松本健一のレビュー一覧
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なぜ日本が対米戦争に踏み切り、そして完敗したのかを知りたくて、日本の「失敗」をテーマとする本を探していたところ出会った一冊(松岡正剛の千夜千冊から)。結果的に、とんでもない傑作に出会った。
日本が中国に進出し、韓国を併合し(1910年)、対支二十一か条の要求(1915年)を行なった辺りからの、様々な知識人の言論を一つ一つ丁寧に拾い上げ、平易な言葉で解説してゆく。そうすることで、当時の日本の政治や評論、文学、メディア等がどのような思想を背景に言葉を発し、軍人や世論に影響を与え、戦争が進められていったのかを解き明かす。
戦争の歴史というよりも、思想史であり、思想が国を形作ったことを証明するような非常に説得力のある論考だと思う。著名な言論人が多く登場し、そうした人々の考え方に浅くではあるが広く触れるきっかけとしても優れた本だと思う。
松岡正剛が「松本健一が書いた本は、長らくぼくが信用して近現代史を読むときに座右にしてきたものである。」と言ったことの意味が分かる思いがしている。 -
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本書は昭和天皇についてのイメージを一新する著作である。とくに、「カゴの鳥」からの脱却の章が面白かった。この章は大正十年(1921)三月から半年かけて行われた皇太子時代にイギリス、フランスなど欧州視察旅行にまつわる話である。
皇太子時代の昭和天皇に対してなされていた教育を「箱入り教育」として激しく批判したのは枢密顧問官の三浦梧楼(陸軍中将}であった。これに、元老の山縣有朋、松方正義、西園寺公望が応じた。時の首相の原敬も「今少しく政事及び人に接せらるる事等に御慣遊ばさるる必要あり」と語っている。
大正8年(1919)5月7日、皇太子は18歳の成年式を迎えた。この後5月10日、霞ヶ関離宮で盛大な晩餐会が開かれた。枢密顧問官の三浦もこれに出席したが、皇太子はただ席についているだけで、何の話もせず、何かを話しかけられても、「殆ど御応答なき」状態だった。このありさまに三浦は怒ったのである。
帝王学をほどこすためのマンツーマン方式による一方的教育のため、みずから話をすることもできず、人との「応答」というものがあまり出来ない状態になっていた。
そこで、山縣は皇太子の外遊を熱心に勧めた。
イギリスに到着する前まで、軍艦「香取」の船中で側近に言動やマナーについての「諫言」を受けている。こうして皇太子は変わりはじめる。公式晩餐会での堂々たる態度と演説だけでなく、他者との会話や対応に格別の変化を見せるようになる。そのなかで、人間的にも成長をする。「カゴの鳥」から英国風の「君臨すれども統治せず」という立憲君主への脱却をする。
この話を読んで、私の中で少し違和感が生まれた。それはそれまでの昭和天皇像と少し違うからだ。当代随一の批評家の丸谷才一氏が「ゴシップ的日本語論」(文藝春秋、2004年)で言語能力のない天皇が戦争への一原因であったような書き方をしていたからだ。
そうしたら、案の定、次の天皇の「私の心」―「富田メモ」の出現のところで、丸谷氏の批判が出てきた。
―丸谷氏が「昭和天皇が皇太子であったときに受けた教育に、重大な欠陥があった」というのは、そのとおりである。東宮御学問所での教育は、内容はきわめて程度の高いものだったが、一方的に講義をうけるだけのものだった。そのため、言語的な対話能力が養われず、「私」の意思を表明する機会も与えられなかった。しかし、丸谷もハーバート・ビックも鳥居民も、大正十年のイギリス・フランスなどへの外遊によって、皇太子が「私」の意思を明確にする存在へと変身したことを見逃している。
これは丸谷氏も一本とられましたね。
昭和天皇は2.26事件のときの断固たる決意や、日米開戦に対する不同意をいろいろ試みていること、戦後の神格化を否定した「人間宣言」に隠れた別の意思(明治の5箇条の御誓文に戻る)、満州某重大事件に対する怒り、A級戦犯合祀に対する明確な不快感など。天皇の断固たる決意を著者は「畏るべき」と表現している。
この本を読んで、昭和天皇の有名な「あっ、そう」という応答の深い意味もわかった。
この本には三島由紀夫と正田美智子さんが見合いをしたことがあったこと、戦後すこししてからの文学少女雑誌「ソレイユ」の投稿欄でいつも張り合っていたのが正田美智子、中村メイコ、富岡多恵子の3人であったというエピソードも出てくる。世界的音楽指揮者の小沢征爾の父親の小沢開作のエピソードも出てくる。三男につけた名前の由来も出てくる。
戦時下、独自に情報を集めるため英語の短波放送を聴いていたエピソードも出てくる。
