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数多い仏教書の中でも「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といった『歎異抄』の文言ほどわれわれに耳近いものはあるまい。親鸞滅後、弟子唯円が師の言葉をもとに編んだもので難解な仏典仏語がなく、真宗の安心と他力本願の奥義が、和文によって平易に解かれている。段ごとに大意を付した。
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Posted by ブクログ
他力本願の本質を教えてくれる書物である。人間の持つ社会性について考えさせられた。仏教が高度な哲学を持つようになってしまい、民衆から離れていき、そのような中で生まれてきた新しい仏教の形なのであろうか。
21世紀の言葉で言えば、浄土真宗は『インクルーシブ』だなぁ、と言うのが第一の感想。 庶民に広く親しまれた理由がよく分かる。 (当然だけれど)日本史の中でもトップレベルの名著、古典。一文一語の重みが凄まじい。 歳を重ねる度に、この本の奥深さが分かっていくんだろうなあという生への"悦び&quo...続きを読むt;も感じられた。
あまりにもモダンな考え方で衝撃を受けた! 歎異抄は親鸞(1173-1262)の教えを直弟子の唯円がまとめたと言われる書。親鸞の没後作られた。親鸞の教えをやさしく説明したもので、大きく分ければ前半が親鸞の言行録、後半がそれに対する唯円の解説となっている。 わたしにはどんな宗教に対しても信仰はなく、...続きを読む他力本願という言葉くらい聞いたことはあるけれども…… 「他力本願なんて、なんてテキトーで安易な教えなの。修業するとまではいかなくても、生活に気をつけるとか、よいことをするとか、そういうのはないの?」というふうに考えていたけれども、ぜんぜん違った。 ここからはわたしの読み。 「他力本願」とは、簡単にいえば「阿弥陀仏を信じてひたすら念仏を唱えれば誰でも往生できる」ということで、やることといえば念仏を唱えることしかない。 やること自体は誰でもできて、断食とかもなくて簡単そうだが、実はこの“信じる”がポイントでかつ、究極的なクセものだ。 わたしの理解では「信じた」とか「理解した」とか言葉でいえる程度ではぜんぜん信じたことになってなくて、もう疑問にすら思わない、自分にとって常識化して、意識して思い出そうとしなり考えたりしない限り意識に上ることもないくらい、いやそれよりも上だな、二度と意識に上ることはないくらいにまで、“信じ切る”必要があるということを、親鸞は手を替え品を替え繰り返し言っている。 なにを信じるの? まあ表面上は「阿弥陀仏」ということになるんだろうけれども、おそらくそうじゃない。こういう言い方をすると自力──他力の反対。自分の意思で何かをおこなうことで、親鸞は自力の信仰を全面否定している──が混ざるので言い方が難しいけど、抽象的には「死後の世界は怖くない、もしくはどうであっても少なくともいまの自分に理解できることではないから、この世に生きるあいだはこの世で生きていること自体に完全な信念を持て」ということなのではないだろうか。 つまり、あなたが多少なにかで失敗したとしても、悪い事をしてしまったと思っても、そういうのをいちいち悔やんではいけない、死後の世界を気にかけるよりもいまが大事で、いまを生きていればその先は勝手についてくる(というか導かれる)、ということを完全に信じて、そのように生きなさい、と言っているように思える。 なるようになるというか、ケセラセラというか。そういうのに完全に身を任せよと。 なんだそんなことか、そんな無責任でいいのかって思うけど、でもねえ、それを自分の人生で完全に実践せよと言われても、たぶん難しいだろうな。
今ではウェブ上に様々な現代語訳の歎異抄をよむことができる。本書が出版された昭和33年当時も「現代語訳の優れたるものが続出している」とのことで、本書はあえて解題と解説のみ付したスタイルとなっている。歎異に書かれた思想が時を選ばず読まれていることを感じた。 近代につまずく時、人はたびたび親鸞を参照する。...続きを読む時にイエスと似通いながらも対峙する煩悶者として。時に西洋哲学に対する日本的思想の強靭な代表者として。現世における価値判断の欺瞞性の暴露や、近代的教育ではありえない絶対的な他力本願は、西洋思想に比する風格があると見なされてきた。 自らが内包する根元悪に対してどうしようもない絶望を感じ、それでも己の弱い心情として救われたいと涙ながらに執着するとき、人は「南無阿弥陀仏」を必死に唱えずにはいられない。これは絶望的な本願成就に対して絶対的他力以外にすがるものがない者たちのワラを掴む思いであり、また悪人こそ正機があるとするいわれである。 そんな状況におかれた者に対して歎異抄は語る。「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
念仏唱えてれば救われるという通念が頭にあって、どうしても胡散臭く感じて手を出せずにいた。 ところが、親鸞のことばというものはそういうものでは決してなかった。彼のことばというものは、決して教えだとかそういう指導的なものでは決してなく、彼が思惟することで知ってしまった驚きから発せられたものだった。 念仏...続きを読むをひたすら唱えてれば救われるだなんて、彼は一言も言ってない。そんなの知らないとまで言い切っている。彼ならきっと、地獄に行ってもそこでも念仏を唱えているだろう。彼にとって念仏とは、それしかできないからそれをするより他ない、そういうものなのだ。 弥陀の本願という存在しない(知ることのできない)ものによって、この自分という存在が裏付けられてるというこの恐るべき逆説を知った時の彼の驚きは、カミュと異なり、反抗という形をとらず、信じるという形をとる。 自力・他力というのも肉体を指して、自分・他人というそんなちっぽけなものでは決してない。ひとは自分以外の何者にもなれない。この自分という存在なしには何も始まらない。念仏を唱えるのだって自分がいなければできない。人間の成すことはどこまでいっても自力なのだ。しかし、この自分という存在は、どうやっても自分ではない何かがなければ存在しえない。なんだこれは。