齋藤亜矢のレビュー一覧

  • ルビンのツボ 芸術する体と心

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    1760円

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    2026/10/11

    エッセイ

    齋藤亜矢
    1978年茨城県生まれ。京都大学理学部、京都大学大学院医学研究科修士課程を経て、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了(博士(美術))。京都大学野生動物研究センター特定助教、中部学院大学准教授などを経て、現在、京都造形芸術大学文明哲学研究所准教授。専門は芸術認知科学。絵を描くこころの起源について研究している

    「 夢の解釈が学問的に正しいかよりも、自分でその夢の意味を「わかる」ことがだいじなのだと思った。それ以来、とくに悩んでいるときほど、おもしろい夢を見る。夢に気づかされたり、救われたりすることもある。  夢には記憶を整理する役割があるという。眠っている間、脳が断片的に再生している記憶を目覚める直前にまとめてストーリーに仕立てる。ある意味、わたしたちが寝ながら、知らず知らずのうちにしている「表現」なのかもしれない。それは、だれのためでもない、自分のための「表現」だ。そして、そこでつむがれる物語では、枠をこわすことが簡単にできている気がする。夢にも、創造性のヒントがありそうだ。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著



    「 京都大学(京大)の理学部を卒業し、医学研究科の修士課程に進んだ。しかし、博士後期課程では東京藝術大学(芸大)の門を叩き、博士(美術)の学位を取得する。その後、野生動物研究センター、教育学部と経て、ふたたび芸術系の大学に戻ってきた(京都造形芸術大学)。  こうして書くと、異分野を軽やかに渡り歩いてきたように思われることがある。でも、そんなに器用な人間ではない。立ち止まって悩みながら進むうちに、いつのまにか蛇行した道になっていただけだ。さいわいなことに、さまざまな分野を経験したことが、いまの研究につながっているように思う。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「だから文系・理系にはあまり思い入れはないのだが、サイエンスとアートという切り口からなら、少しは話せることがあるかもしれない。それに、これからそれぞれの道に歩み出そうとする高校生たちに、途中でちょっとぐらい人と違う道にそれたり、寄り道をしたりしてもだいじょうぶ、というメッセージにはなるかもしれない。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「サイエンスとアート。相反する点は、いくらでもあげられる。  たとえば、普遍性と偶然性。サイエンスの実験では、条件をそろえれば毎回同じ結果になることが求められる。データは平均化され、一回きりの出来事は「外れ値」として扱われる。しかしアートでは、偶然性がだいじにされ、平均値よりも「外れ値」にこそ光があてられるようなことが多い。  たとえば、「わたし」の存在。サイエンスの論文では、「思う」より「考えられる」という表現が好まれる。だれが考えてもそう解釈できる無理のない論理だという意味だ。つまりサイエンスは、できる限り「わたし」を排除する。いっぽうでアートは、むしろ「わたし」がなければはじまらない。「わたし」がこう思う、「わたし」はこう感じる。ほかのだれもが気づかなかった「わたし」の「思う」や「感じる」を切り出して表現する。解釈も鑑賞者によって異なり、そこに一つの正解があるわけではない。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「もはや一八〇度違う部分も多いのだけれど、サイエンスとアートは対極に位置するわけではない。むしろ、その根っこにこそ共通するものがある。  その思いを強くしたきっかけが、芸大に入ったばかりのころ、特別講義でこられた内藤礼さん(現代美術)のお話だ。  「たとえばいま、木漏れ日からさす光がカーテンにきらきら映し出される感じ。そんなふだんの生活のなかの一場面や自然の美しさを、いいなあ、と感じている。ほんとうはそうして自分で感じているだけでいいのだけれど、その「感じ」をアートのなかに表現したい。別にだれがしなくてもいいのだけれど、やらずにはいられない。わたしは、究極に美しいものをつくりたい」  この言葉が、研究者として自分が目指す姿勢と重なり、サイエンスからアートの分野に足を踏み入れたときの迷いを吹き飛ばしてくれた。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「アーティストは、新しい切り口で世界のおもしろさを切り取って見せてくれる。そうやって、既存の枠組みをこわして新たな物の見え方を示してくれるのが、アートの力だと感じている。  それは、石を拾うことに似ているのかもしれない。正月に実家に帰ったら、机のひきだしに子どものころに拾った石ころが眠っていた。ぴかぴか光った宝石のような石ころ、石器のようにとがった石ころ、顔のように穴があいた石ころ。どれも道端に落ちていれば、ただの石だけれど、自分ならではの価値を見出すことで、かけがえのない「石ころ」になる。  価値のないものに価値を与える。子どもがもっとも得意とすることだ。  ふだん見慣れた物でも、別の物に見立てることで、新しい意味や価値が生まれる。価値を与えるという行為にも想像力が一役買っていそうだ。  いっぽう、おとなの目には、石は石のままでしかない。そもそも、石の一つひとつに目を向けることさえ少なくなっているのではないだろうか。  ふと気づいてしまった。チンパンジーの絵を研究しているというこの状況も、はたから見たら荒唐無稽な、ばかばかしいことかもしれない。むしろ気づくのが遅いといわれるかもしれないけれど、自己紹介でいったん怪訝な顔をされるのは、たぶんそのせいなのだと。  アーティストと研究者は、やっぱり似た者同士のような気がする。ばかばかしいこと、無駄なことを真剣にできるおとなでありたい。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「アーティストは、新しい切り口で世界のおもしろさを切り取って見せてくれる。そうやって、既存の枠組みをこわして新たな物の見え方を示してくれるのが、アートの力だと感じている。  それは、石を拾うことに似ているのかもしれない。正月に実家に帰ったら、机のひきだしに子どものころに拾った石ころが眠っていた。ぴかぴか光った宝石のような石ころ、石器のようにとがった石ころ、顔のように穴があいた石ころ。どれも道端に落ちていれば、ただの石だけれど、自分ならではの価値を見出すことで、かけがえのない「石ころ」になる。  価値のないものに価値を与える。子どもがもっとも得意とすることだ。  ふだん見慣れた物でも、別の物に見立てることで、新しい意味や価値が生まれる。価値を与えるという行為にも想像力が一役買っていそうだ。  いっぽう、おとなの目には、石は石のままでしかない。そもそも、石の一つひとつに目を向けることさえ少なくなっているのではないだろうか。  ふと気づいてしまった。チンパンジーの絵を研究しているというこの状況も、はたから見たら荒唐無稽な、ばかばかしいことかもしれない。むしろ気づくのが遅いといわれるかもしれないけれど、自己紹介でいったん怪訝な顔をされるのは、たぶんそのせいなのだと。  アーティストと研究者は、やっぱり似た者同士のような気がする。ばかばかしいこと、無駄なことを真剣にできるおとなでありたい。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「 さて、この旅の最終目的地は、スイスのローザンヌにあるアール・ブリュット・コレクションだ。前述のように、アール・ブリュットとは、正規の美術教育を受けずに自発的な表現活動をおこなう人たちのアートのこと。その概念を提唱したフランスの画家、ジャン・デュビュッフェのコレクションにはじまる美術館だ。  洞窟壁画からアール・ブリュットへ、その道すがら、各地の美術館や博物館を訪れた。ネアンデルタール人の石器、クロマニョン人の壁画、ケルトの遺跡、エジプト文明の出土品、中世の絵画、ホドラー、クレー、ピカソにバスキア、各地の民族アート、そしてアール・ブリュット。さまざまな時代、さまざまな場所でおこなわれた人間の創作活動と向きあう旅となった。  思いのほか印象に残ったのが、ジュネーヴのバルビエ゠ミュラー美術館という小さな美術館だ。街なかの通り沿い、見過ごしてしまいそうな狭い間口の建物にある。展示物の数は少ないが、コレクションのセンスがいい。アフリカやポリネシアの交易で手に入れたものを中心に、選りすぐりの装飾品や仮面などが展示されていた。  目をひいたのが、無数の白いビーズでつくられた仮面だ。よく見るとビーズは、三ミリほどの小さなタカラガイでできている。その小さな貝殻の一つひとつに、小さな穴を開けて糸を通し、仮面に編み上げたものだった。  ほかにも、木の棒の表面にミリ単位のレース模様のような彫りがほどこしてあるもの、油断したら破れてしまいそうな薄い金箔に繊細な模様が刻まれたものなどもあった。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「やはり、アートとは石ころを拾うようなことではないか、それまでもっていた概念をこわして、価値のないものに価値を与えることなのではないかと思った。  拾った石ころに自分だけの価値を見出すときと違うのは、そこに「手」がくわわることだ。いかにすぐれた「手」をくわえるか、いかにたくさんの「手」をくわえるか。アートの語源は、元をたどると、ギリシア語のテクネ( techne)。すなわちテクニックの語源でもあることにつながってくる。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著



