大塚久雄のレビュー一覧
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最も有名な古典の一つ。近代資本主義がどのように出現したか、何にドライブされて形成されてきたかをマックス・ヴェーバーが解き明かした一冊。
ヴェーバーによれば、近代資本主義の勃興を促進した心理的起動力はキリスト教的禁欲主義だった。
ルッターによる宗教革命の際、はじめて「天職思想」(世俗的職業の内部における義務の遂行こそが最高の実践道徳であるという思想)が打ち出され、これが以後のプロテスタンティズムの中心的意義となった。
これがキリスト教的禁欲主義と結びつく。つまり、外物への執着や金銭を追求する欲から自分自身を忌避させる方法として労働を推奨した。またカルヴィニズムにおける「予定説」もこの思想を強化することになった。
しかしウェズリーが言ったように、キリスト教的禁欲主義は強大すぎる富の欲に対して無力過ぎた。宗教的熱狂が過ぎるとやがて功利営利主義がこれに成り代わることになった。
資本主義の終焉が声高に叫ばれこれに代わるシステムが模索される現代において、資本主義を促進してきた心理的圧力について再認識することは重要なことかと思う。ヴェーバーが生涯を掛けた宗教比較学の起点となった本書はそのための非常に有益な一冊。
古典特有の読みにくさがあり内容自体は難解ではあるが、巻末の訳者解説が丁寧で分かりやすい。一度こちらに目を通してから本文を読んだ方が理解にやさしいかと思う。 -
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カトリックの国でもギリシャ・ローマでもなく、仏教の国でもなく、なぜ資本主義はプロテスタントの国から発生したのか?神の栄光のために禁欲的に、勤勉に生きる人々が結果として、富を蓄積し、その生き方が資本主義を発展させる流れに強く結びついたからである。
マックス・ウェーバーの名著で、以前、小室直樹氏の書で感銘を受け、いつか読んでみたいものだと思っていたが、ようやく実現できた。学生時代は社会学を学んでいたにも関わらず、こういう名著に触れることなく、勉学としては無為に時間を過ごしてしまった。これからの後半生、なるべく多くの名著に、少しでもいいから触れていきたい。 -
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非常に難解。
本文読む→訳者解説読む→本文精読→注釈も合わせて精読 が良さそう。
資本主義の精神の促進を担ったのは、実は営利的な精神を批判する、キリスト教(特にプロテスタンティズム)の禁欲的精神だった。
しかし、資本主義はキリスト教精神の賜物とまで考えるのは拡大解釈である。(私も読前には、本書は上記のことを言ってるものだと勘違いしていた)
そして、「歴史的にキリスト教的基盤を持ち得ない地域(例えば日本)でも資本主義は成立しているから、ヴェーバーは間違っている」との批判も当たらない。
なぜならば、本書最終章でヴェーバーが述べるように、キリスト教的禁欲精神が資本主義の社会構造を強固なものとしてしまうと、今度は資本主義の社会構造が逆に世俗内的禁欲を外側から強制するようになったからである。
つまり、資本主義の社会構造が進むにつれて、資本主義というシステムと宗教精神の関係は薄れていき、近代資本主義が確立される頃には「資本主義の精神」は忘れ去られ、それらを元にした行動様式のみが残存するにいたったのだ。
日本や他のキリスト教圏外の地域に持ち込まれた資本主義の構造は、既に宗教の影響を逃れた、確立された近代資本主義だったと考えられる。
個人的に、ヴェーバーが最終盤で語る、「資本主義か最終的にたどり着くであろう世界」の叙述に感銘を受けたので最後に引用しておく。
「禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるととも に、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、 あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、 圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人 ―直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく― の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう」(本書、267頁)
「バックスターの見解によると、外物についての配慮は、ただ『いつでも脱ぐことのできる薄い外衣』のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。 それなのに、運命は不幸にも この外衣を鋼鉄のように堅いとしてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ」(本書、268頁)。
