をさかのぼっていけば「最初に動かした者」が存在するはずだと推論したり。私たちの科学的常識や常道の論理からはちょっと離れた部分が古代哲学にはあるのだが、これは言語体系も文化も時代もまったく違うのだから、そういうところもあろう、としか言えまい。
しかし私はやはりウィトゲンシュタインやウォーフの言うように、哲学・思想なるものは当該文化内部の言語体系に依拠しており、それに沿って概念の説明を懸命にやっているだけのように思えてならない。時代の言語体系の内側で、概念を明確化・ないし再生産すること。アリストテレスがやっているのもそういったことのように見える。
この本でアリストテレスは智恵の使命として「ものごとの第一の原因や原理を探究すること」をうたった。
しかしその「原因」とは何か? 哲学者の思惑とはまったく別の方向から自然科学が新たな原理を発見していくとき、哲学の意味として何が残りうるだろうか? -
Posted by ブクログ
なんとか、なんとか通読しきった。
寄り道、道草、遠回り、ゆっくり回ってきたとはいえ、まさか2年もかかるとは思わなんだ。
プラトンの『国家』から一足飛びに弟子アリストテレスへと進んだが、アリストテレスが記した膨大な記録・著作のうち、これが頂点であり集大成である。(より厳密にいえば下巻がハイライトであろうが。)
従って、本書の前に、『アリストテレス全集』を一通り読んでおくくらいのことをせねば、アリス氏の言わんとしていることはつかめようもないだろう。
具体と抽象という概念がある。
具体は、例えば人間だとか、ライオンだとか、犬といった個物だ。
そしてそれらを包括する、「哺乳類」という概念がある。
この上位概念が、抽象にあたる。
爬虫類だとか、鳥だとか、そうした別の抽象概念をまとめて、「動物」になる。
しかし「動物」という、生き物が個別にいるわけではない。
まぁこうした、抽象的な話を、乗算して煮詰めに煮詰めたのが本書と言っていいだろう。
人間どころか、数字、言語、天体、神、音階、建築…
そうした個別具体をまとめた、先にある抽象概念を、もう一段上の段階でまとめて、更にその上の抽象から、「この世の本質とは何か」を突き詰めていく。
この形而上学では、既にまとまった抽象概念をこねくり回してより上位の「実体」(ウーシア)を導き出そうとする段階のものであるから、初っ端から悉く抽象的で、とかくイメージが付きにくい。そりゃそうである、抽象とは形のない概念であるから、イメージ=図像など得られようもない。
可能性として、あらゆる数字が収まり得る、代数のxやらyやら。
こうした抽象を、数学では論理で計算していく。
アリストテレスも、様々な主張を矛盾律など論理で反駁し、消去法で別の可能性を潰していく。
この数学、弁論術などに秀でた彼だからこそ、膨大な知識を統合して捌けるというものだろう。
数学がアキレス腱である私には望むべくもない。
良い本は様々な読み方が出来るものであるらしい。
本書の場合、一つは、「実体(=本質)」を徹底的に追い求める探求の書であるが、通底して刺さっている串は、アリストテレスの師、プラトンへの批判である。
「感覚的に知覚できるこの物体と、その本質が離れているという主張は納得できん!」というわけである。
人間を形容する、エイドスに本質があり、それが人間とは別に存在するというが、
本質は知覚可能な質料と離れてはいないはずだ。こうしてプラトンのイデア論は却下される。(あくまで私の理解である。)
タレスから始まり、あらゆる過去の学識者の意見を総合し、論理的に批判し、最上の結論を導き出す。
そして完膚なきまでに、師を乗り越えようとしているのである。
この道筋を忘れずにいると、結構ついていける。
元々難しいこのテーマを当時の文化や概念を知らぬ現代人が読もうとするという高難度な課題を、今となっては馴染薄い語り口の訳文で読むのだから鬼畜である。
古代ギリシャ語を翻訳した訳者、井隆氏には脱帽だが、しかし苦しい。
正直なところ、なんとか読み通せたというだけで、論拠をきっちり消化できたかというと自信をもって否と言える。消化不良も甚だしい。
とりあえず、主張の大枠と、彼の意図や文体の癖はつかめた。