    「たとえば藤森さんは、もともと建築史が専門で、見て、調べて、考えるということをひたすらやってきたそうだ。設計をするようになっても、まずは、ほかのどんな建築にも似ないようにと頭で考える。そこに偶発的ななにかがくわわったとき「ちょっと越える」のだという。  最近の講演でも「発酵させているものを出すようなものだと思っている。そこに光をあてると、菌が死んでしまうような気がする。だから考えないようにしている」とおっしゃっていた。  いろいろなものに目を向け、いろいろなことを感じ、いろいろなことを考える。そうして蓄えられたたくさんの材料が、その人のなかでまじりあい、じっくり醸される。そこに外からちょっとした刺激があると、さらに発酵が進んで、ぽっと出てくるようなものなのかもしれない。  それは科学者の発見とも通じそうだ。アルキメデスの「ユリイカ」や、ケクレのベンゼン環など、発見は、しばしばお風呂や夢のなかでおこる。とにかく考えて、考えて、考え尽くしたすえの一瞬の「考えない」無の瞬間なのだろう。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「 「リンゴ一つでパリを驚かせてみせる」はポール・セザンヌの言葉だが、まさにリンゴに驚かされることになった。絵による表現の可能性とおもしろさ。それはアーティストだけのものではないと思った。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「能の稽古では、とにかく型を覚えなくてはならない。他人の轍を踏むことを強いられるのは、とても苦しい。しかし、世阿弥に「稽古は強かれ、情識はなかれ」という言葉がある(『風姿花伝』)。いかに自分をゼロにして吸収できるか。そして、自分のイメージを排することではじめて得られるものがある。不自由のなかの自由にこそ、喜びや創造性がある。  そんなお話だった。つまり、自分独自の表現などと考えるよりも、まずはきっちり枠を身につけることが肝心だ。そのうえで身についた枠を破るとき、はじめて創造がある、ということ。日本の武道や芸能の修業には「守破離」という言葉がある。守る、破る、そして離れる、だから、さらにその先に、枠を意識しないぐらいの究める境地があるのかもしれない。  考えてみると、わたしたちは知らず知らずのうちに、たくさんの枠に囲まれて暮らしている。所属する社会の常識、学校で教えられた知識、生まれた時代の価値観、既成概念、自分の癖や思考パターン。もちろん、そうした枠があるおかげで、効率よく、しかも安心して社会生活がいとなめる。  でも、枠のなかだけで過ごしていたら息苦しくなる。そして枠がつねに正しいとも限らない。  そんなときこそアートだ、と思う。アートには、枠をこわして、新たな価値や新たな物の見え方に気づかせてくれる力がある。それは枠の外にいるだれかに暴力を向けるようなものではない。自分自身がとらわれている枠に気づき、それを内側からこわす力をひきだしてくれるもののような気がしている。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「自然を美しいと感じるのはなぜか。自然の美に感動することと、人工の美、つまりアートに感動することは違うのか。  その問いをもつきっかけになったのが、アフリカの民族アートだった。  うす暗い展示室に、西アフリカのさまざまな年代の造形物が並ぶ。しばらく見ているうちに、ざわざわと鳥肌が立ってきた。仮面や装飾品、木彫などが多かったが、具体的にどれに感動したというのではなかった。そこに並んだたくさんのものに、ただ圧倒されてしまったのだ。なぜだかわからないまま、たしかに自然の美しさや大きさを感じたし、生と死ということが迫ってきたようにも感じた。  外見的な均整や洗練といった言葉とはほど遠い。その体験は、それまでに思っていた「美しい」とはまるで違うものだった。  アートは、あらかじめある美を追究するものではなく、自然のなかの「なにか」、人のこころに響く「なにか」を切り出してくるものなのではないか。だから実際に自然を見るという行為以上の強烈さをもたらすことがあるのではないかと考えるようになった。  その後、進学した芸大の大学院で、所属先の美術解剖学研究室の布施英利先生がレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉をよく引用されていた。とくに「ダメな画家は画家に学ぶ、優れた画家は自然に学ぶ」という言葉だ。いろいろなアートに触れるようになって、それを裏づける事例によく出会う。  パウル・クレーもその一人だ。クレーの絵は抽象画が多く、いかにも自然を描いたという感じはしない。でも、スイスのベルンにある美術館を訪れると、再現されたアトリエに、鉱物や貝殻や植物の標本がいくつも飾られていた。クレーのバウハウスでの講義をまとめた『造形思考』に、こう書かれている。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「抽象は、英語ではアブストラクト。つまり抽出だ。自然からエッセンスを抽出するのが、抽象表現であり、それこそが芸術の本質である、ということだろう。古典的な芸術論では、芸術は自然の模倣であるとされていたが、むしろ自然からの抽出というべきものかもしれない。  クレーは「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある」ともいっている。抽出することで、人に見えていないものを見えるようにすることができる。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「子どものころの愛読書は、もっぱら絵本や童話だったが、たまには図鑑を手にすることもあった。