「今日では、禁欲の精神は最終的にか否か、ー誰が知ろう―この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。・・・ 『天職義務』の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。そして、『世俗的職業を天職として遂行する』という、そうした行為を直接最高の精神的文化価値に関連させることができないばあいにもあるいは、逆の言い方をすれば、主観的にも単に経済的強制としてしか感じられないばあいにも今日では誰もおよそその意味を詮索しないのが普通だ」(本書、268頁)。
「こうした文化発展の最後に現われる『末人たち』 にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と。」(本書、269頁)。 -
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社会学は多元論。〜宗教、経済の因果は単純ではない〜
■所感と評価
ウェーバーは多元論を用いるが単純化しないと理解難しいので、あえて単純化すると「天職を全うするという倫理が世俗内に広まった結果、富の蓄積につながり、皮肉にも営利主義→資本主義の精神を生んだ」と強引に解釈できる。ただこれだと語弊があり過ぎるので、様々なキーワードの定義とそれらが生まれた背景と与えた影響を丁寧に見ないといけない。
そもそも我々は戦後のパラダイムやレジームが当たり前の様に感じるが、歴史で見るとまだまだ浅く、今後新しい概念が何から生まれるかは非常に複雑であり、単純にVUCAや情報化社会といったことからだけでは予測できない。まして16〜17世紀の宗教改革が資本主義精神を生む"一翼を担った"(あくまで一要素)のは誰も想像できなかっただろうし、そもそも資本主義という概念すら当時はなかったはず。
★すぐに役立つ知識は皆無でまさに教養。イージーカムイージーゴー。時々あえて本書の様な役立たないが世の本質をあらゆる角度から切りまくる本を読むことで、本質は何かを抽象的に考える力を身につけていきたい。
非常に読みづらい。もう少し簡単な言葉で訳してくれたらいいのに、と思いつつも正確にウェーバーの意図を汲むとこうなるのだろう。訳者解説が非常に丁寧でわかりやすいので、①ざっと全体読む→②訳者解説→③精読すると理解が深まりそう。
おそらく内容的には最高の古典なのだが、いかんせん理解が難しく評価は普通となった。
■概要 〜めちゃくちゃざっくり〜
・カトリックには世俗内的禁欲はなく、修道主義の様な世俗外的な禁欲。ここで言う禁欲は何かを控える修行僧的なものではなく、ひたすら何かに打ち込む"行動的禁欲"。
カトリックの修道的な考えだと「祈り働け」が有名。
・それがルターの訳や宗教改革によって天職という概念となって表れるのだが、ややこしいことにルター派の禁欲はまだプロテスタントの倫理に直接は影響しない。
・その後のカルヴィニズムやピュウリタズムの中で天職やら世俗内的禁欲が広まることで、働く→富が増える→でも浪費しない→ますます富む。これが資本の蓄積を生んだ。
・やがて(ここが飛躍してるように思えるが、自分の中で説明できていないだけで、ちゃんと書いてあるんだろうけど)近代資本主義がいよいよ外から、ー上記の倫理(エートス)からくる行動は「内面的」ー資本の蓄積と消費ではなく再投資を促すことで、Protestantismの倫理や資本主義の"精神"なるものを必要とせず、ただただ近代資本主義的な行動が残ったのだという
・マルクスの唯物史観とは一線を画すものの、唯物史観批判のために書いたというのは的外れの論評。ウェーバーは多元論(ゆえに注釈が多い)を駆使しつつ、その中でもプロテスタントの倫理・エートス、天職観念に着目しただけ。資本主義の精神を宗教改革に見出した、という単純なものではない。(だから話が複雑) -
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ネタバレ世界史や思想史で頻繁に言及される本書。高校時代や予備校で耳にしたことがある方も多いと思います。で、その趣旨たるや、「天が授けた過分の賜物。この賜物を用いて天職を全うし蓄財することこそ神の栄光に適う行為である。そしてこのエートスこそ、近代資本主義の一因となった。」
こんな感じだと思います。
私は、まっさらな状態から本を読みだすというより、本当に上記のようなことが書いてあるのかな、と探り探り読んでいく形のアプローチをとってみました。
その点で結論を言えば、大体書いてあった。こう言えると思います。
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その中でも、本書での一番の出色は、資本主義の発展(「お金」)とプロテスタントの倫理規範(「清貧」)という、いわば逆説的な二つの概念が実は通底する、というダイナミズムだと思います。
カトリックでの修道院出家生活と世俗の生活(プラス贖宥状で罪を拭う)という二分法的分類ではなく、プロテスタント各派の世俗内倫理の徹底と「天職(Beruf)」という職業倫理との徹底という世俗一元的な在り方との違いはきっちり書かれていたと思います。つまり、プロテスタント的生活においては、神様のために慎ましい生活をする(節約する)、そして神様のために仕事頑張る(「天職」)、その結果お金溜まる、と。いわゆる在家においても清い生活を実践することで神への道を全うする。
