ローレンス・レッシグのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
インターネットを語る上で、もはや古典でありながら未だにその価値は全く色あせない名著。久しぶりに読み返したくなり再読するが、やはり面白い。
今やクリエイティブ・コモンズの擁護者としても知られる法学者ローレンス・レッシグの代表作である本作「CODE Version2.0」は、1999年に発表された「CODE」の事例を幾つかアップデートした上で2006年に刊行されている。本書は一言で表すなら、インターネットを巡る”規制”の総体を4つのディメンジョンで示したうえで、特に「アーキテクチャ」を構築するソフトウェア、即ちコードが最も重要であることを看破した点にある。
我々は日常的な用法として、”規制”という言葉を用いるときに、国や行政といった立法権を持つ主体が法律や省令、ガイドラインのような文書で人々の行動を特定の方向にインセンティブ付けする、という姿を想起することが多い。しかし、レッシグの”規制”の概念はもっと広範なものであり、一般的に我々がイメージする”法”以外に、”規範”、”市場”、そして”アーキテクチャ”の4点から構成される。
例えば、かつてのNapsterのようなMP3のP2Pダウンロードに対する規制は以下のような総体として示される。
・法による規制:著作権法などによる罰則規定
・規範による規制:教育や業界団体を通じたP2PのMP3ダウンロードが不法であるというキャンペーンと世論形成
・市場による規制:AppleによるiTunes Music Storeのように1曲1ドルという安価な価格設定を通じた公式MP3のマーケットプレースへの誘導
・アーキテクチャによる規制:CCCDのようにMP3へのファイル変換を禁じる技術の導入
そして重要なのは、
・この4つは独立して存在しているのではなく、相互依存性を持つ。特に法が規範・市場・アーキテクチャに働きかけることで、一見して法が強制しているようには見えないが、何らかの立法主体の思惑が実は強く反映されていることが往々にして起こり得る
・インターネットでは最後のアーキテクチャによる規制が最も人々の行動を束縛する。なぜならば、リアルワールドにおいては建築・デザインといった実空間の操作によってしか行えなかったアーキテクチャの変更は、インターネットにおいてはソフトウェアのコードを変更するだけの労力で実現できてしまう
という点を鮮やかに描き出した点にある。
1999年にレッシグが描いたこの規制の総体は、そこから20年が経過した現代において、どのような重要性と示唆をもたらすのか?例えば、それは1999年と比較して明らかに強大になりすぎた特定のプラットフォーマーの影響力をどのようにバランスさせるのか、という点で、GDPRのような法による規制以外のアプローチが有効であることを含意するだろう。それについては、またいつか。 -
Posted by ブクログ
サイバー空間というものが非常に曖昧であり、その曖昧さが実体空間の法の持つ曖昧さをも浮き彫りにした。それからどうするのか、というのがここでの議論となるのだが、コードがサイバー空間の法であり規制でもあるが規範ではないという点を理解して議論しなければならない。また、規制するのは法だけでなく市場も規制するという点も理解しておかなければならない。さらに「コードを書くのは誰か?」という問題もあって一筋縄ではいかない。そして「自由とは何か?」「民主主義とは何か?」という問題にまで発展してしまう。
サイバー空間における法のあり方についてのかなり深い議論がなされており、また範囲も非常に広いため一読しただけではなかなか理解するのは難しい。しかし読み終わった後の名状しがたい不安感こそが筆者の求めるまず最初のものではないかとも思う。 -
Posted by ブクログ
憲法が保証する「規制の不完全さ」がアーキテクチャに_意図的に_コーディングされなければならない。/アイデンティティ層の導入により匿名性が失われる。/間接規制は不透明。政府は政治的コストを払わない。/憲法の前提が変われば、「翻訳」(読み替え)が必要になる。/プライバシーは損害賠償ルールではなく財産権ルールで。/「コードは法」は比喩に過ぎない。東海岸コードと西海岸コード。新シカゴ学派。/アーキテクチャと市場は事前に、法と規範は事後に規制する。
第三部 プライバシー
「情報銀行」はレッシグのプライバシー保護に関する「損害賠償ルールより財産権ルールを」と整合的。
「情報銀行」でプライバシーの財産権化が進めば「売血」のように「弱者はプライバシーを売り、強者はプライバシーを保つ」というプライバシー格差が社会問題になるだろう。これ小説の設定に使えるな。
P3PとOpenID Connectの融合みたいなのがトラストフレームワーク上に情報銀行を可能にするんだろうな。
インターネットにアイデンティティ強化層が導入されて「匿名でアクセスする権利」がなくなるとき、分人(ディブ)の法人格を認める法が作られる。
第四部 主権
企業がつくるサイバースペースの「主権者」はユーザーではなく、そもそも民主主義どころか「ユーザー主権」ですらない。むしろ人権が成立する以前の中世に似ている。
しかし、社会契約論的・一般意志的に自治の延長で「主権」を構成することもできる。それは株式会社よりもNPOなりが運営するサイバースペース・アーキテクチャにおいてありえることだが、前者においても「一般意志」を独裁者が体現すればいい。
