大塚久雄のレビュー一覧

  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    多くの経営者や言論人の必読書に挙げられているがゆえに購入してから10年。とっつきにくい内容のため、何度も読み始めては挫折。もはや、眠れない夜の睡眠導入本としていた。

    しかしエマニュエル・トッドの「西洋の敗北」が「プロテスタンティズムの衰退」をテーマにしていたことから、同時並行で読んでみたら非常に興味深い内容だった。

    資本主義は、商い・商人の活動の結果として発展・勃興したのではなく、プロテスタンティズムが求める禁欲的な労働規範があったからこそ現在の形になったとする。また、蓄財を宗教的に許容したことも大きな転換となったというような話や、夫婦間の性交渉の目的を子作りに限定する考えが推奨された話など、初めて知ることも多かった。

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    2026年08月07日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    エマニュエル・トッドの「西洋の敗北」と言う本を読んだ時にプロテスタンティズムが崩壊と言う表現がたびたび出てきたので、その大元となった本書を読んでみました。
    宗教改革を経て誕生したプロテスタントの倫理の流れ、予定説に基づいた神の恩寵を証明するために禁欲による労働が求められ、勤労による結果として利得の獲得が肯定されるまでの流れが理解できました。
    神の恩寵、隣人愛、労働で得た利得は個人の欲望のために消費してはならないと言う利得の追求が許されていた理由が消え去り、禁欲や労働の代わりに利得の追求だけが美徳として残った現代の社会は、確かにプロテスタンティズムの崩壊と言って差し支えない気がしました。

    近代の資本主義を牽引してきた人々の倫理が崩壊し、世の中の富裕層の人々の自分中心の行為を見るに、もはや資本主義は多くの人にとっては迷惑なものでしかないなとか、「働いて、働いて、働いて」と言うスローガンは日本経済復活のための行為としてあながち間違いではないのでは?なんて頭を過りましたが、今の世の中は当時の状況とは全く異なるのでやっぱりちょっと難しいだろうなとか、「残業するのは無能」「結果を出していれば良い」「ワイフワークバランスが大事」「それ私の仕事ですか?」と言う考えが出てくるのも、確かに現代に生きる我々には禁欲や労働をする目的がないからしかたないなとも思いました。
    少なくとも過去に資本主義を成功させた「正直は最良の商略」と考えたこの精神からは程遠く、残念ながらいまだに資本主義である社会の中から我々が利得を得ようとする時には、成功が難しい考えとも言えると思いますし、自分は少しでも社会や会社の仲間のために倫理的に行動しようなど、つらつらと思いながら読んでいました。

    また本書をより理解するためにプロテスタントの各宗派の成り立ちや特徴なども勉強できたのは良かった点です。

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    2026年05月15日
  • 社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス

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    講演を元にしたものだから平易な語り口である。さっき言ったことの振り返りもしてくれるから理解が進みやすい。

    1〜4章があり、それぞれが独立している。本のタイトルになっているのは1章のみであるけれども、他の章を読むことで一層ウェーバーが大切にした方法論、思考の基礎がわかるようになる。

    タイトルにあるようにウェーバーの著作の細かな論理を負うものではない。マルクスの経済学のやり方と比較しつつウェーバーの社会科学のやり方を解説するものである。まず体系的に基礎(簡単という意味ではない)から入りたい人にはおすすめである。

    マルクスとウェーバーが気にしているのは、社会現象を対象としたときに、自然科学と同じような認識の仕方が可能かというものである。
    マルクスは、生産しながら生きている個人たちの生産力が、自然発生的=無計画に分業されて総和となるときに、自然と同じように人間の意志から独立した自律的な領域となるから、経済現象も自然科学と同じような理論的方法が適用できると考える。そして、その他政治や文化や芸術などの諸領域は、経済という下部構造に究極的には制約されると考える。

    ウェーバーは、目的論的な動機の主観的な意味を解明することで、人間行動の因果連関を捉えることができると考える。

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    2026年03月08日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    読んだ時間
    大体3時間ぐらい。
    難易度は★★★☆☆
    岩波かつ訳は古いので、警戒して読みましたが、かなり読みやすいです。
    大塚久雄さんありがとうございます。
    プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神/マックス・ヴェーバー, 大塚 久雄|岩波文庫 - 岩波書店

    読み方
    今回は古本屋で購入したので、気になるところに書き込みを入れたり、ページを折ったりした。
    別の方法よりも一番引用の手間が少ないので、お気に入りのやり方。

    内容(私の理解なので正確ではない可能性が高いです。)
    営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。

    プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神/マックス・ヴェーバー, 大塚 久雄|岩波文庫 - 岩波書店
    マックス・ウェーバーは、利潤の追求を第一義とした近代的資本主義が、営利を求める経済倫理を持っていた地域(アジアなど)ではなく、そのような営利追求への強い忌避感を持つプロテスタントの地域で発達したことに着目した。

    なぜ、営利追求を厳しく罰するプロテスタントが、利潤追求を目的とする資本主義の発展に寄与したのか。

    それは、「救済の是非は職業努力次第」という強烈な教義が、人々や組織の行動様式を徹底的に禁欲的に、そして勤勉にしたからだ。勤勉で禁欲的であればあるほど、資本は蓄積される。資本が蓄積されると、更に大規模に事業を展開することができる。最終的には、社会の行動様式や生産方法、人間関係あらゆるものが合理化されていき、産業経営的近代資本主義が誕生した。

    近代資本主義が自律的に駆動してからは、本来の禁欲的性格は消え失せて、利潤追求へと人間を駆り立て、強いるシステムへと変貌した。

    感想
    非常に圧倒される読後感でした!無味乾燥な論文というよりは、劇的な叙述文と感じる部分も多くあり、震える読み応え。

    1.倫理的美徳はそれゆえに破壊されるという不可抗力
    プロ倫が指摘している「禁欲主義的性格を帯びたピューリタンが利潤追求の近代資本主義生誕に貢献した。」は大変見事で、鮮やかで、、、皮肉たっぷりです。

    現代でも「高尚な目標を持っている個人がその能力や勤勉さゆえに、資本主義から評価され、その大きな構造に巻き込まれる」ということは往々にして起こります。例えば最近のアメリカのビッグテックCEOとか。政治や世界をよくすると語っていたあの人が、今では資産運用と子供の学歴の話しかしない大人になっているとか。

    この問題意識は、近代資本主義の黎明期にもあったのか、という発見がありました。むしろ、今より宗教が強かった時代でしょうから、この宗教的な美的精神や感覚(質素、隣人愛など)が破壊され、荒廃していく様をみるのは、当時の宗教人にとって辛かっただろうと想像には難くありません。

    そして、プロ倫の中ではこの現象を不可抗力で止められないものとして描き出されます。最後の方が本当にドラマティックで身震いするほどだったので、是非読んでもらいたいです。

    ウェズリーは次のように記している。「私は懸念しているのだが、富の増加したところでは、それに比例して宗教の実質が減少してくるようだ。それゆえ、どうすれば真の宗教の信仰復興を、事物の本性にしたがって、永続させることができるか、それが私には分からないのだ。なぜかと言えば、宗教はどうしても勤労と節約を生み出すことになるしまた、この二つは富をもたらすほかはない。しかし、富が増すともに、高ぶりや怒り、また、あらゆる形で現世への愛着も増してくる。だとすれば、心の宗教であるメソジストの進行は、いまは青々とした樹のように栄えているが、どうしたらこの状態を久しく持ち続けることができるだろうか。….

    プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神/マックス・ヴェーバー, 大塚 久雄|岩波文庫 - 岩波書店
    大きな構造に飲み込まれていく悲哀、どうしようもなさ、やるせなさが、私には何だか魅力的に見えてしまいます。マックスウェーバーレベルの偉大な人でも、どんな人でも、みんな結局、大きな社会の変化の前では平等に無力です。

    私個人としては、この大きなシステムに巻き込まれつつも、少しでも抗えればと思っている立場なので、もっと資本主義の構造について知りたいと思っている所存です。

    人に対して驕らず美しい精神を保つためには、プロテスタントの信者が持っていたような絶対的な存在に対する無力感や謙虚さが必要なんだと思います。自分が成功できたのは、自分のおかげではなく、神のおかげ。そして、隣人愛を敷衍する普段の努力なしには、救済は確定しない。この考え方は、人間に謙虚さをもたらすと思うんですよね。

    日本社会では、神を信じている人はそこまでいないと思いますが、社会という大きな存在に自分が支えられていること、そして自分の生涯の評価は人への貢献によってジャッジされるということ。この思想があると、どんなに豊かになっても、謙虚で質素でおごり高ぶらない人になるんじゃないかなと思っています。難しいですけどね。

    2.来世を大事にする宗教的感覚
    本筋とはずれますが、本書を通じて宗教の信者の神を信じる理由がちょっとわかったような気がしました。
    無信教の自分にとって、信者の方々がどうして神に救いを求めるのか、何を考えているのかがあまり理解できていなかったんですが、大きなモチベーションは来世で救われたいということなんですね。