この命題を明らかにすべく、詳細な宗派分析とプロテスタント文学からの例証がなされています。ルター派、カルヴァン派、メソジスト、長老派、クウェイカー等々。
このあたりの詳細はキリスト教の勉強の足りない私にはちんぷんかんぷんでした。そう、本書のダイナミズムを味わうためには神学、わけても聖書理解が必要だと思い知りました。そもそもプロテスタントの宗教改革は、誤解を恐れずに言えば聖書主義から始まったことを鑑みれば、その聖書の基本的理解がなければ本書の理解もおぼつかないと言えると思います。新訳も旧約も適当にしか読み込んでいないと本当に厳しい。
あと、プロテスタンティズムが蓄財と結びついていた点はわかりましたが、近代資本主義の発展とどこまで結びつくかについては通読一回だけではよくわかりませんでした。つまり事業の拡大や発展・再投資についての分析はあまりなかったかのように思いました。
本書の主張に沿えば、再投資や事業拡大も神の意志に沿うべきなのですが、プロテスタントがその再投資の方針・分量などをどのように判断したのか気になりました。
ただかすかに最終段で、米国について、世俗の禁欲的倫理が忘れ去られ職業倫理が残ったことがシニカルに描かれていました。
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久しぶりにドイツ系の思想本を読みました。
実に読みにくい。そして、注釈が長い!注釈に大事なことが書いたり、批判者に批判返ししてたり笑 訳者の大塚氏は相当頑張ったのだと思います。原文は見ていませんがそう感じました。
哲学、社会学、宗教学、神学、ドイツ文化、キリスト教等々に興味がある方は何とか読めると思います。ただ、内容をよりよく理解するには聖書の通読(新約・旧約あわせて)数回しておくとよいと思いました。私も聖書を読んだらまた読んでみたいと思います。 -
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禁欲(清貧・純潔・服従)を守りながら、勤労にはげめ。祈り、働け。『ベネディクトゥス戒律』539 ※モンテ・カシノ(伊の中部)の山の上にある修道院。
あなたが神に救われるか、救われないか。それは神によってすでに決められている(カルヴァン予定説)。あなたの運命はすでに決まっている。この世での善行は関係ない。儀礼(サクラメント)をしても救われる保証はない▼人は自分が救われるのか分からない。不安。孤独。自分は神に選ばれた人間だと確信したい。欲望を克服し、自然からできるだけ遠い地点に行くことができる。それは選ばれた(救われる)人間にしかできないはず▼禁欲に勤めよう。職業労働を頑張ろう。安息日以外は週6日働きづめ。富はあくまで神と自分との関係を示すしるしであり、欲望を充たすものではない▼享楽的な消費はしないのでお金が手元に残る。それを再投資して事業が拡大。利潤を最大化する最も合理的な方法を考える。近代資本主義を生み出したのはこうした精神▼しかし資本主義が発展するにつれて、神との関係・禁欲は忘れ去られ、営利・快楽の追求が目的となっていく。『倫理と資本主義の精神』1904 (95)
アメリカは多民族・多宗教であるが、アメリカで生まれて暮らしていると、個人の宗教とは関係なく、特定の信念・価値感(civil religion)をもつようになる。ロバート・ベラーBellah『Civil Religion in America』1967 -
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ネタバレライフワークやキャリアデザインという言葉がもてはやされている。少し違和感があったし、日本と西洋の企業の職務分担がどうしてこうも違うのか不思議だった。
本書では宗教改革により、腐敗した教会・修道院に反する立場から世俗の労働が尊重されるようになり、カルヴイニズムでは救済されていることを常に自己審査し証明するために労働が信仰の手段として組織化・合理化をたどった説く。
富の追求を目的とすることは邪悪だが、敬虔な労働に勤しんだ結果富を成すのは神の恩寵だという!
西洋の労働観がどのように生まれ資本主義に組み込まれ現在に至るのかその源流を紐解いてくれる。そしてアメリカでこの禁欲的労働観は救済の証明という宗教的・倫理的側面を削ぎ落とし強力な秩序を形成する。
大変興味深かった。さらに、世界でも異常なぐらい時間に厳しくもっとも成功した社会主義国と一時は呼ばれた日本は戦争に破れ文化的・伝統的指針から切り離された所に、アメリカからのプロテスタンティズムが真空状態で完全に宗教から切り離されて流れ込み、それゆえに資本主義国家として成功できたのではないかと思ってしまう。良質で勤勉な労働力を持つことに成功した、という意味で。 -
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「大塚史学」、当方が学生時代のときでさえ既に死語的扱いがなされていたように記憶するが、その後も同様では?