ひそかなお気に入りは「爬虫類」の図鑑。失礼ながら、爬虫類そのものへの興味はあまりなかったが、いつもどきどきしながら本を開いた。ページをめくっていって、ヘビのページにくると、ぞわっと鳥肌が立つからだ。自分の意思とは無関係に鳥肌が立つのがおもしろくて、本棚の前で息をひそめてページを開いた。「怖いもの見たさ」の言葉どおり、怖いものには人を惹きつける魅力がある。  遊びにも「怖い」要素がある方がだんぜん盛り上がる。おにごっこにかくれんぼ、木登りにドッジボール。年上の子と遊ぶとスリルが多くて楽しいし、ブランコやシーソーなどの遊具も、ちょっと危険なぐらいの方がおもしろい。遊び慣れたすべり台でも、とびきり危険なのぼり方やすべり方を工夫するものだ。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「こうして、チンパンジーもちょっとだけ「怖い」のを楽しんでいる節がある。しかし、どう見ても人間ほど「怖い」のが好きな動物はほかにいない。ジェットコースターにお化け屋敷、ミステリーに怪談話、ゲームにギャンブルにバンジージャンプ。おとなになっても、しかもお金を払ってまで「怖い」を求める。「怖い」は、なぜそんなに人間を魅了するのだろうか。  背骨の骨折から復帰してまもなく、古本市をぶらぶらしていたら「恐怖」という背表紙が目に飛び込んできた(ラッシュ・ドージア Jr.『恐怖──心の闇に棲む幽霊』桃井緑美子訳、角川春樹事務所、一九九九年)。ちょうど PTSD的な症状に悩まされていたので、なかば救いを求めるようにしてその本を手にした。  それは、恐怖という情動について、脳や身体の生理学的なメカニズムを中心に、進化的な背景から解説した本だった。現在進行形の自分の体験と重なって、これ以上ないリアリティを感じながら読んだ。おかげで、自分のからだとこころにおこっている出来事を客観的にとらえることができた。  恐怖は、身の危険を回避するための基本的な情動の一つであり、多くの動物に共通して備わっている。危険なものを察知すると、瞬時に身がすくんだり、飛びのいたりする。大脳辺縁系や、自律神経系を中心とした原始的なシステムだ。  危険に対する選択肢は二つ。逃げるか、戦うか。交感神経系を優位にして、心拍や血圧を上げ、筋肉や脳に優先して血液を送る。だからふだんは出せないような大きな力が発揮できることもある。「窮鼠猫を嚙む」や「火事場の馬鹿力」の科学的な根拠だ。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「 「美しい」が「怖い」と親和的な要因も、一つはこの報酬系にありそうだ。神経美学の川畑秀明さんらの研究によると、絵を見て美しいと感じるときにも、やはり報酬系が関わっているという。  自分が恐怖を感じた体験をあらためて思い返してみると、「美しい」につうじる部分はほかにもありそうだ。  たとえば、恐怖は頭よりも先にからだで感じるということ。原始的なシステムの方が、危険を察知してからの反応時間が短いからだ。見た物が「なにか」を認識するより先に、身がすくんで、冷や汗をかき、心臓がどきどきする。ふだん自分の心臓の動きを自覚することはあまりないけれど、このときばかりは心臓がその存在を主張する。自分のからだに、自分の意思や意識を超えた「自然」を感じるときでもある。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「観客の想像力をかきたてるシンボルではない表現といって、そのままあてはまりそうなのが俳句だ。たった一七音で映像を切り取ったり、感覚や心情を呼びおこしたりすることができる。これも多くの言葉が「ない」からこその「不在」の芸術だろう。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    そうすると、上手に描けないから絵が苦手、という子が出てきてしまう。おとなになると、上手な絵を描くには、特別な才能や絵心なるものが必要で、自分にはそれがないから描けないと思い込んでいる人も少なくない。  でも、写実的に描くのがむずかしいのはしかたがない。人間ならではの認知的な特性が、そしてじつは表象を描くために必要な認知的な特性が、写実的に描くときには邪魔になるのだと考えている。  小さな子どもが描くのは、丸だけで顔を描くような記号的な絵だ。「顔には、輪郭があって、目が二つあって、口がある」という、頭のなかにある表象スキーマ、つまり「認知」された「知っている物」を描いている。  いっぽうで見た物を描く写実的な絵では、網膜に写る光の配列、つまり物を「なにか」として「認知」する前の「知覚」を描こうとする。  ところが言葉をもった人間は、目に入る視覚情報を「知覚」すると、つねに「なにか」として言葉に置き換えて、概念的に「認知」してしまう癖がある。そこで、見えているつもりなのに描けないというジレンマが生まれるわけだ。  小学校の高学年のころ、写生で木を描くのに悩んだ記憶がある。木の枝一本一本が目ではちゃんと見えているのに、描こうとするとうまくいかない。見れば見るほど、たくさんの情報があふれていて、すべてを描き写すのはとうてい不可能に思えた。結局、左右に適当な枝分かれをつくってごまかしてしまった。記号的な表現に逃げたのだ。  学校ではいつも、上手に描こう、きれいに描こうという気持ちがどこかにあった。その結果、より複雑な描き方の記号を探し、こぢんまりとした絵になっていたように思う。  そのころ、家で新聞を読んでいる母の姿を、こっそりスケッチしたことがあった。このとき、なぜかいたずらごころのスイッチが入って、とことんおもしろく、変な絵にしちゃえ、と思った。無造作な髪に、ぎょろっとした目、鼻の穴や顔のしわもありのまま、むしろ誇張するぐらいに描いた。