この存在するはずのない存在に気付いてしまった以上、すべてが自力だと疑いえないのに、この存在がつきまとって離れない。知ることから考えることが起こる。ぽっかりと空いた宇宙に親鸞は投げ出されたのだ。 そして、この信仰はキリスト教の主が見せる熱情や怒りからくる畏れではなく、弥陀の悲しみから来るものだ。「甘え」と言ってもいい。だから、彼の信心はまるで弥陀に対して五体投地をせんばかりの強い力なのである。そうして彼は問いを問いとして生きることにしたのだ。弥陀に願をかけられる宿命として生きたのだ。念仏はそんな弥陀に縋り付く子どものようだ。 往生とは、どこかここではないあの世に生まれることではない。往生とは、弥陀が弥陀であること、理想が理想であることによって本願は実現しない。生きている限り死ねないことと同様に。だから、死ねと言っているのではない、死んでは本願は現実に実現されないからだ。本願は生きている人間にかけられたものだから。往生とは実現不可能なものによって実現を裏付けられてる。どうもこういう逆説的なものであるのだ。 そういう本願に支えられた人間の生だから、考えるということ、感じるということは人間に分け隔てなく与えられたものである。すべての人間が救われないというのはありえない、というのはこういうことなのだ。 善人なおもて往生というのは、自分で悪いと思うことはしないという当たり前を言っている。ひとの行うことは自分で善いと「思う」ことだ。この点で人間が行うことは無自覚に等しい。これが自力というものだ。 善は善だし、悪は悪というものすごく当たり前の話なのだ。 ところが真に悪人というのは、悪いと気づきながらも行動する、つまり悪いということに気付く存在がいるのだ。この瞬間に自分ではない存在に悪人は善人では気づきえないことを「知って」いるのだ。往生できないわけがない。善も悪もそれを善や悪とわかる存在があってのものだ。そうであるなら、この善や悪を知っている「この」存在は、善悪を包含・止揚した存在であるはずだ。この存在がなすことが善か悪かなんて、もうわかりようがないのだ。すべてが弥陀の本願によって許されている。そんな存在であるから、千人殺すことが逃れられない宿命とならば、せずにはおれないというだけの話だ。善く生きられねば死なねばならぬというソクラテスと同様に。 親鸞の場合には、念仏を唱えるということが善く生きることだった。ひとを殺したり、自ら世を嘆いて死んでしまっては、念仏を唱えられないし、弥陀の本願に気付き、念仏を唱えられる可能性のあるこの衆生を減らしてしまう。だから、しないのだ。だが、彼のように心から祈り念仏だけを行えるひとはそうそういないわけで。 真宗の教義書を読んだことがないのでわからないが、親鸞のこの信じて念仏を唱えよというのは、表面的なわかりやすさや、やりやすさが前面に出てしまい、弥陀の本願という存在に対する驚きへの気付きを体系化できなかったために、誤解されるのだ。 知らなければ経典をひもといて知ればいい。経典を読めなければ、とりあえず、念仏を唱えてみればいい、そうすればきっと気付くはずだ。彼がひとに求めるのはそういうやり方だ。各々、出来ることを各々やればいいと言っている。念仏か教義かなんて話ではない。 この点、禅というものは、そんなものをわけるなんて面倒くさいしややこしさを生むのだと一蹴したのだと思う。
いい呪文がたくさんある(*^^*) 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」 「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず...続きを読む、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」 「とても地獄は一定すみかぞかし」 「善悪のふたつ、そうじてもて存知せざるなり」 「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」 自分が悪人であるという実感に痛めつけられてどうしようもないころに目にした「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」という言葉。光って見えた。 「日月を切り落し、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。我輩は死ぬ。死んで太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」(『我輩は猫である』より)
これが一番薄くて良いです。「善悪はこの世の都合」みたいなセリフは、並の人間ではなかなか言えるものではありません。
唯円(1222-1289)の著。1300年頃刊。浄土真宗の開祖親鸞の直弟子である唯円が、親鸞の没後、真宗に対する諸々の誤解を払拭すべく、親鸞の言葉をまとめている著である。本文自体は非常に短く、すぐに読める。原文に加え、十分な解説が列記されていて非常に分かりやすい。「絶対他力」「悪人正機」「自然法爾」...続きを読むといった真宗の教義が非常によく分かる名著である。岩波文庫の売り上げランキングにおいても上位に位置しており、多くの人々に読み継がれている名著である。
弟子の唯円が著した親鸞の言行録。「悪人なおもて往生す。いわんや善人をや」というあまりに馴染み深い一節がある。 歎異抄とは、「異論を歎く」とあるように、親鸞の教えに対するさまざまな誤解に応えたものである。 「阿弥陀に全て任せて良いなら努力もいらんよね」とか「念仏だけで良いわけねーだろ。修行が必要だ...続きを読むろ」みたいな当時よくあった誤解について答えている。 ルターの免罪符の否定、教会信仰によって救われるといった考えと通底しているようで面白かった。 岩波の本作は逐語訳ではなく、大意と単語説明がある程度なので、細部までの理解は難しいが、親鸞の教えを知っていれば、細部に拘泥せず読み通すことができるだろう。
親鸞の口伝の教えを弟子の唯円が門徒のためにまとめたもの 。師の存命中に異端論争が起きることから、真宗とは難解なものなのでしょうか。また、この書が明治の世まで秘されていたことは、どういう理由なのでしょうか。なんとも、不可解なテキストです。
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