科学の特性の一つとして進歩が挙げられるとすれば、何も「大塚久雄の見方は古い」イコール価値無き考えではないはず。
どんな学問も先人の研鑽の上に成り立つものなのに、どうも社会科学(ことに経済学)は学問としての基本的振る舞いがもしかするとできていないのかもしれないな。
それはともかく改めて同著を読んで思ったのだが、ヴェーバーの方に軍配を挙げたくなるものの、(ヴェーバー自身も認識しているが)ヴェーバーの成果はマルクスの成果(というかその他多くの賢人の遺産)の上に成立している観点である。
つまり同著含めてここには連綿と続く科学の豊饒な果実が成っていると見て差し支えないかと思う。 -
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[ 内容 ]
自然現象とちがい、生きた人間の日々の営みを対象とする社会科学において、科学的認識は果して成り立つものだろうか。
もし成り立つとすれば、どのような意味においてか。
この問題に正面から取り組んだ典型的な事例としてマルクスとヴェーバーを取りあげ、両者の方法の比較検討の上に立って社会科学の今後の方向を問う。
[ 目次 ]
1 社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス
2 経済人ロビンソン・クルーソウ
3 ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって―アジアの文化とキリスト教
4 ヴェーバー社会学における思想と経済
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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ウェーバーとマルクスって書いてあるけど主にウェーバーの社会科学の方法について。
大塚久雄のウェーバー解釈の特徴は、ウェーバーとマルクスを相反する経済思想家と見るのではなく、両者に共通するものがあるとしている点にある。巷では「マルクスと対峙する」と形容されるウェーバーは、マルクスを批判することによってマルクスの見解を相対化しながら自分の立場に大きく取り入れていったのだとか。また、よくある「ウェーバーは宗教のみで世界の動きを説明しようとしている」というウェーバー批判をばっさり斬り、「宗教に焦点を当てているのみで宗教のみで説明しようとしているわけではない」とウェーバーを擁護し、その社会学における洞察力を高く評価している。
一番おもしろいのは3章の「経済人ロビンソン・クルーソー」のところ。「ロビンソン・クルーソー漂流記」はイギリスの資本主義勃興を象徴するような小説で、ロビンソン・クルーソーこそ「合理的経済人=ホモ・エコノメトリカス」であるとする解釈は本当におもしろい。実際、ロビンソンは無人島で囲い込み(=エンクロージャー)を行い農業や牧畜を行って富を蓄え、時の概念を忘れず、さらに貸借対照表までつけてしまうようなアダム・スミスが想定するような「合理的な」人間だったわけです。また、ロビンソンが貨幣の蓄積にはまったく興味がなかったということも歴史家の歴史解釈と一致する。そうそう。資本主義というのは現代社会に蔓延するような拝金主義ではなくて、禁欲的に労働にはげみ、労働それ自体を目的として献身したがために、偶発的に富の蓄積が得られたというキリスト教の隣人愛に起源をもつ経済システムである(ウェーバーの解釈によれば)ということを忘れるな。 -
Posted by ブクログ
大塚久雄が経済学の専門でありそこから社会科学を経済との関連で考えたものである。そこにはマルクスとウェーバーを基本的に考えている。講演を本にしたものであるから理解は容易なように書かれているが実はそれほど簡単ではない。マルクスとウェーバーについて全く読んだことがない学生にとっては理解が難しいかもしれない。最もわかりやすいところはロビンソン・クルーソーについてであるが、それもロビンソン・クルーソーの物語を読んだことがない学生にとってはちんぷんかんぷんかもしれない。「世界史の考え方}(岩波新書)で分析と推薦された本であるが、「世界史の考え方」と照らし合わせて読むのがいいのかもしれない。
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Posted by ブクログ
初の古典。とにかく日本語が意味がわからない。最後の解説から読めばよかったと読み終わったあとに気づく。
解説いわく、宗教的な強制的禁慾という精神が、本当の意味での資本主義を形成していき、最終的にな宗教的倫理観に基づく禁欲行動が形骸化してしまい、鉄の檻として、自分たちを資本活動に邁進させてしまっている。そんな分析をしている本だと分かった。
鉄の檻という言葉を使っているから、ヴェーバーは資本主義の活動自体を、生活を制限するものとして考えていたのかな?とか考える。
ただの漢字と平仮名に目を通す作業だったが、背景がわかったうえでもう少し読んでみても面白いのかもしれない