金子大栄のレビュー一覧
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ネタバレ浄土真宗の開祖・親鸞の弟子である唯円によってまとめられた、親鸞の言っていたことをまとめた前半10章、後半は親鸞没後に浄土真宗内で乱立する間違った解釈を正す
ため、陥りやすい間違いをまとめている。
なによりも、親鸞のラディカルさを感じる。
短い経典ながら、強いコンセプトがいくつか。
・悪人正機(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや)
努力する→善人であるから救われる、といった公正世界仮説に似た直観にもとづく認識から転換、それはあらゆる人を救う阿弥陀の本願とは違う。悪人(=あらゆる煩悩を抱えた人=わたし)だからこそすくってくださるのだ、善人ならばなおさら。
仏教を救済型の宗教に変えた法然の -
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あまりにもモダンな考え方で衝撃を受けた!
歎異抄は親鸞(1173-1262)の教えを直弟子の唯円がまとめたと言われる書。親鸞の没後作られた。親鸞の教えをやさしく説明したもので、大きく分ければ前半が親鸞の言行録、後半がそれに対する唯円の解説となっている。
わたしにはどんな宗教に対しても信仰はなく、他力本願という言葉くらい聞いたことはあるけれども…… 「他力本願なんて、なんてテキトーで安易な教えなの。修業するとまではいかなくても、生活に気をつけるとか、よいことをするとか、そういうのはないの?」というふうに考えていたけれども、ぜんぜん違った。
ここからはわたしの読み。
「他力本願」とは、簡単 -
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今ではウェブ上に様々な現代語訳の歎異抄をよむことができる。本書が出版された昭和33年当時も「現代語訳の優れたるものが続出している」とのことで、本書はあえて解題と解説のみ付したスタイルとなっている。歎異に書かれた思想が時を選ばず読まれていることを感じた。
近代につまずく時、人はたびたび親鸞を参照する。時にイエスと似通いながらも対峙する煩悶者として。時に西洋哲学に対する日本的思想の強靭な代表者として。現世における価値判断の欺瞞性の暴露や、近代的教育ではありえない絶対的な他力本願は、西洋思想に比する風格があると見なされてきた。
自らが内包する根元悪に対してどうしようもない絶望を感じ、それでも己の弱い -
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念仏唱えてれば救われるという通念が頭にあって、どうしても胡散臭く感じて手を出せずにいた。
ところが、親鸞のことばというものはそういうものでは決してなかった。彼のことばというものは、決して教えだとかそういう指導的なものでは決してなく、彼が思惟することで知ってしまった驚きから発せられたものだった。
念仏をひたすら唱えてれば救われるだなんて、彼は一言も言ってない。そんなの知らないとまで言い切っている。彼ならきっと、地獄に行ってもそこでも念仏を唱えているだろう。彼にとって念仏とは、それしかできないからそれをするより他ない、そういうものなのだ。
弥陀の本願という存在しない(知ることのできない)ものによっ -
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いい呪文がたくさんある(*^^*)
「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」
「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」
「とても地獄は一定すみかぞかし」
「善悪のふたつ、そうじてもて存知せざるなり」
「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
自分が悪人であるという実感に痛めつけられてどうしようもないころ -
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弟子の唯円が著した親鸞の言行録。「悪人なおもて往生す。いわんや善人をや」というあまりに馴染み深い一節がある。
歎異抄とは、「異論を歎く」とあるように、親鸞の教えに対するさまざまな誤解に応えたものである。
「阿弥陀に全て任せて良いなら努力もいらんよね」とか「念仏だけで良いわけねーだろ。修行が必要だろ」みたいな当時よくあった誤解について答えている。
ルターの免罪符の否定、教会信仰によって救われるといった考えと通底しているようで面白かった。
岩波の本作は逐語訳ではなく、大意と単語説明がある程度なので、細部までの理解は難しいが、親鸞の教えを知っていれば、細部に拘泥せず読み通すことができるだろう -
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親鸞を師とあおぐ唯円が、その教えに対する異説があるのを嘆いて書いたという『歎異抄』。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
いわゆる悪人正機説で有名な親鸞。
とはいえ、善行を積まずとも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで成仏して浄土に行くことができるという他力本願の思想は、当時においても違和感を持たれており、そうはいっても善行は大事だよね、というような他力本願思想の徹底さを欠く異説がたくさん出ていたという。自分がまさにその言葉を聞いたときに持った違和感は時代を越えておそらく多くの人が共有するものだろうし、そういった反応があったという状況は容易に想像できる。親鸞はその他力本願の思想の