    プロテスタントの人がなぜここまで禁欲的になったかというと、救われるかどうかの自己確信がないからだそうです。来世の救済を目標とする世界観で、救われないかもしれないという不安は大きな動力になるに違いありません。

    日本は非常に現世志向が強い気がしていて、この来世という観点にはなじみがありません。そういえば、昔、イスラム教の人に「死後はどうなると思うか?」と聞かれたときに、面食らって何も答えられなかった経験があります。彼女はよく考えるそうで、自分と捉えている時間軸が違うようにも感じました。

    それにしても、彼らは常に死後どうなるか?そのためにどう生きればいいか?に日々思いを巡らせているってことですよね。それは、最期から自分の人生を逆算することや最期を意識して日々を生きることにつながって、よりよい生が送れそうに思います。逆に日々死を考えなくてもいい時代や場所で生きられていることにも感謝をいう必要がありますが。

    さいごに
    今後は資本主義の本をちょくちょく読んでいきたいと思っています!

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    2026年02月07日
  • 社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス

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    日本のマックス・ヴェーバー研究の第一人者である著者の講演録をもとにした名著。
    マルクス経済学とヴェーバー社会学の比較を通じて社会科学を考察する内容でもあり、ヴェーバーの宗教社会学のアプローチはもっと学んでみたいと思いました。
    特に、「ヴェーバーの『儒教とピュウリタニズム』をめぐって」の章で述べられる、ヴェーバーの両宗教の比較分析にはもの凄く興味をそそられる。
    儒教は世界の現状を肯定し尊重するが故に受動的な態度になり、近代資本主義を生み出すには至らなかったのに対し、ピューリタニズムは悲観主義のもと現世を否定するが故に、行動的禁欲という形で現世に強く働きかけ変革していこうとする大変な精神的エネルギーを生み出し、それが近代資本主義発展の原動力となった、という結論を導き出す視点には驚かされるばかり。
    また、「経済人ロビンソン・クルーソウ」の章では、「ロビンソン漂流記」における無人島での彼の行動は、まさに合理的経済人のそれであり、当時のイギリスにおいて合理的な人間形成の書という役割を果たした、という大塚先生の考察もとても面白い。
    約60年前の本ですが、いまだに読み継がれる価値の高い啓蒙書です。

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    2025年02月06日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    キリスト教を背景として論が進められる点、なるほどヨーロッパらしい視点だ、という感想です。特に天職の件と、禁欲倫理との結びつきの件は面白かったです。現在に通じる起源を見る感じがしました。

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    2022年08月30日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    現代がいかにキリスト教世界の理論を原理として成立してきたのかを理解できる。自身の世界の成り立ちと現代における社会に対する評価基準を再考できる。

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    2022年02月06日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    広義の資本主義は歴史上どこでもあったが、近代の資本主義は様相が異なる。昔は幸せに暮らせれば働くことは最低限に、という捉え方。今ではとにかく働くことが第一優先みたいな捉え方。自らの職種を天職と捉え、労働に勤しみ、合理的な手段で営利を獲得し、日々の生活では禁欲的な行動を促す倫理観、世の中の雰囲気、資本主義精神はプロテスタンティズムの倫理から生み出され、のちに近代資本主義社会のシステムが構築されると、宗教的な思想は排除されて、ひたすら営利を求める精神だけ残ったという話。

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    2021年01月31日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    今年は著者没後100年(1920年6月14日没)。

    これまでは、資本主義の歴史、宗教教示の諸相、近代社会についての著者の警鐘といった点に注目していたが、再読にあたっては”労働”や”日常生活”をキーワードにしたい。

    経済成長には、永続的な生産性向上や効率化が必要ならば、それは可能なのだろうか。否応のない技術革新によって労働環境が変わるとき、労働者ーそしてもちろん使用者および資本家ーの”精神”へどのような影響を及ぼすのだろうか。一方で、今日の技術革新は現代人の”精神”とどのような関係を見いだせるのか。
    そして、今においては”鉄の檻”はどのような姿をしているのだろうか。

    幾度となく一面的な社会考察を退けるよう呼びかける著者の声は、時代に真摯に向き合う最良の姿であると、これからも人生の指針にしたい。

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    2020年06月10日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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     本書を初めて読んだのはもう30年近く前のこと。少しは自分も成長したから感じるところに違いもあるだろう、と思ったが読後感は当時とほとんど変わらないものだった。すごく「綺麗」で「強い」本だ、という印象。しかも、一旦興奮が覚めた後には「しかしこれで本当に説明になっているのだろうか?」という、疑いが尾を引く感じもまた甦ってきたのだ。