圧巻は「天皇の戦争責任「の章である。3回も首相を務めた近衛文麿は戦争責任は全て天皇にあり、自分は責任がないことを自殺前の「手記」に書いているが、これは天皇に専制君主の役割を求めて、実際の政治の責任を回避したものとの印象が強い。これは昭和16年の9月6日の御前会議における「帝国国策要綱」の策定、最後の近衛宅での和戦に関する「殆ど最後の会議」での、近衛首相の決断回避。実際は、海軍首脳は対米開戦を回避したかったのだが、それは口には絶対出来なかったので、「近衛一任」を申し出たのだった。海軍は対米戦に勝利する自信がなかったのだが、その責任を陸軍にあげつらわれ、その後の軍事費の削減を強いられるのを避けたかった。つまり、国益よりも海軍の「省益」が優先したのである。ここで、近衛は責任を回避し、陸軍に譲歩を迫れなかった。 -
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日本が無謀な戦争に突入し、敗れてしまったのは、何故なのか。東京裁判の結論どおり「軍閥」を中心とする一部支配層の謀議によるものなのか。それとも国民全員に等しく原因があり、総懺悔すべきものだったのか。筆者は、いずれでもない、ということを、昭和日本の外交、軍、議会、思想状況・・・を立体的に描き出すことで示してくれる。日本の中国大陸での軍事行動は、日本自らが批准していた条約に明らかに違反するものであり、決して正当化できるものではないという指摘。また軍部に「統帥権」という伝家の宝刀を振りかざす隙を与えたのは、党人政治家たちが党利党略に走ったことの結果であったとの指摘。さらに「大東亜戦争」には、開戦時、動機はあっても目的がなかったという指摘。・・・等、改めて「大東亜戦争」について評価していくための重要な論点を明快に提示してくれている。
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昭和天皇という人物が持っていた、強さや聡明さ、政治的合理性については、保坂正康氏の著作などで、既に知ってはいたのですが、本著では史料として残された多数の証言に基づき、昭和史の様々な場面で現れた、その類稀なる「畏るべき」パーソナリティが多面的に検証されます。
「近衛は弱いね」だとか、杉山参謀総長に対する「太平洋はなお広いではないか」だとか、印象的な発言に纏わるエピソードは多々ありますが、著者が何よりも強調しているのは、昭和天皇が日本という国家において唯一人、「私」を捨てた「公け」の存在であろうとし続けたこと。
敗戦後も、平成の時代の皇室が今まさにそうであるような「民主国家における象徴天皇」ではなく、あくまで「天皇制下の民主主義」に対する信念を有していたこと。
それはまさしく(絶対主義的な意味ではなく)日本国は「天皇の国家」であることに対する信念であった、と。
勿論、昭和天皇がそのような信念を本当に持っていたのかどうかを証明する術はなく、それもまた著者の松本健一氏の「信念」ではあるわけですが、確かにここで紹介される数々のエピソードを通してみると、そのような昭和天皇像が浮かび上がってくる。
昭和が終わって早や20年以上の時が過ぎました。
自分は実際には昭和天皇の最晩年10数年しか知らないわけですが、このような大きな存在が実在していた時代と、「それ以後」の断絶は、思っていたよりも深いものなのではないか、そんな気にさせられました。 -
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日の丸は日本人が古くから日本という国を対外的に表現するために用いてきたものなのに対し、君が代は明治以降に天皇礼賛歌として作られたものであり、そもそもの歴史が全く異なるため、国旗・国家として法に定めるにあたって、一緒くたにして考えられるものではない。
国旗・国歌法も十分な議論がなされたとはいえないため、国旗はともかく国家はもう一度国民全員で議論し直す必要があると感じた。
筆者が言うように国歌を国民投票で問うのであれば、同じ君が代が選ばれるにしても、国民が自分自身で選んだ責任というものを感じて、今のようないざこざは起こりにくくなるのではないか。 -
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もうそろそろ平成の世が終わり改元ですね。
日の丸が国旗として使われてた歴史は意外と古いんだな。戦国の世に存在していたのか。
国歌の歴史は近代に入ってから。天皇礼式曲がその起こりで、天覧調練に使われ、万葉集の歌詞に非日本人が作曲したと。
黒船来航、明治維新、一次大戦、満州事変、二次大戦。これらの節目が実に密接に関わっているな。
日本は近代国家としては高々数百年だが、建国からの歴史は長い。文化を国旗国歌法を法制化する必要はあったのか...
