有馬賴底のレビュー一覧
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すごく良かったです。
そう思った大きな理由の一つは、素敵な禅語をみつけ、そこから今まで漠然と疑問に思っていた「凛々しさ」とはどういうものか具体的にイメージできたからです。
紅炉一点雪。こうろいってんのゆき、と読みます。
真っ赤に燃えさかった、暖炉の上に、一片の雪が舞い落ちると、その雪はすぐに解けてなくなってしまう。人生とは、そんなはかないものであるという教えです。
僕のこの捉え方は、一片の雪とは、自分がした良いことや、失敗してしまったことに置き換えられると思いました。
そういう自分がやってきた行いはどんな結果になったとしても、執着せず、すぐに次の方向をみること。
その姿勢が「潔さ」へと繋がり、結果、美しい凛々しさに至るのではないかと思ったのです。
執着しない人は潔ぎよくてカッコいい!
他にも、素敵な禅語がたくさん載っていました。
再読します!
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本来無一物。
自分自身の存在そのものが、そもそも無であり、空である。
事実は死と生のみ。
その間に得たり起こったりするものは、全て仮のもの。
まさに諸行無常。
こういう教えを知ることができただけで
この本を読んだ甲斐がありました。
下手なカウンセラー本よりも役に立つと思うし
生きる指針を与えてくれます。
やはり、古代から教え伝えられてきたものは説得力があります。
著者は波瀾万丈な人生を送られてます。
だから、読んでいても退屈しません。
禅のことも、とてもわかりやすく解説してくれています。
著者の京文化を守り伝えようとされている考え方にも
とても共感できました。 -
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書かれた経緯とかは不明だが、対談形式で西川さんという女性が有馬さんから話を引き出す感じ。難解な臨済録だが、こうしてお坊さんの語りを聞くと少しとっかかりがつかめる気がする。
赤松氏の流れを汲む有馬という良家の出で平成天皇のご学友だったけど両親が離婚し親から離れて九州へ、久留米や日田の寺で修行。22歳で3番目の師と出会い京都の相国寺へ。
そこから臨済録の話。大事なフレーズを以下のように抜き出してみる。生まれてしもうたんやからしゃあないやないか、生きろ。仏に逢うては仏を殺し、は煩悩を殺せ。自由になれ、そのためには悟りが必要だ。サトリを得ると死ぬも生きるも自在。密教の影響を離れた純粋な禅は大燈に始まる。無位の真人とは今ここの私、他人が見ている私に対して、一切の枠に捉われない自由な第三の自分のこと。無事の人とは執着しない人のこと。喫茶去は、日常の喫茶が仏作仏行と同じほど大切、日常をないがしろにして修行を積んでも観念的なものに過ぎない。五大から空を抜いた四大、四大分離とは死のこと。人間の一生は夢幻、現実とは生と死の2つだけ、それがわかったら自由。隻履の達磨の話。他人に惑わされる、それが人惑で、自分が納得したらそれでいい。外に求めて自分を失う、自由を失う。地獄は自分で造る、仏に頼り、経典に頼って地獄に堕ちていく。ほんまもんの悟りもない。生と死も否定する。迷いも不安も恐怖も自分が造っている。一瞬一瞬の体験を積み重ね学習する。自分を救えなければ他人も救えない。生死去住、脱著自由、当たり前の日常の中に生死にこだわらないという自由。結局は自由も幻、生死も幻、なーんにもない。幻でも確かにそこにある、そこにいる。 -
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人生を豊かにするのはその人の気の持ちよう、価値観だという当たり前にも感じることを、歴史的に高名な僧の言葉を引用しながら丁寧に説いてくれる本書。
人生を豊かに過ごす道はいわば心の持ちようと言うことになるが、これを実践するのは容易いことではない。その心の持ち方を日々の生活で実践できる考えや行動について教えてくれ、色々と心に残った。
掃除はその行為自体に意味があり、汚れたらでなく日々ルーティンで実施すること。自分の足下を見つめて日々を大切に生きること。他人に優しくすること。怒りや悲しみはどんな人でも起こるものでそれをいかに早く捨てるかが大事であること。ものや人に対する価値観の追求を止め、ありがたみを感じること。
こんな当たり前のことを実践しようと考える心持ちを学べた気がします。 -
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ネタバレ60歳からヘタれない生き方