     確かに美しい。神の思し召す「合理的」な目的に沿うよう勤労し禁欲すべし、というプロテスタンティズムの規範すなわち「目的」が、いつの間にかその規範自体の作動を強化するself drivenな起動力──すなわち「原因」となっているという「不合理」。目的と原因の転倒のみならず、理性が不合理の創出の起点となっているというメビウス的な循環が、強い目眩を引き起こす。この構造はそして堅強だ。合理性を超越したものは、そして超越しているからこそ、「正し」くはなくとも「強い」。この美しくも強い論理構造に、誰もが魅せられるのだと思う。
     また、ヴェーバーが、利潤の追求が単なる寛容の対象ではなく「天職/ベルーフ」として積極的に称揚されるまでに至ったかという「非合理性」の根拠について明らかにしていることについても、もちろん僕などが疑うべきところはない。世俗外禁欲が宗教改革で世俗内に転写された際、信者の生活全般における「行為主義」、世俗内部での清潔な職業生活が要求された。とりわけ脱呪術化を推し進め、「恩恵による選び」すなわち「予定説」を提唱したカルヴァン派においては、恩恵を得るべく神の意思たる「合理性」に沿った「世俗内禁欲」が要求された──

     ここまではわかる(何となく)。しかし、そのようにして予定説が設定したゲームを、プロテスタントたちが嬉々として受け入れたことの「非合理性」──そのオリジンとなる精神構造については明快に示されているものの──が、どのようなロジックでもたらされたのかについては、ヴェーバーは殆ど論ずることなく放置しているように見えるのだ。

     昨年読んだ大澤真幸「社会学史」でのヴェーバーの段でもそれは感じた。そこでは「ニューカム・パラドックス」というゲーム理論的な枠組みを用いて、神の全知性を前提に置くとプロテスタントは禁欲を選択せざるを得ない、という結論が導かれていた。美しい説明だった。一見非合理と見えるものがプロテスタントたちには合理的なのだ、と。
     しかしそこで説明されているのはプロテスタンティズム内部の合理性であって、外部から見たそれではない。プロテスタントたちは、恩恵の有無が予定されてしまっているにもかかわらず禁欲と勤労が強要されるという「無理ゲー」の内部になぜ留まったのか、どうして外部に出て利得表上の最高得点を得ようとしなかったのかについては、結局触れられていないのだ。ここが僕が読後に覚えたあの不快な残響の原因なのだと思う。
     
     ただそもそも、ヴェーバーの意図はそのような「合理性/非合理性」を詳らかに分解するようなことにあったのではないのかもしれない。そのことは結び近くの注釈における「近代文化の特徴的なものを全部プロテスタンティズムの合理主義から論理的に演繹するというような、明快な『構図』」を作り上げること」が本意ではない、という本心の吐露からも窺うことができる。我々はただ、資本主義の「エートス」が生じた過程が、我々が考えているほどには理屈と整合的ではなかったということに思い至るだけで十分なのかもしれない。思えば資本主義経済なんて理屈に合わないことばかりだ。頑健だと思っていた象の背中が意外に頼りないことを知るだけでも、旅の安全には十分に役立つ。
     また、この「すごくよくわかった感じはするけど、よく考えてみるとわからないものが残る」という読後感が、本書が1世紀の永きに亘り読み継がれている理由の一つなのではないかとも思う。完璧にわかってしまってはつまらない。少し考えなければならないことが残されているのがいいのだ。

     なお近代社会学の嚆矢として名高い本書ではあるものの、意外なことにここでは「社会」という言葉が今日的な意味ではほとんど使われていないことに気づく。代わりに「外物」というあまり馴染みのない言葉が出てくる。ヴェーバーは先験的に個人と独立して存在する「社会」なるものをほとんど認めていないと見え、専ら自我の働きに焦点を当てその総体を分析の対象とし、その他の残余はまとめて「外物」という素っ気無い言葉に押し込めそれで良しとしているのだ。同じく近代社会学の祖といわれ、個人より先に社会を(積極的な)「物として」扱うべしとしたデュルケームとは小気味良いほどの対照をなしている。資本主義の起動力の源泉を貨幣や法などの既成システムに求めるのではなく、西洋近代に成立した個人の心性に見るところが、社会を個々の自我の集積と見るヴェーバーならではの視点なのだろう。
     しかし少なくとも、例えばその行為が全て個人に帰属していたカトリシズムと対照的に、個人には帰せられない行為による恩恵の獲得期待、すなわちカルヴィニスト的な「組織にまで高められた行為主義」が、資本主義と整合的な態度を決定づけたと結論している点に鑑みれば、間違いなくヴェーバーには「社会」とその後呼ばれる複合的で多面的な対象が見えていたはずだと思う。