法制化したということは、いつの日か変わることもあり得るということではあるが。
改元を目前に改めて、日本文化を再考するに良い一冊でした。
しかし、国旗国歌法制定にあたり自殺した教員がいたことを覚えていない者も多いのかな。 -
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中国在住経験のある著者による、よく調べられた面白い本である。ただし、マルクス主義ではないにしろ左翼的な反帝国主義に固執した発言が気になった。「幕末に、ヨーロッパ列強の覇権争いに日本もいち早く参加するため開国した」「日本の植民地政策により、収奪されたアジア諸国から恨みがずっと残った」は、誤りであると思う。また、「信念を貫いた祖父を見習うべき」とか「大政翼賛会に賛成したから悪い」等の、時の話題性トピックを無理につなぎ合わすジャーナリスト的レトリックで話が進められている箇所があり、論理的学術性に乏しい。
印象に残った箇所を記す。
「李登輝が「台湾のわれわれに文明を伝えてくれたのは日本である」という見方から「認識台湾」という教科書をつくった。それまで中国の清朝は台湾に何もしてくれなかったのに、日本は文明的な方法をいろいろ施し、指導してくれた」
「戦争の最中でも、植民地の台湾人は軍属止まりであって、士官学校にも行けない。ところが、併合された朝鮮半島の人々は、日本国民に準ずる権利を持ったので、士官学校に行くことができ、最後は中将になった人までいるように、日本国民とほぼ同じ権利を与えられていた。ところが台湾人は、最後まで二等国民、軍夫という民間人のかたちでしか採用されなかったのである」
「「夷の術をもって夷を制する」佐久間象山」
「中華の外側は外夷で、中華文明では外交という発想はない。外の野蛮を接待してやる「接待所」はある」
「よく見る人(予言的思想家)、見ておこなう人(坂本龍馬、高杉晋作)、そしておこなうときには果決するという政治的な人間(木戸孝允、西郷隆盛)、この三種類の人間が、開国のような変革期には必要になる」
「戦前:テリトリー・ゲーム、冷戦後:アイデンティティー・ゲーム」 -
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ネタバレ国歌・国旗問題をここできちんと勉強しておく。どーでもいいけど、人によってはどーでもよくないことだから、リスクマネジメント。
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p19 湾岸戦争
イラクのクウェート侵攻に対して国連多国籍軍が平和維持活動を発動した、戦争。冷戦終結後のナショナル・アイデンティティを問う戦争。アメリカの独善的な戦争ではなく、世界が巻き込まれ始めた戦争。
多国籍軍に加わる中で、これから日本は、日の丸を掲げ、君が代をBGMに行軍するのか?なんだ第二次大戦の頃と変わっていないんだな。
p66~8 日の丸の登場
日の丸の登場は、黒船来航の時である。開国待ったなしの時期に来て、日本が世界の一国として象徴となる国旗が必要になった。それは日本国総船印として。
長崎で日本に貿易に来た外国船は自国の国旗を掲げていた。日本もそのための国旗が必要になるとのことだったのである。当時は白地に黒丸の日の丸だった。
p74 下田の開港
佐久間象山曰く、下田という江戸から遠い地で開港するのは軍事戦略上悪いといった。下田を開港して外国船が船をつけられるようになったら、日本首都から程よい位置にある最前線基地にされる恐れがあるということである。だから、江戸のそばにある横浜を開港して幕府の管理下に置けるようにすべきと言った。
p85 日の丸のまとめ
日の丸は日本人の歴史に馴染んできたものである。だから、幕末に日本国総船印になり、明治新政府にも国旗として採用された。
p89 会沢正志斎
後期水戸学の大家。水戸学は尊王思想である。
p96 イギリス国歌
ゴッド・セイブ・ザ・クイーンというタイトルの国家である。神よ、我らの女王を助けたまえという歌。ちなみに3番には、女王よ我々の法律を守りたまえという歌詞もある。
p106 賀歌だった君が代
君が代は薩摩で使われていた賀歌であり、大山巌が天皇を迎えるための軍歌として、君が代の短歌に曲を付けようと提案したのが始まり。
p108 フェントン
明治維新間もない日本に西洋の音楽理論で作曲できる者はいなかった。そこで、イギリスの軍楽隊のフェントンに君が代の作曲を依頼した。