    「 だから、子どもの絵を評価する言葉も「上手」より「おもしろい」がいいと思っている。  「おもしろい」は絶対的な評価ではなく、あくまで個人の感想だ。人によって、そしてテーマや色合い、構図などの視点によって、多様な「おもしろい」がありうる。そのぶん見る方も主体的に向きあう努力が必要だ。いいかげんな言葉のようで「上手」よりずっと誠実で、アートに適した評価ではないか。  ただし「上手」に、というか写実的に描こうとすることを否定するわけではない。  芸大の美術解剖学研究室にいたころ、毎週水曜は人物デッサンの日だった。解剖学なので、モデルさんの隣には骨格標本と筋肉模型も並ぶ。同じ研究室の仲間たちは、難関の実技入試を突破してきただけあって、さすがに「上手い」。最初は少し気後れしてしまったが、鉛筆を動かすのは楽しかった。  朝から数枚のクロッキーとデッサンを終えて、お昼に外に出ると、いつも不思議と目がよくなったような気がした。ふだんよりも緑が鮮やかにきらめき、葉っぱの一枚一枚もはっきり見える。世界は光と影で構成されているんだなあ、などと感慨にふけったりもした。  写実的に描くことは、見る力を磨くことなのだ。  学部生のころに生物学の実習でスケッチをしたときも、似たことを感じた。記録をとるためだけなら、写真の方が手っ取りばやい。でも時間をかけてスケッチをすることで、はじめて構造が見えてきたりする。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「 「わたし」をなるべく排除して書く論文は、読まれて恥ずかしいという気持ちにはあまりならない。でも、エッセイとして「わたし」を出して表現することは、とても恥ずかしくて、とても怖いことだった。最初のころはとくに、こんなに主観的なことを書いてしまっていいのかと恐る恐る筆を進めた。  でも周りから感想をいただくと、むしろわたしの「わたし」を出すことで、読む方も、それぞれの「わたし」と照らしあわせたり、ふりかえったりして、自分と向きあいながら読んでくれているのだと知った。  客観性が求められる論文と、主観的に「わたし」の視点から綴るエッセイで違うのは、その道のつくり方のように思う。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「意味を伝えるための文字から意味が隠されている。だから抽象画に向きあうときのように書と向きあった。筆の動きを想像しながら追っていくと、リズミカルな音楽を聴いているような心地にもなる。言葉や文字の不思議さについてもまた考えさせられた。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