~人は裸で生まれ、裸で死んでいく
有馬賴底著
2018年1月25日発行
幻冬舎
少しまとめて読んだ有馬賴底老師本、3冊目。すでに読んだ2冊とダブる部分は多いが、ごくごく短くて読みやすいエッセイをたくさん集めた本。爽やかに読めた。
有馬老師は臨済宗相国寺派第七代管長。京都五山第2位の相国寺はもちろん、末社の鹿苑寺(金閣寺)と慈恩寺(銀閣寺)の住職でもある。東京の名士(久留米藩主)・有馬家出身だが、幼い頃に両親が離婚して九州に。小僧から修行して8歳で得度。有馬記念の有馬頼寧の従兄弟の子にあたる。「宗教者九条の和」の呼びかけ人。
(メモ)
宝くじで大金を当てた人がその後の人生を狂わすことは、よく聞く話。強欲になったり、近づいて来る人を疑ったり、家族や親戚とトラブルになったり。宝くじなんか当たらなければよかった、と思うことも。好事こそ落とし穴だと思い、仮にそれがあっても一瞬だけ喜んで、あとはさっさと忘れること。
主人公という言葉は元々禅から出た言葉。唐代に瑞巌(ずいがん)禅師という人は医師の上で坐禅をしたことで有名。坐禅をしながらいつも大声で自問自答。
「おーい、主人公。しっかり目覚めているか?」「はいっ」
「おーい、主人公。人にだまされていないか?」「はいっ」
主人公とは、「本来の自分」という意味。本来の自分でいられるか?本来の自分を見失っていないか?を問うている。
仏教やキリスト教の関係者が中心に結成した「宗教者九条の和」呼びかけ人として、いつもポケット憲法を持ち歩いていて、時間があれば繰り返し読むようにしている。
自分以外のものに頼ったり、寄りかかってはいけない。自分自身をよりどころに生きる。御車間さまの最後の言葉が示す主人公としての生き方。「随処に主と作れば、立処皆真なり」と臨済禅師も語る。
頼るべきものは自分以外にない。その自分に執着してもいけない。「俺が俺が」はだめ、「自分は自分、他人は他人」。
禅語「青山元不動、白雲自ずから去来す」
山は動かないが、雲は自ずとやってきては去って行く。
青山はあなた、白雲は世間の価値や常識、あるいはそれに対するこだわりや思い込み。そうしたものに惑わされず、あなた地震を見つめることができれば、新たな人生を自由自在に生きていくことができる。
自分が一番エラいと思っていないか?
自分が一番ということは、他に二番や三番があるということではない。自分以外は認めないということ。そんな人間同士が道ですれ違ったら争いになるに決まっている。
著者の従伯父(いとこおじ)は、旧久留米藩有馬家第15代当主で、日本中央競馬会の理事長も務めた有馬頼寧。有馬記念の名前の由来。
著者は有馬記念に招待されるが、前評判抜きに、欲を捨て、勘をを研ぎ澄ませて義理で馬券を買う。これが当たる。
丁寧という言葉は、大昔に中国で使われていた金属製の鉦の名前に由来。この鉦を叩いて「注意しろ」「警戒を怠るな」と知らせた。そこから細かいところまで気を配ること、心を込めて念入りに行うことといった意味に。
著者は八代目板東三津五郎から、「別無工夫」の揮毫を頼まれた。なかなか満足のいく字が書けないでいるうち、三津五郎はふぐ中毒で急逝した。どうしてすぐに書かなかったのか、悔やんだ。上手い字を書こうといらぬ工夫をしてしまった。「別無工夫」という字を工夫しながら書いてしまったのだからどうしようもない。以来、この言葉は座右の銘に。
北朝鮮に3回行った。最初のきっかけは、4代将軍・足利義持時代に日本に伝わった「高麗版一切経」のお礼を言うため。ピョンヤン公害の妙香山普賢寺には、4500巻の版木がきちんと整理され、虫もカビもなし。なんと文化と大切にしている国かと感じた。印刷された「高麗版一切経」は、東福寺、建仁寺、相国寺に贈られたと書かれている。日本でもちゃんと守っています、と報告すると、向こうの人も大変喜んでくれた。 -
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ネタバレ『臨済録』を読む
有馬賴底著
2015年10月20日発行
講談社現代新書
少しまとめて読んだ有馬賴底老師2冊目の本。臨済宗開祖の臨済(唐の僧侶)の語録。インタビュー形式で編集者がまとめた本なので比較的分かりやすいが、謎も多くて、その分考えさせられる。これを読むと実に意外。臨済は、なにもするな、人はなにもできない、それでよい、と言っているように思える。
最後まで読むと、古代の人が大きな石などを運んだそりを、なぜ修羅というのかも出てきて面白かった。
(知りたい方は一番最後だけ読んでください)