     30年前は注釈は殆ど飛ばして読んだが、注釈部分に意外にハッとするようなコメントが隠れていたりすることに今回気がついた。全く油断のならない本だと思う。

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    2025年03月16日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    古くから経済活動は行われていたが、近代資本主義のような拡大性を有さなかった。では近代資本主義を勃興させた駆動力はなんだったのか?
    近代的企業家の多くがプロテスタント的色彩帯びている事に着目し、その精神性から駆動力を紐解いた論文。

    清貧を掲げるキリスト教と、富を増大させる資本主義は一見相反するが、なぜ企業家の多くはプロテスタント的色彩を帯びていることが多いのか?
    善行を積むことで神に選ばれるとしたカトリックに対し、プロテスタントは神の絶対性重視から、人の行動など神判に影響しないとする「予定説」を採択する。

    「予定説」において、死後救済されるか否かは既に決定しており、現世の行動は審判に影響しない。
    また、人はただ神の手足として現世に存在し、その役目を全うする義務を有する。
    その様な教義の中で人は、徹底的な合理思考に基づく労働により、選ばれている確信を「造り出す」のだ。

    その確信を持てない者は、神の手足として自覚が足りないと自省し、ひたすら合理化に励んでいく。
    また、当然教義上「節制」は義務であるため、結果として加速度的に余剰資本が生み出されていく。
    しかし、ここで「世俗的禁欲」が是とされる中で、富を拡大することは許されるのか?と疑問が生まれる。

    生じた富に対する後付けと考える方が自然だが、プロテスタントの「世俗的禁欲」を紐解くと、悪とされるのは稼いだ富の上で怠惰に溺れる事であり、富の増大自体は否定されていない。
    また、「隣人愛」を是とする思考がベースとしてあるため、余剰資本を市場に投下することが促進されていく。

    プロテスタントは、自分の職を神から与えられた「天職」だと盲信し、かつ節制・隣人愛の精神により加速度的に富を増やし、近代資本主義の巨大な流れを生み出した。
    その流れの渦中に生まれた我々は、稼がなければ生きていけないが、流れの初めには人の精神性があったという考えは青天の霹靂的である。

    資本の流れだけを見ると見失いがちだけど、企業の「理念」は「教義」であり、宗教的雰囲気の名残は根強いなと思う。
    また、企業家の持つカリスマ性は、まさに教祖の持つ要素と一致する。
    妄信的な企業を外から「ブラック企業」と揶揄することは容易だけど、中から見る景色はまた違うのだろう。

    高度経済成長期に見られた「富」への無機質な妄信から、仕事の意義を見つめ直しなさいという論が主流に変わったのは、再び「天職」の思想に回帰しているのではないか。
    なんにせよ「妄信」の状態が、人にとって最も幸福な時間なのかもしれないと感じる。

    必要最低限の富を持ち、隣人を愛し暮らしなさいという世界を席巻した流れに終止符を打ったのが、隣にいたプロテスタントだった。
    同様に、近代資本主義も同じ流れにいるように見えてルーツが少し異なる者が大きな流れを生んで終止符が打たれるのかもしれない。

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    2020年05月13日
  • 社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス

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    1966年刊行のかなり古い本になるが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』以降、マックス・ヴェーバーに惹かれる自分があり、解説本として定評があったこの本を手に取った。なお、著者の大塚久雄さんはヴェーバー研究の大家で、岩波版の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳者としても知られている。

    本書は四つの独立した章からなっているが、それぞれがヴェーバーに関する講演を下敷きにしてまとめられたものである。

    ■第一章 社会科学の方法 - ヴェーバーとマルクス -

    「人間の営みにほかならぬ社会現象を対象としたばあい、自然科学と同じような意味で、科学的認識ははたして成りたつものであろうか」といった社会学を含めた人文科学が抱える問題に対して、ヴェーバーとマルクスがどのように取り組んだのかを比較対照したもの。タイトルとしても取り上げられていることからわかるように、本書の四つの論稿の中でももっとも力が入っており、分量も長い。

    マルクスは『資本論』において、経済現象が「自然史的過程」として現れることを前提として、自然を取り扱うのと同じ科学的方法を用いることができる、とした。それに対して、ヴェーバーはあくまでその研究対象を具体的な生きた人間諸個人に拘り、目的論的関連を人間諸個人を行動にまで動かす動因として捉えて歴史的に因果関係に移し替えることを社会科学の方法として採っている、と主張する。ここでは、ヴェーバーの視点を借りたマルクスに対する一定の批判を含んでいる。