    「先日、「又吉直樹のヘウレーカ!」( NHK Eテレ)という番組で又吉さんと対談する機会があった。芸人として、小説家として、表現に向きあう又吉さんならではの視点もあり、描くことと書くことの共通点が見えたのもおもしろかった。  番組のなかで、京都造形芸術大学の美術工芸学科の学生たちが又吉さんをスケッチした。きわだったのは、その表現の多様性。どんな言葉を並べるよりもわかりやすく、人によって見え方やとらえ方が違うということを示してくれた。  並べてみると、わたしの第一印象もこの絵の感じだったな、やさしい雰囲気が出ているな、この姿勢やしぐさがらしいな、家にこもって小説書いていそうだな、などと、逆に又吉さんのいろんな一面が見えるようでもあった。人こそ、一つの視点ではとらえきれない、たくさんの側面をもつ存在だということにも気づかされた。」

    —『ルビンのツボ 芸術する体と心』齋藤 亜矢著

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    2026年10月11日
  • ルビンのツボ 芸術する体と心

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    京大の医学修士から藝大に行って美術博士となり、チンパンジーに絵を描かせる研究をしたりといった方のエッセイ

    科学や芸術に関しての思索が、とても興味深く、深い内容なのにカタくなく、それでいて鋭いけれど優しく、凄く素敵。

    経歴も変わってらっしゃっていろいろな知識が頭の中にありそうだが、しっかりご自身の視点があって、他には醸し出せないものとなっている

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    2025年10月18日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

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    斎藤亜矢『ヒトはなぜ絵を描くのか:芸術認知科学への招待』2016

    知性と感性
    人間はどうして絵を描くのか、を古代の芸術から、チンパンジーの絵、子どもの絵描きを通じて、私たちがどうして絵を描くことを楽しんだり、絵の鑑賞を好きになるのかを考える本。読みながら自分が子どものとき、お気に入りのおもちゃに所狭しと貼ったシールや、絵本の隙間に書いた落書き、大きな模造紙に書いた兵隊の絵。。。その時自分がどんな気持ちだったかを思いだした。

    この本を読んだ正直な感想は、この著者のような知性と感性を持ちたい、ということだ。著者は、一見不可解に見える、子どもたちやチンパンジーの絵や、絵を描いている時の感想をじっくり観察しながら、それぞれの子どもやチンパンジーにとってどんな意味があるのかを考えて考えている。そして自分自身のいろんな経験を思い出しながら、分析しながら共感しながら、考えている。。。そのように知性と感性のあいだを絶えず行き来しながら分析する姿は、科学者であり芸術家であり、本当の意味でヒューマニストであると感じた。自分自身に子どもができたら、著者のようなまなざしを持って子どもに接してあげれるような親になりたい。

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    2020年04月01日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

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    芸術認知科学は造語。チンパンジーや子どもの実験や芸術論などを使って、想像と創造について迫ろうとしている。