有馬老師は臨済宗相国寺派第七代管長。京都五山第2位の相国寺はもちろん、末社の鹿苑寺(金閣寺)と慈恩寺(銀閣寺)の住職でもある。東京の名士(久留米藩主)・有馬家出身だが、幼い頃に両親が離婚して九州に。小僧から修行して8歳で得度。有馬記念の有馬頼寧の従兄弟の子にあたる。「宗教者九条の和」の呼びかけ人。
(メモ)
有馬老師:私は問われれば答える、しかし、その答えにあなたが拘泥する必要はない。「問」と「答」の間に漂うもの、気配のようなものに気づいてくれたらそれでいい。
(上記の意味は本を読み終えるとなんとなく理解出来てくる)
普化という人物。臨済と同体のようにも思える。おそらく河北の土着の宗教者だろう。
「無事の人」とは「こだわり」を持たない人、執着(しゅうじゃく)しない人。臨済は執着を離しなさい、そうすれば一生無事、迷うことはないとしきりに言う。
大飯原発のある福井県おおい町は経済的に貧しい。漁業でやっと生計を立ててきた。そんな中で原発以前は何も求めていなかったが、出来てからは急に潤い、まず手に入れたお金を寺に寄付したので相国寺のそこにある末社は立派。しかし、一度お金を持つと元の生活には戻れず、簡単に脱原発と人々は言えなくなった。原発は「求める心」を強くしてしまった。しかし、そのお金で命を売っているということを考えてほしい。
あるお寺で腐った柱を新しい柱に取り替えさせた。1人の修行僧がその腐った柱のいい所だけ使って「花活け」を作った。彼は住職に出て行けと言われた。純粋に修行をしている雲水がそんないらんことをするのがダメだ。修行に熱中できないから余計なことを考えるんだ」。
永平寺建立時にも同じような話し。越前守から土地寄贈の話があって弟子が喜んで道元に報告すると「出ていけ」と言われた。
修行は常に命がけでせよということ。
臨済録の核となる4つの語は、「眼」「心」「入」「境」。
道眼:道を目指す人の眼。眼をくらまされること。志すことがそもそも間違い。意識すると間違う。分明でなければならない。
浄に入り、穢に入り:浄妙国上、無差別国土、解脱国土に入るためには、清浄衣、無差別衣、光明衣という衣を着ける。衣は例え。精神に何かを着てしまう、それじゃあいかん。
「対機説法」とは、一瞬にしてその世界に入ること。そこが「一切境」。仏・祖師・羅漢・餓鬼、全部環境は違うが、すべてに対応すること、対処すること、そして決して振り返ってはいけない。疑念を持ってはいけない。それが「一切境」という世界。
「なにもするな」「荒れ地のままでいいやなか。そのまま放っておけ」ということは、実は一番むつかしい。「毅然とあること」、これも同じこと。むつかしい。
中国禅宗の始祖、達磨さんが528年10月になくなる。熊耳山(ゆうじさん)に葬られて3年後、宋雲という人が西域からの帰り道、パミール高原で草履を片方持った達磨さんに会った。慌てて都に帰って報告し、達磨さんの墓を開けると中には草履の片方だけがあった。「隻履の達磨」という有名な話。
僧侶の死とは、存在していなかどうか、それすら知られぬようにすっと存在を消すこと。
黄檗はこぶが出来るぐらい礼拝していた。何を一所懸命拝んでるんだ、何を求めているんや、と言われても仕方ない。しかし黄案は違うんや、何も求めてへんのや、と言う(笑)。それが臨済にもちゃんと伝わっている。
座禅がいかんと言っているのではない。「座禅したらそれでいいのや」というのがアカン、と臨済はいっている。
犯した罪を懺悔しなくてはいけないので、1年の罪を懺悔する「観音懺法(せんぽう)」がある。
阿修羅は元々インドの異教徒。戦いを好む神。この修羅を説き伏せて改心させるのが帝釈天。その帝釈の音(おん)「タイシャク」から「大石」が出て、修羅は大石を運ぶ道具の名になった。 -
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無間地獄=欲望が限りなくエスカレートする状態をいう。
本当の自分を取り戻すために、手放す。
辛い経験による痛みも永遠に続くことはない。
無事是貴人=平穏無事ではなく、何もしないこと、を意味する。願いをかなえようとして願わない、求めない、いつの間にか叶うもの。淡々と何もしない、生き方をする。
小欲知足=欲が多いほど苦悩が多い。豊かさは心次第。
一掃除二信心=毎日淡々と掃除する。汚れたからするのではない。
これが最後、と思ってその時々を大切にする。瞬間を大事にする、より分かりやすい。明日同じ瞬間がやってくるとは限らないと意識する。
日々是好日=毎日が最良の日である。怒りは過去に対して、不安は未来に対してのもの。今をありのまま、よい経験、と受け入れる。最良の日だと気持ちを切り替える。