    その議論の中で、ヴェーバーにおける宗教学の重要性の高さが浮かび上がる。なぜなら宗教が諸個人の目的論的行動に影響を強く与えるものであるからである。上部構造の運動が経済的な諸構造によって制約されるとするマルクスに対して、ヴェーバーは宗教を始めとする文化諸領域の独立性と個別の影響を重視するのである。逆に宗教意識をはじめとした文化諸領域における独自な動きが経済の動きを根底的に制約すると考えるのである。そこが著者がヴェーバーをしてその社会学の方法がマルクスのそれを射程においてより広いと評価するゆえんである。言い換えるとヴェーバーは、利害の側だけでなく、理念の側から歴史過程を見ているというのである。それが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であり、『宗教社会学』によってなされたことだと指摘する。

    社会学における宗教の影響とその扱いは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で扱われた宗教改革の時代から科学的認識が進むにつれてますます少なくなるものと当然考えられていたであろう。しかし、イスラム教国における宗教の影響や、アメリカにおける保守的キリスト教の影響を考えると社会学の領域においてまだ現代的課題であると言える。そこでヴェーバーらがその先鞭を付けた社会学の方法が有用となる時代でもあるのではないか。

    ■第二章 経済人ロビンソン・クルーソウ

    『ロビンソン漂流記』は読んだことはないが、無人島に漂流してそこで生き延びるために色々と主人公のロビンソン・クルーソウが頑張った、みたいなものだろうという印象があった。著者のここでの着眼点は、ロビンソンが無人島において資本家のように考えて働き、最後には損益計算書を作って黒字であったことを確認して神に感謝したというその行動原理である。これは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーが分析した、この時代においてはイギリスなどの限られたプロテスタント国の中産層だけが持つエートスを示していると指摘する。
    プロテスタンティズムの倫理により、お金を儲けるというのが目的ではなく、経営それ自体を自己目的としたがゆえに資本主義のエートスを形成したというのがヴェーバーの分析の大きな結論だが、ロビンソン・クルーソウという仮構の人物が、それを正に体現していたのではないかというのがここでの指摘である。

    『ロビンソン漂流記』が広く受け容れられたのは、当時のイギリスにおいて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘された資本主義の精神を体現する経営者が広まっていたことの証左なのだという。どちらかというと子供向けの物語と思っていたこの話の中から時代のエートスを見るのは鋭い視点なのである。

    ■第三章 ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって - アジアの文化とキリスト教 -

    ベネディクト・アンダーソンが『菊と刀』で指摘した、西洋の「罪の文化」の日本(東洋)の「恥の文化」という二分法がある。その何年も前に、ヴェーバーも同じように西洋の「内面的品位の倫理」と東洋「外面的品位の倫理」という対抗的な二つのエートスをその宗教社会学の中で見出している。ヴェーバーは、宗教分析を通してその精神的な由来を追求し、発生の源を理解しようとする。「動機の主観的に思われた意味を解明しつつ理解することによって、社会現象を因果的に説明する」というのがヴェーバーの姿勢である。

    ここではじめに分析するべき文化宗教・世界宗教と呼びうるのは、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、儒教、の五つであるとヴェーバーは考えている。かつて柄谷行人が『探求』で世界宗教について論じたのは、こういった歴史的かつ社会的問題における世界宗教の重要性を理解していたのだと改めて考える。

    こと宗教ということでは、ヴェーバーとマルクスの違いが際立つ。
    「マルキシズムは神を抜きにしたカルヴィニズムだ」(ベルンシュタイン)とするものもいる。一方で、マルクスの自称後継者たちは「宗教は民衆のアヘン」として宗教を捨て去ったため、ソビエト連邦でも中国でも宗教は冷遇されていった。しかしながら、マルクス自身は何らかの別の形で宗教意識という視角から社会構造を見極めようとしたとも言える。

    だからこそ、キリスト教とくにピュウリタニズムの文化と儒教・道教の文化による社会的エートスの対照比較を通して、儒教 = 恥の文化、ピュウリタニズム = 罪の文化、と呼んで。

    またヴェーバーは、宗教の社会における位置づけにより、平民宗教と支配者宗教に分けて考える。その上で東洋においては、前者が道教もしくは仏教が担い、後者が儒教によって担われるという二重構造をしていると指摘する。一方で、西洋ではキリスト教がそうであったように平民宗教が常に支配者宗教をのみこんでいくような動きがあって、一体のものとして発展をしてきたという。