    言語を使ったり、物事を記号として認識している世界にどっぷり浸かっている自分には、新たな視点を知らせてくれる取組である。

    仕事においてたたき台を作ったり、そもそもとりあえず動き出せといったことが有効である理由がわかった気がする。

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    2024年09月16日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

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    チンパンジーの絵の分析から出発し、人はなぜ絵を描くかについて考察する。
    専門的な用語は殆どなく、全体的なボリュームも100ページちょっとであるため、かなり読みやすい。
    個人的には、記号性が人の絵や認識にどのように影響を与えるのか、という話が特に印象に残った。対象の言語化はできればできるほど良いことだと思っていたが、本書を読むと必ずしもそうとは言い切れないのかもしれないと感じた。
    刺激記号があった方が自由な発想が生まれやすい、というのは絵を描くことに限らず、仕事や趣味全般について言えることだと思う。読んだ後に実際に街へ出て色々なものを見てみたくなる本。

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    2024年01月06日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

    Posted by ブクログ

    読んだキッカケはahddamsさんのレビュー(3月5週のBestレビュー掲載)で、目的は現在松木武彦さんの本を熟読しているので、「芸術認知科学」とは何か、概略や歴史を知りたかったため。であるが、その目的は達成されなかった。概略は、この本全体で記されている。ちょっと要約できない。

    「ヒトはなぜ絵を描くのか?」その問いと答えそのものが、とても興味深いものだった。

    ハッキリしたものでは、約4万年前、痕跡を入れるとネアンデルタール人の約5万年前から、ヒトは洞窟に表象絵を描いてきた。しかしながら、DNAの差わずか1.2%のチンパンジー(600万年前に共通の祖先から分かれた)にいろいろ絵を描かせようと試みるも難しいことがわかってきた。そこから「ヒトとは何か」が浮かび上がってくる。

    チンパンジーは描かれた表象を見分けることができる。恣意的なシンボルをある程度理解し、扱うこともできる。そして画風があるほどに描線をコントロールして描ける。けれども、顔の輪郭に「目」を入れることさえできない。2歳のヒトは出来るのに、である。

    今ここに「ない」ものをイメージして、補う。‥‥想像する力をヒトはなぜ身につけたのか?

    小説ではないのでネタバレするけれども、それは言語を手に入れたからだ。面白いのは、そのことによって「失った能力」もあるだろうと推論していることである。それは(この言葉は使われていないが)「カメラアイ能力」である。宮部みゆきが持っていると私が推測している能力、高村薫「レディ・ジョーカー」で合田雄一郎が発揮する能力、である。
    私たちは言語を持ったことによって、目に入るものを常にカテゴリー化し「何か」としてみようとする記号的な見方をしている。だから言語を獲得する前の幼児は却って「カメラアイ能力」を持っているのだという。とても興味深い。

    子供がよく描く絵の一つに「頭足人」というのがある。頭のすぐ下に足がつく。これは「胴体」という概念が子供には漠然とし過ぎているためだという。そういえば、私、頭足人たくさん描いた覚えがある。突然思い出した。

    そういうわけで、洞窟絵画の写実性は際立っている。一方、ヒトは「アート」を創造してきた。何かわからない「何か」をみようとすると、ヒトはアートとして表現する。
    「想像」と「創造」はヒトの根源から深く結びついているのである。

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    2023年10月04日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

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    チンパンジーとヒトを比較した研究から、絵を描くことについてコンパクトにまとめている良書。内容は読みやすく、予備知識不要でわかりやすいが、なぜかフォントが私には見づらかったのが残念。

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    2023年05月02日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

    Posted by ブクログ

    先日観劇したお芝居の演者さんがあまりにも素晴らしくて、帰宅早々その方のイラストを描いた。
    人物なんかは簡略化したフォルムでしか描けないが絵に向き合っている間は本当に楽しく、描き終わる頃には「あの感動をせめて等身大で、あわよくばそれ以上に表現できるようになりたい」と、妄想がえらく飛躍していた。
    漫画を読まないようにしているのもそのためである。人一倍どハマりするばかりか、自分もファンアートを描いてみたいと冗談抜きで寝食を忘れてペンを走らせかねない…。(正気に戻った時が一番恐いけど笑)

    その気持ちの興りはどこから来るのか。今もついて離れない妄想を分散させるつもりで本書を取り寄せた。
    「絵を描く」という行為を芸術と科学の観点から考察するというもの。「描きたいから描くんだ!」と言ってしまえばそれまでだが、奥部まで突き詰めていけばもっと面白い答えが見つかるかもしれない。
    いつも以上に明快な動機を胸にページをめくった。

