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『臨済録』は禅の基本中の基本の書物です。しかし、語られる内容が矛盾とパラドクスに満ちているために、一般人にとっては非常に理解のしがたい書物になっています。本書では、長年この書に親しみ、自らもそれを指針として禅の修行に励んできた臨済宗の最高峰の一人である高僧が、「ぶっちゃけトーク」も交えながら、やさしくその真髄を語ります。読後にはすがすがしい一陣の風が読者の中を吹き抜けることでしょう。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
書かれた経緯とかは不明だが、対談形式で西川さんという女性が有馬さんから話を引き出す感じ。難解な臨済録だが、こうしてお坊さんの語りを聞くと少しとっかかりがつかめる気がする。 赤松氏の流れを汲む有馬という良家の出で平成天皇のご学友だったけど両親が離婚し親から離れて九州へ、久留米や日田の寺で修行。22歳で...続きを読む3番目の師と出会い京都の相国寺へ。 そこから臨済録の話。大事なフレーズを以下のように抜き出してみる。生まれてしもうたんやからしゃあないやないか、生きろ。仏に逢うては仏を殺し、は煩悩を殺せ。自由になれ、そのためには悟りが必要だ。サトリを得ると死ぬも生きるも自在。密教の影響を離れた純粋な禅は大燈に始まる。無位の真人とは今ここの私、他人が見ている私に対して、一切の枠に捉われない自由な第三の自分のこと。無事の人とは執着しない人のこと。喫茶去は、日常の喫茶が仏作仏行と同じほど大切、日常をないがしろにして修行を積んでも観念的なものに過ぎない。五大から空を抜いた四大、四大分離とは死のこと。人間の一生は夢幻、現実とは生と死の2つだけ、それがわかったら自由。隻履の達磨の話。他人に惑わされる、それが人惑で、自分が納得したらそれでいい。外に求めて自分を失う、自由を失う。地獄は自分で造る、仏に頼り、経典に頼って地獄に堕ちていく。ほんまもんの悟りもない。生と死も否定する。迷いも不安も恐怖も自分が造っている。一瞬一瞬の体験を積み重ね学習する。自分を救えなければ他人も救えない。生死去住、脱著自由、当たり前の日常の中に生死にこだわらないという自由。結局は自由も幻、生死も幻、なーんにもない。幻でも確かにそこにある、そこにいる。
「臨済録」について禅宗の高僧がどんな話をするのか、この人の場合は……という感じ。対話形式なので素朴な形で質問したり応えたり。どういう人なのかも冒頭にあるので人を踏まえて読むことができる。
『臨済録』を読む 有馬賴底著 2015年10月20日発行 講談社現代新書 少しまとめて読んだ有馬賴底老師2冊目の本。臨済宗開祖の臨済(唐の僧侶)の語録。インタビュー形式で編集者がまとめた本なので比較的分かりやすいが、謎も多くて、その分考えさせられる。これを読むと実に意外。臨済は、なにもするな、人...続きを読むはなにもできない、それでよい、と言っているように思える。 最後まで読むと、古代の人が大きな石などを運んだそりを、なぜ修羅というのかも出てきて面白かった。 (知りたい方は一番最後だけ読んでください) 有馬老師は臨済宗相国寺派第七代管長。京都五山第2位の相国寺はもちろん、末社の鹿苑寺(金閣寺)と慈恩寺(銀閣寺)の住職でもある。東京の名士(久留米藩主)・有馬家出身だが、幼い頃に両親が離婚して九州に。小僧から修行して8歳で得度。有馬記念の有馬頼寧の従兄弟の子にあたる。「宗教者九条の和」の呼びかけ人。 (メモ) 有馬老師:私は問われれば答える、しかし、その答えにあなたが拘泥する必要はない。「問」と「答」の間に漂うもの、気配のようなものに気づいてくれたらそれでいい。 (上記の意味は本を読み終えるとなんとなく理解出来てくる) 普化という人物。臨済と同体のようにも思える。おそらく河北の土着の宗教者だろう。 「無事の人」とは「こだわり」を持たない人、執着(しゅうじゃく)しない人。臨済は執着を離しなさい、そうすれば一生無事、迷うことはないとしきりに言う。 大飯原発のある福井県おおい町は経済的に貧しい。漁業でやっと生計を立ててきた。そんな中で原発以前は何も求めていなかったが、出来てからは急に潤い、まず手に入れたお金を寺に寄付したので相国寺のそこにある末社は立派。しかし、一度お金を持つと元の生活には戻れず、簡単に脱原発と人々は言えなくなった。原発は「求める心」を強くしてしまった。しかし、そのお金で命を売っているということを考えてほしい。 あるお寺で腐った柱を新しい柱に取り替えさせた。1人の修行僧がその腐った柱のいい所だけ使って「花活け」を作った。彼は住職に出て行けと言われた。純粋に修行をしている雲水がそんないらんことをするのがダメだ。修行に熱中できないから余計なことを考えるんだ」。 永平寺建立時にも同じような話し。越前守から土地寄贈の話があって弟子が喜んで道元に報告すると「出ていけ」と言われた。 修行は常に命がけでせよということ。 臨済録の核となる4つの語は、「眼」「心」「入」「境」。 道眼:道を目指す人の眼。眼をくらまされること。志すことがそもそも間違い。意識すると間違う。分明でなければならない。 浄に入り、穢に入り:浄妙国上、無差別国土、解脱国土に入るためには、清浄衣、無差別衣、光明衣という衣を着ける。衣は例え。精神に何かを着てしまう、それじゃあいかん。 「対機説法」とは、一瞬にしてその世界に入ること。そこが「一切境」。仏・祖師・羅漢・餓鬼、全部環境は違うが、すべてに対応すること、対処すること、そして決して振り返ってはいけない。疑念を持ってはいけない。それが「一切境」という世界。 「なにもするな」「荒れ地のままでいいやなか。そのまま放っておけ」ということは、実は一番むつかしい。「毅然とあること」、これも同じこと。むつかしい。 中国禅宗の始祖、達磨さんが528年10月になくなる。熊耳山(ゆうじさん)に葬られて3年後、宋雲という人が西域からの帰り道、パミール高原で草履を片方持った達磨さんに会った。慌てて都に帰って報告し、達磨さんの墓を開けると中には草履の片方だけがあった。「隻履の達磨」という有名な話。 僧侶の死とは、存在していなかどうか、それすら知られぬようにすっと存在を消すこと。 黄檗はこぶが出来るぐらい礼拝していた。何を一所懸命拝んでるんだ、何を求めているんや、と言われても仕方ない。しかし黄案は違うんや、何も求めてへんのや、と言う(笑)。それが臨済にもちゃんと伝わっている。 座禅がいかんと言っているのではない。「座禅したらそれでいいのや」というのがアカン、と臨済はいっている。 犯した罪を懺悔しなくてはいけないので、1年の罪を懺悔する「観音懺法(せんぽう)」がある。 阿修羅は元々インドの異教徒。戦いを好む神。この修羅を説き伏せて改心させるのが帝釈天。その帝釈の音(おん)「タイシャク」から「大石」が出て、修羅は大石を運ぶ道具の名になった。
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『臨済録』を読む
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