ライフログの位置データにもとづく滞在時間から住民税が基礎自治体に配賦される未来。
もっと立法スピードが速ければ「コードへの法規制」が現実的にいろいろできるわけだが、次善策は業界団体の自主規制や共同規制かいな。 -
Posted by ブクログ
最初に書いておくと難読書。訳が非常に難しく(誤訳もあり?)、文章の組み立て方が非常に下手。恐ろしく読みにくい。が、重要な一冊。書かれた年代は少し古いが、ITの施策、提案、構築をする際に市場、法律、規範、アーキテクチャ(コード)という4点を意識することは非常に重要であることに気付く。
またIT黎明期に先人たちが何を求めていたか、何を目指していたかを捉えることは、時として浮つきがちな、この世界に確固たる基盤を示してくれる。
例えばプライバシーの問題を考える時、ITの世界ではそれを透明化することも秘匿することも容易(に見える)。だが、そもそもプライバシーとは何か?何をすべきで何をすべきでないか。この点を執拗に議論している本書を読むことでFacebookなどが見つめる未来の見え方も変わってくるはず。
IT屋でなくても、この本は一読すべき。もしろ興味が無い人こそ、ITが築こうとしている未来の一端を覗くためにも読んで欲しい。お勧めです!! -
Posted by ブクログ
「インターネットと法」というようなジャンルになるのだろうけれど、これはそういう狭い範囲の話ではぜんぜんない。たしかに全編にわたってネットの事例が沢山出てくるし、プライバシーとか著作権とかの話もある。でも、ネットは考えられるべき話の発端なんだと思う。
ネットやIT技術の進展は規制の実現可能性を高めるし、そうした技術の総体としてのアーキテクチャ自体が規制そのものとして参加者をコントロールしていく。それは、従来のコスト的にも技術的にも穴だらけの回避可能な規制ではなくて、回避がほとんど不可能ないわば法の完全執行が実現される世の中を作りだしうる。
そして、そんな完全執行が実現したとき、法は立法者がその法に託した状況を実現できるのかといえばそんなことはないだろう。たぶん過剰な規制が実現されてしまうんじゃないだろうか。法がそうした技術を想定していなかった、という運用上の不備なんかのレベルじゃなくて、法の考え方や体系まで考えなくてはならないようなものになりかねない。
だからこそ、法や制度、規範をどう考え直すのか、そこからどんな選択をしていくのか、が問われるはず。そして、それはとりもなおさず自分たちの社会だどうあるべきかが問われることなんだろう。 -
Posted by ブクログ
「CODE」はテクノロジーがどんな社会を生み出しうるか、という現状整理であり思考実験であったのに対して、これはどんな社会を目指しうるのか、という行動指向のもの。だから、
CODEほどのカチッとしたロジカルさはないし、思想面でも納得のいかないところがある。レッシグの実現したい社会がほんとうにいい社会なのか、まだ納得がいかない。それでも一つの可能性として、商業経済と交換経済とのハイブリッドの形はありうるだろうし、ただ商業経済だけを考えるのでは片手落ちであることは疑いようがない。
ひとつ疑問なのは、こういうかたちで社会制度を考えているひとというのはどの程度いるのだろう。とても可能性があると思うのだけど。コードという考えかたは、すくなくとも日本では社会分析の、ツールくらいにしかなっていないようにおもう。 -
Posted by ブクログ
基本的に訳者の山形浩生氏の解説に同意。
レッシグの言いたいことも分からなくはないが、子供たちを犯罪者にしないというだけの理由で、ファイル共有を合法化するというのはさすがに無理だろう。
それを合法化するなら、せめて
・それにより失われる、RO的著作者達の創造活動のためのインセンティブ、(会社等の支援環境を含めた)創造環境、及びそれらから生み出されるはずだった作品の量
と
・それにより生み出されるりミック作品の量、ファイル共有環境の充実により新たに生み出されるリミックス的ではない作品の量
を比較し、少なくとも後者が前者と同じ以上でないとだめだろう。
でもどう考えても、Winnyやマジコンを使う人間が創造活動にいそしむとは思えない。もちろん膨大な著作物利用可能環境の中におかれることで、新たな想像力・創造力が刺激されることはあるかもしれない。
しかしそもそも創造活動にいそしむものは、自分の作品について愛があり、それが故に他人の作品についても、自分の身に置き換えることで尊重することができる人間だろう。ファイル共有を行っている人間が追及しているのはただ単に自分の快楽だけであり、そこにモノを生み出すことに関する敬意はみじんも感じられない。
著作権のあり方を見直すというのであれば、人が自身の創造活動から得られる利益の範囲みたいなものについての考え方を示して欲しかったな。自己の作品の利用許可・禁止に関するn人ゲームの均衡解を求め、それによりどのような属性の人だとどのような著作物利用戦略の解になり、それにより得られる利益はどのくらいになるか。こういった話でもあれば、著作権に関する進展のない議論の応酬を超えた知見が得られると思うのだが。子供のため云々の情緒的な話をいくら繰り返しても、RO側は全く譲らないだろうし、一般人の意識も変わらないだろう。
訳者あとがきによると、レッシグは今後政治とか民主主義に関する問題に軸足を移すらしいので、多分彼の本を読むのはこれが最後だろう。うーん、まだ問題山積みだから、色々なアイデアを読みたかったんだけどな。