    タイトルの「芸術認知科学」とは著者(現 京都藝大教授)が命名した、一見相反する芸術(「感性」)と科学(「知性」)の関係性を追求していく分野のこと。
    ラスコーやアルタミラといった洞窟絵画を起点に、チンパンジーとヒトの子供の描画を比較した実験の様子を展開している。
    目的は不明瞭なものの岩の凹凸を動物に見立てたり画材のバリエーションも豊富、我々の祖先は早々に描画の楽しさに目覚めていた。実験でも空白のスペースに何かを描き入れるのは人間にしかできないことで、想像力、すなわち「ない」ものをイメージする力に長けているという結果が出ている。

    前半は期待していたような「答え」は得られなかったが、ヒトが絵を描く行為に関心を寄せていくプロセスが肌で感じ取れた。
    後半の第4章「なぜ描くのか」と第5章「想像する芸術」では、絵を描きたい(あるいはその他アート作品を制作したい)という衝動がフォーカスされており、何度か冒頭の自分と重ねていた。

    ヒトの子供の例ではあるが、絵筆の動かし方によって変わる描線を「探索」したり絵具の香りを感じたりと、五感をフル稼働させる。そうして世界を知っていくことが絵を描く「おもしろさ」に繋がるんだと著者は述べている。
    完成後を眺めるのも好きだけど、描いている時が一番楽しいというのは激しく同意だ。

    極めつけは、美術家 内藤礼さんの言葉。
    「自分が感じたことをアートの中に表現したい。別にだれがしなくてもいいのだけれど、やらずにはいられない」
    美しいもの、すなわち新しい世界を知った時に身体に流れ込んでくるあの衝動。衝動が筆を動かす原動力となり、それは心ゆくまで止まらない。

    結局「描きたいから描くんだ!」に終着しそうな雲行きだが、描いている時の「おもしろさ」も彼女は渇望しているはず。そう(描きたいという志だけは同じ)自分は睨んでいる。

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    2023年03月27日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

    Posted by ブクログ

    この番組をじっくり見たのは、おそらく初めて
    NHK Eテレ「又吉直樹のヘウレーカ!」
    チンパンジーと人間の子どもの描き方の違い
    洞窟絵を描いた人間、想像力、言葉を持っているか

    絵を描くのはなぜ?考えを整理するため?印象を自分のものにするため?

    ・描くことの面白さを楽しむ、結果(作品)ではなくプロセスを楽しむ 作り出されるイメージを楽しむ

    ・何かわからないものをみつめていくと頭の中にイメージの探索がおこる
    星の王子さまのウワバミ、こどものココロ

    ・作品を見るときアーティストのフィルターを通した見え方に出会うことができる

    ●記号的な見方ーー言葉を習得
    ●直感的な見方――写実的な絵 ex.洞窟壁画
    デッサンは直感的なモノの見方を身につける認知的な作業

    テレビを見てから、本も読んでみました!
    大変興味深い内容でシロートの私にも分かりやすかったです!
    著者の経歴もすごいですね
    理系から芸術系につながるとは!大変回り道をして苦労されたことと思いますが、こんなふうにいろんな切り口で考えられる人が、これから必要になっていくと思います

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    2019年06月07日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

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    子供の頃には同じキャラクターをいくつも描いたり、様々な色のペンで模様を描いたり、今思い返してみると何が面白かったんだろうと思うような事がたくさんありました。あれらも脳や認知の発達に必要な過程だったということでしょうか。ヒトとチンパンジーの比較(絵を補間する能力など)の話題も面白かったです。

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    2014年11月03日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

    Posted by ブクログ

    クロマニョン人が絵を描いていたが、そこに筆者が注目していることは今ここに「ない」ものを描いていることだが、私が思うに、ヒトの「ない」ものを想像することは、後にヒトの「形而上学」を成立する萌芽が隠されているのではないかと、深読みしてしまいますが、いかがなものなのでしょうか。今ここに「ない」ものを想起するヒトの宿命みたいなものを感じないではいられません。今後もよく考えなければならない課題です。

    5章「想像する芸術」では、概念を拒否するアートを主題に展開されているが、子どもは、概念から逸脱した絵を大人とは違って自由に描くことを主張している。概念や言葉の手前のイメージを想像する奔放さの可能性を指摘。わたしは、言葉によらないアートの特徴を今回改めて考えされられた。

    以上のことから、絵画は、「形而上学」からとらえた絵として、また概念を拒否するアートとして成立していることに改めて考えさせられた。

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    2014年08月05日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

    Posted by ブクログ

    タイトル買いしたので予想していた方向性とはちょっと違ったが、軽く読めて面白かった。
    内容はチンパンジーと幼児に絵を描かせて、何が共通して何が違うのか、年齢と共にどのような変化があるかを調べ、人が物を認知する仕組みと発達について調べたもの

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    2026年08月08日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

    Posted by ブクログ

    「ヒトはなぜ絵を描くのか」という問いには、様々な答え方があると思う。本書は「現代の画家たちはなぜ絵を描くのか」ではなく、根源的な部分である「描くことの起源」について、以下のような話題を交えながら扱っている。
     ・クロマニョン人たちの残した洞窟壁画
     ・ヒトの子ども、およびチンパンジーの描く絵の研究
     ・脳科学や認知科学の観点からの考察
       - チンパンジーは表象画を描かない。
       - ヒトは対象を記号化して覚えるのに対し、チンパンジーは写真のように記憶している。
       - サヴァン症候群の女の子の事例