    ここで、ルース・ベネディクトの議論にも戻るのであるが、彼女の「恥の文化」と「罪の文化」の対比には、その鋭い着眼点に感心をしたものだ。しかしその前提として、マックス・ヴェーバーの宗教倫理の分析の中にその対比の萌芽があり、彼女にもおそらくは知識としてはあったのではないかと想像する。

    ピュウリタニズムが原罪の概念からして徹底的にペシミスティックなものが根底にあるのに対して、儒教は現世的オプティミズムがある。儒教の文化における、現世への変革力の弱さも見ている。現世的な「道」や「君主」に従うことこそが「徳」であるという概念があるが、それが現状維持に働いているというのだ。

    「ピュウリタンたちが現世を完全に拒否したがゆえに、かえって、それを楽観的に肯定した儒教とは比べものにならぬ程の強さで厳正に働きかけ、それを根本的に変革してしまうという、たいへんな精神的エネルギーを生み出す、そうした一見逆説的な結果を歴史の上にのこしたからなのです」

    果たしてグローバル化を果たした現代社会においてどこまで有効なのか、と問うべきなのだろうが、実際のところこの宗教意識から来る動因は、深くいまもまだ社会の底を流れているのではないかと思われる。

    ■第四章 ヴェーバー社会学における思想と経済

    まず日本における神道は、宗教というよりも思想と言い換えた方がいい。ここでいう「思想」というのはそういうものである。そして、そのレベルにおける宗教と、社会経済のあいだには厳しい緊張関係が形作られる。ヴェーバーの特徴はそこに見いだすべきであるというのが著者の主張だ。

    「ヴェーバーのばあい、宗教と経済、この二つを対極とする緊張の関係のなかに、歴史的現実の動きを押しすすめる根本的なダイナミックスを見出そうとする。この二つの対極のうち、宗教ないし思想の方を無視して経済だけをとってみるとすれば、自分でもときに言っているように、マルクスに近くなってしまう」

    人と社会は、利害によってのみで動くのではなく、理念によって動き、利害は理念によって制限を受けるのだというのがマルクスを批判的に経てヴェーバーが得たであろう結論なのだ、と。

    「ヴェーバーは、こうした利害状況というものが歴史過程のなかで諸個人を動かしていくのだが、歴史の曲がり角ともいうべきようなところでは、やはり理念が決定的な作用をすることになる、というのです」

    宗教はまた民族とも密接につながっている。著者は、「現在においては民族というものを無視して現実を十分正確にとらえることはできないのではないかと思います」という言葉を最後としている。

    大きな物語が終わり、そこでは個別の民族の問題や宗教の問題が立ち昇ってくるのである。そこではヴェーバーの提起していたような問題が現代的にも大きな課題として表れるのであれば、いままたヴェーバーがもっと読まれてもいいと改めて思った。

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    2020年03月07日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    一章は面白く読んだが、二章にはいってキリスト教の色いろな宗派や人物が出てきて詰んだ。でもそこを我慢するとまた面白くなった。禁欲が資本主義の精神に繋がったという逆説はとにかく緻密で説得力があり、こんな社会で生きてゆくには読んでおくべきだと感じる。

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    2019年08月02日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    近代資本主義の出自を、
    カトリックからプロテスタントへの転換、ピューリタニズムへの先鋭化から表出した
    世俗的禁欲からの発露だと主張する名著。
    丁寧、多角的に分析・批判され導出される論理にはやはり説得力があり
    いわゆる儲け事などは良しとしない禁欲的精神から逆説的に資本主義が発達していったというのは大変興味深い。

    私にとってはかなり難解であり、また本文と注釈の頻繁な交代は読むことへの忍耐力を試されているようにも感じた。
    が、先に巻末の解説(これがとても端的で理解しやすい)に目を通していたためどうにか少しずつ理解を深め通読することができた。

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    2018年07月28日
  • 社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス

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    ネタバレ

    ウェーバの「儒教とピュウリタニズム」の解説が一番分かりやすい。
    東洋の文化と西洋の文化を対比することにより、それぞれの文化の補完可能性を模索しているようにも読める。

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    2011年12月30日
  • 社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス

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    学生時代に先生に勧められて読みました。先生は大塚久雄をよく研究されており、かなり影響を受けたものです。歴史学はもちろん経済学等の社会科学を学ぶ学生には、必読書だと思います。

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    2011年01月29日
  • 社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス

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    マルクスとウェーバーの共通性や相違点など、大事な点が要所要所で繰り返されていてすごくわかりやすい。
    ただ、この類の内容は、自分の血肉として語るのが難しい。うまく浸透してこない。
    やはり原典を当たらねば。。。