p111 ヨナ抜き音楽
日本の伝統的な音階はヨナ抜き音階という6段音階であった。これはスコットランドやアイルランドも同じ6段音階を使っている。
フェントンに作曲してもらったのは西洋式の8段音階だった。それゆえ、君が代の短歌の歌詞に旋律が合わなかった。だから結局それは採用されなかった。
p112 君が代の作曲者
宮内省の雅楽課の奥好義が作曲したものを明治13年に林広守という同じ宮内省の楽人が編曲して完成したとされている。
p128 君が代の復活
サンフランシスコ講和条約で独立が復活すると君が代も解禁された。
p131 角栄の考え
日本が経済的に成長していくなかで、政治的にも外交的にも国際競争力を持ちたいと思うのが政治家である。国際社会に出ていくなら、日本のナショナル・アイデンティティを確立する必要がある。だから日の丸・君が代を法律で国旗と国歌に定めようとした。
p144 白旗
クリミア戦争は、国際赤十字とジュネーブ条約を生み出した。このジュネーブ条約で、白旗を掲げたら、その敵を攻撃することを止めなければならないと取り決められた。
p145 ジュネーブ条約
日本は西洋の国家以外で初めてジュネーブ条約に批准する国となった。これを進めたのは大山巌であった。
彼は戊辰戦争で同じ日本人同士が殺し合う不条理を体感した。戦争で悲惨な殺し合いが起きないよう、戦争にルールがもたらされることを誰よりも強く思っていたのである。
p150 日清戦争の美しさ
日本は遅れた文明国である。だから、人一倍西洋文明の在り方に固執した。だから、ジュネーブ条約も本気で守って、日清戦争に挑んだ。国際社会が作った法律を、非常によく守った戦争は日清戦争が初めてだった。
p156 政略的な中国
中国の歴史における一般的な降伏の方法は、寝返りである。自国の敗色が濃厚になったら、敵国の旗を掲げ自らの国を差し出すのが中国の常識である。だから、戦後に旧国の戦力をそっくり手に入れることができて効率が良いのである。また、寝返ったものも、新たな国で十分に出世のチャンスがあるというのだから、中国という国は割り切りが早いなと思う。
p169 2591年
1931年は日中戦争の始まりの年である。語呂合わせでイクサノハジマリ年と呼んで軍国気分を煽ったりしていた。
しかし、皇紀で数えると1931→2591年である。つまり、ジゴクノハジマリ年なのである。
p184 映画館
世界では映画館の上映前のスクリーンに国旗が映し出されるのは一般的らしい。
p198 野中広務
国旗・国歌法の急先鋒だった政治家。なぜひろむちゃんは国旗・国歌を法制化することを急いだのだろう。
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この本は別に君が代と日の丸にアンチの立場にたっていない。ニュートラルだが、アンチになってないってことは少し肯定派なのだろう。
日の丸は、確かに日本人が昔から使ってきたものだからこれからも使っても別に政治的効果は薄い。
しかし、国歌は完全に天皇の歌と言っているから、政治力を持ってしまう。なんだったら、国歌の方は国民投票してもいいな。 -
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[ 内容 ]
近代日本のナショナリズムはどこで道を誤ったのか。
一九一五年の対支二十一カ条の要求や、統帥権干犯問題、斎藤隆夫の粛軍演説の問題、北一輝の思想などを題材に、戦前日本のナショナリズムが迷走し、暴走した原因を追究する。
さらに、現代の東アジアにおけるナショナリズムが惹き起こしてきた領土や歴史認識をめぐる各国間の軋轢を根源から再考察し、民主党への政権交代で注目を集めている東アジア共同体構想を含め、ナショナリズムを超えた東アジアの未来像を展望する。
[ 目次 ]
第1章 日本国家の未来像(「第三の開国」とアジア重視への転換;「開国」とは何か)
第2章 日本ナショナリズムの曲がり角―対支二十一カ条要求とポピュリズム(「大東亜戦争」と「東洋」の真意;「対支二十一カ条の要求」と膨張主義 ほか)
第3章 リアリズムとロマン主義のあいだで―斎藤隆夫と北一輝(予言的な思想家;明治の天皇機関説 ほか)
第4章 日本のナショナリズムとは何か(パトリオティズムとナショナリズム;東アジアにおける国民国家の形成 ほか)
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