ジョン・ゴールズワージー(1867 -1933)による、美しい一幅の絵のような物語である。
銀婚式を迎える日、初老のフランク・アシャーストは妻を伴い、思い出の地デヴォンシャーを訪れる。
目的地の手前の美しい田舎の風景に妻が目を留め、スケッチを始めたとき、アシャーストはふと、若き日の恋を思い出す。そう
...続きを読む、それはまさにこの地だった。
林檎の樹の下で、神秘的な美しい少女、ミーガンと、彼は恋をしたのだ。
ウェールズ出身の農場の娘と、上流階級の前途洋々たる青年。
およそ身分違いの恋だが、娘の美しさ、純真さ、素朴さに彼はときめいた。林檎の樹の下で交わした甘やかな接吻は、この娘とともにこの先の人生を生きることを、彼に誓わせた。
だが、その恋はもちろん、成就しなかった。
隣にいる妻は、ミーガンではないからだ。
カッコウやヒバリの歌。藍色の闇に浮かぶ月。桃色の蕾の中にたった1つだけ咲いた真っ白い林檎の花。少女のほつれ髪。
農場の豊かな風景の中、黒い長い睫毛の美少女は異界のもののように美しかった。
少女もまた、愛のまなざしを注いでくれた。それは天にも昇る心地だった。
この物語は、ギリシャ神話のオマージュでもある。
黄金なる林檎の樹
美しく流るる歌姫の声
(『エウリピデスのヒッポリュトス』(マーレイ(1866-1957)))
本作の冒頭に引かれたこの節は、英国古典学者マーレイがギリシャ悲劇『ヒッポリュトス』を意訳した作品から採られている。
林檎の樹はゼウスの妻ヘラのもので、ヘラは大切なこの樹を遠くの島に植え、3人の歌姫に守らせていた。誰も林檎を取ることはおろか、近寄ることすらできなかった。ある意味、理想郷の象徴である。
また、『ヒッポリュトス』の中で、主人公の王子ヒッポリュトスは義理の母の邪恋を却け、愛の女神アフロディテの怒りを買っている。これも本作の1つのモチーフになっている。
ある種、ギリシャ神話の近代への移し替えを試みたような印象である。
自然の中の生きものや風景、ミーガンの容貌や物腰など、個々の描写は非常に美しく、また悲恋に終わるロマンティックな物語なのだが、どこかちぐはぐな感じが残る。
それはまるで、泰西名画のざっくりとした複製を思わせる。美しいがどこか作り物めいているのだ。
美しい娘と愛を誓いながら、その娘を身勝手にも捨ててしまう。
それ自体は古代でも近代でも現代でもあることだろう。
しかし「近代的」で「常識的」な「紳士」が、思い出の地を偶然通りかかるまで、そのことをすっかり忘れているなどということがあるものだろうか? 若き日の彼の心の揺れが丁寧に描き込まれているだけに、そこに取って付けたような嘘くささが生まれる。
ここで引き合いに出すのが適切かどうかはわからないが、『舞姫』を書いた森鴎外は、確かに「エリス」を捨てたのだと思う。身勝手な豊太郎に我が身をなぞらえ、エリスを狂女になったと書いた鴎外は、薄情のそしりは免れないかもしれないが、エリスを忘れはしなかったろう。狂女として描きはしても、自殺したとは書かなかった。これはまったく勝手な想像だが、自らの身勝手さを思えば、嘘でも死んだとは書けなかったのではないか。
対して、この作品でミーガンは、帰らぬ恋人を待ち、まるで夢のように自死を選んでしまう。キリスト教では自殺は罪である。墓地に葬られることを拒まれた彼女の墓は、十字路の脇にある。哀れな魂が眠る小さな墓。不謹慎な言い方だがロマンティックである。
これもまた勝手な想像だが、ゴールズワージーは「ミーガン」に会ったことすらなかったのではないか。田舎娘に不実な恋を仕掛け、捨てたことなどもちろんなかった。もし本当にそんなことをしていれば、こんなロマンティックな仕上がりにはならないように思うのだ。だとすればこの娘は麗しい古代そのものの象徴なのか。冷淡な言い方をすれば、何だか都合のよい駒のようだ。
古代への憧れ。近代の「自我」。それがうまく噛み合っていないように私には感じられた。発表当時の人々はこの物語を楽しんだのだろうか。川端康成はこの物語を愛したのだという。描写の美しさを思うと、そういうものかとも思うが、どうにも据わりが悪い思いが拭いきれずにいる。