    全5章のうち、「1.描く心の起源を探る旅の出発点」、「2.ヒトの子どもとチンパンジー」、「3.「ない」ものをイメージする力」ではヒトがなぜ描くことができるのかという点について述べている。
    「4.なぜ描くのか」ではいよいよ、ヒトはなぜ絵を描くのかに迫る。
    「5.想像する芸術」ではこれまで述べてきた点を踏まえ、「描くことの起源」がアートとどのように関わっているのかについて考察している。アートというのは捉えどころが難しく感じることがあるが、アート作品が鑑賞者にもたらす作用を具体的に説明しているのが良かった。
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    ・チンパンジーは具体的なモノの形、表象画を描かないという話が興味深い。表象画を描くのはホモ・サピエンスのみ。チンパンジーたちは個別の画風があるほどに描線をコントロールして描けるにも関わらず、抽象表現主義を貫いているとある。
      →この理由について、今ここに「ない」ものを想像して補う力が深く関わっており、それは言語の獲得と関連しているのではないかとしている。

    ・「大型類人猿の絵画展」という催しが存在する。
      →人間が描く、「何を描いているのかわからない」抽象画とはどう違うのか? 絵画とは何かを考えてしまう。

    ・タイトルにもなっている「ヒトはなぜ絵を描くのか」という問いに対しては、科学的に明確な答えが出ているわけではないようだ。端的には、面白いからだとしている。チンパンジーが描く時にも、食べ物による報酬は必要なく、自発的に描く。描くという行為自体による五感を用いた探索が面白いのだという。加えてヒトの場合は、イメージを外化する面白さ、イメージを共有する喜びが挙げられている。

    ・「描くことの源流」がアートとどのように関わっているのか、優れたアートはなぜ心を動かすのかといった点についての考察が展開される。以下の言葉でアートの作用を整理している。
      - 概念を拡張するアート
        新しい「何か」を知ったり、自分が持っていた「何か」の概念に新しい要素をもたらすなど、鑑賞者に気づきをもたらす。
      - 概念を覆すアート
        転換のきっかけを与え、既存の概念を覆す。エッシャーの騙し絵、ルネ・マグリットをはじめとするシュルレアリズム、マルセル・デュシャンのレディーメイドが例として挙げられている。
      - 概念を拒絶するアート
        「何か」であることを拒否することで、私たちの記憶や情動を掘り起こしたり、不安定なままにしたりする。カンディンスキーの抽象絵画のように、「何か」がわからない作品を見つめていると、頭の中でイメージの探索が起こる。そこで気づきがあったものは、深く印象に残る。アートは制作者だけでなく、鑑賞者にも創造的作業を促す。

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    2025年01月29日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

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    人間が生きていく上で、絵は描けても描けなくても良いものだが、何故人間は絵を描くのだろう?私自身もずっと考えていたテーマ。写真で事足りるのに何故?子供は何を認知して描いているの?この本を読んで少し見えてくる事もあった。

    絵は言語を使わないで表現できるツールでありながら、その背景は言語と無関係ではない。
    今ここにないものをイメージして補うという認知的特性…想像する力、見たものを描くのではなく、知っているものを描く。(子供の絵を描く行為)
    見たものを頭の中でカテゴリー化し、シンボルに置き換えていくと、情報として記憶から取り出したり他者に伝えることが容易になる。
    私達は言語を持った事で目に入るものを無意識に言語のフィルターを通して世界を見るようになった。
    ヒトの子供の「ふり遊び」「見立て遊び」など動作を介した想像力も言語が急速に発達する時期と一致。
    チンパンジーは細部、部分に惹きつけられ、ヒトは細部よりも全体で捉える傾向がある。サヴァン症候群は芸術家多い。
    言語能力は描く為に必要か、邪魔なのか?記号的な絵と写実的な絵の違い。
    子供の描く絵は記号的。写実的な絵を描くには記号的な見方を抑制して直感的な物の見方を身につける認知的な訓練がいる。

    アートとは新しい何かに出会わせてくれたり、すでに持っていた何かの概念(スキーマ)拡張したり、壊して作り変えたりする。何かを拒否する事で私達の記憶や情動を掘り起こしたり不安定なままにし、心をざわつかせるもの。

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    2017年12月17日
  • ヒトはなぜ絵を描くのか 芸術認知科学への招待

    Posted by ブクログ

    チンパンジーに絵を描かせる実験を足がかりに、表題の疑問に迫る。幼稚園の頃、自分も描いた記憶がある顔から手足が伸びた人間の絵(頭足人と言うらしい)の例が出されていて、懐かしくなった。この頃から自分の絵描き能力は、大した進化をしていない。

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    2015年04月23日