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    2009年10月15日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    正直に言うと、私にとってはかなり難しい本だった。歴史や宗教に関する知識が十分にあるわけではないため、細かい議論や背景を理解するのに苦労した。それでも、これまでほとんど考えたことのなかった宗教と経済の関係について知ることができ、新しい世界に触れたような面白さがあった。

    特に興味深かったのは、信仰が単なる宗教的な問題ではなく、人々の教育、職業選択、労働観、さらには経済活動そのものにまで影響を与えているという指摘だった。ヴェーバーは、プロテスタント、とりわけカルヴィニズムの思想が近代資本主義の発展を促したと論じているが、その発想自体が非常に新鮮だった。

    印象に残ったのは、作中で引用される ベンジャミン・フランクリン の言葉である。「時間は貨幣である」「信用は貨幣である」「貨幣は繁殖し子を産むものだ」といった考え方は、現代では当たり前のように聞こえる。しかし、それが単なる金儲けの技術ではなく、「資本を増やすこと自体が義務である」という倫理観と結びついていたことに驚かされた。

    また、カルヴィニズムの予定説も非常に印象的だった。

    神はあらかじめ救われる人と救われない人を決めており、人間にはその運命を変えることができない。しかし人々は、自分が救われる側に選ばれているのか不安になる。その不安から勤勉に働き、浪費を避け、利益を再投資する。その結果として資本が蓄積され、近代資本主義が発展したという説明は非常に興味深かった。

    一方で、この思想には強い違和感も覚えた。

    「人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する」という考え方や、「救われない人が不公平だと訴える権利はない」という主張は、現代的な感覚からすると非常に厳しい。実際、本書で紹介されていた ジョン・ミルトン の「たとえ地獄に落とされようと私はこのような神を信仰できない」という言葉には共感を覚えた。

    ただ、その違和感こそが、この本を読む面白さでもあった。現代社会では当たり前だと思っている価値観も、歴史的・宗教的な背景の上に成り立っていることが分かるからだ。私たちが当然のように持っている「働くことは良いことだ」「時間を無駄にしてはいけない」「利益を再投資するのは合理的だ」といった考え方も、宗教的な倫理観と無関係ではないのかもしれない。

    巻末の解説で述べられていた、「営利的行為が倫理的義務という色彩を帯びる」「現世肯定的な功利主義」「天職(ベルーフ)という考え方」も興味深かった。単にお金を稼ぐためではなく、自らの職業を神から与えられた使命として捉える発想は、現代の仕事観にもどこか通じるものがあるように感じた。

    難解な本ではあったが、宗教や資本主義について興味を持つ大きなきっかけになった。今の段階では十分に理解できたとは言えないが、歴史や宗教について学びながら、いつかもう一度読み返してみたいと思う。読めば読むほど新しい発見がありそうな一冊だった。

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    2026年06月07日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    ネタバレ

    初めてこの本を手に取ったのは高校生の時だ。当時ハマっていたアニメの中で、マックス・ウェーバーを引用していたのがきっかけで、気になって読んでみたが、当時は修行というか苦行に耐えるような気持ちで読んだ覚えがある。ただ、今振り返ってみるとこの経験がきっかけとなって、難しい本の楽しみ方を知ったようにも思うため、今となっては思い出深い本である。
    ウェーバーが天才的だと思うのは、彼が生きていた19世紀半ば〜20世紀初頭において、プロテスタントの勤勉かつ禁欲的な思想が資本主義を駆動するための精神的な背景として機能したことを明らかにしたことだ。あらゆる社会現象について言えることだが、後講釈として振り返ることは容易だが、現象が起きている真っ只中にその構造を明らかにするのは容易ではない。さらに、プロテスタントの思想ゆえに生まれた合理主義的思想に人々が囚われると危ないという警笛を鳴らしていた点も天才的である。ウェーバーの考察はとても先見的であり、むしろ現代を生きる私達にこそそこから学び取るべき教訓が沢山あるように思う。

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    2024年11月27日
  • プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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    解説が丁寧で分かりやすい。武器としての哲学の推薦本であったが、解説によると宗教社会学であり、社会学の一部分である。近代資本主義が発展したのはカトリックからプロテスタンティズムになったためである、ということが首尾一貫して書かれている。いまではだれでもが知っていることであるがそれを説明した最初の本である。カトリックは享楽主義でその日暮らし、プロテスタントは禁欲主義で勤労主義ということで、キリギリスとアリのたとえでもいいのかもしれない。
     解説にあったように注を読み返す、ということが必要な本である。

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    2023年07月07日