内容の重厚さ、高尚さ、影響力、全て満点であるが、如何せん飲み下しにく過ぎる訳と、不完全燃焼さも相まって、失礼ながら★3とさせていただく。
下巻に進む前に『アリストテレス全集』のカテゴリー論・命題論辺りに目を通しておくつもりだが、最も美しいとも称されるアリストテレスのフィナーレを楽しめるかどうか、見ものである。他人事の如きとなるが。
いざ。 -
Posted by ブクログ
[α,Α,Β,Γ,Ε,Ζ(1,3,8),Λ(6,7,9,10)]
古代ギリシアの哲学者、プラトンの弟子にして、「万学の祖」とも称さる、アリストテレス(前384-322)による形而上学の古典。ここで展開されている存在論が、中世キリスト教世界に於ける支配的な思考枠組みたるスコラ哲学の基礎となる。
□ 自己関係性
或る哲学者が「人間/世界は○○である」と論述する当の哲学体系の内部に於いて、「人間のうちの一人である/世界の一部である当の哲学者が「人間/世界は○○である」と語ること」の可能性が自己正当化されていなければ、哲学体系として全く土台を欠いた不完全なものである。哲学者が哲学体系を語る(超越)という機制を、当の哲学体系が予め保証している(内在)ような、自己充足的な、その意味で自己関係的な体系でなければ、哲学体系として自己の正当性を主張することができない。
例えば、「「純粋理性批判」の内容は是か非か」という問いが、「純粋理性批判」に則って吟味されたとき、それが理性の弁証論に於ける"純粋理性の二律背反(antinomie)"とならないことを、当の「純粋理性批判」は保証しているか/保証し得るか、そうした保証を予め自己の内に含んでいるか。もし保証し得ていないとするならば、哲学体系「純粋理性批判」は自己否定的であることになる。「純粋理性批判」自体が「純粋理性批判」の正当性を自ら否定していることになる。
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アリストテレスが展開する形而上学・存在論も、そうした観点から検証されねばならない。
そもそもアリストテレスにとって形而上学=「第一哲学」とは、あらゆる存在者に共通であるところの「存在する」ということの第一原理=第一原因を究明する学のこととされる。アリストテレスによれば、プラトンの唱えたようにイデアが個物から分離して別の世界に存しているのではない。世界のあらゆる事物は、質料(基体)と形相(本質)の結合体(個物)であり、始動因と 個物それ自体に内在する形相因・目的因と によって可能態としての自己の内なる形相が生成・転化して、そのつど不完全ながらの現実態をとりながらも、自己に内在している形相=本質=目的の十全なる実現へと向かっていく。その運動の第一原因にしてその最終目的は、形相が完全に現実化した純粋に形相のみであるところの実体、自らはもはや如何なる質料[可能性]ももたず如何なる意味でも可能態ではないがゆえに不動の実体、自らは動くことなく他の全てを運動させる「不動の動者」=「神」=「最高善」である。
そしてこの「神」の思惟は、「自体的な思惟」「思惟の思惟」とされ、思惟者と思惟対象とが全く同一な「純粋思惟」を為すとされる。またこの「神」は、「世界に内在する秩序そのものの原理」であると同時に「世界を超越して秩序化する原理」でもあるとされる。こうした「神」(の思惟)の在りようは自己関係的であると云える。こうしたアリストテレスの思想は、後世のヘーゲル哲学(『精神現象学』『エンチクロペディー』など)にも影響を与えていると訳者は云う。ではアリストテレスは、自己の形而上学を展開できることを、当の形而上学の内部に於いて論証できているか。ちょうどここで述べられた「神」のように、自己の思惟[当該形而上学]を対象にした思惟を展開したか、その思惟行為それ自体が自己の思惟の内に含まれるような形で。少なくとも、本書の中にはそうした観点で論じられている個所は、残念ながら無い。哲学体系に自己充足性を要求する意識が無かったのだろう。
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出隆の訳者解説ならびに訳者注は、本文の理解にとって大変助けになる充実したものだ。