大ベトナム帝国と紅毛(ギャラクティカ、いわゆるEU圏的勢力?)が覇を争う宇宙世紀の短編集。評価は星3つ。要約すると、
・民族的な文化描写が半端で浅い
・文章はそこそこ良い
・ドラマは70点
なせいで、逆に胃がむかむかする。
飯の話と一族祖先の話してりゃ民族描写だと思ってるんかい、と。
民族的な文化や、歴史事件を織り込んだ描写の名手といえば、ケン・リュウが真っ先に思い浮かぶ。
ついつい対比してしまうのだ。
たとえば、格言や言い回しひとつひとつに、文化は現れる。
選ぶモチーフや意匠の一つ一つに、登場人物の人格や人生が反映されているかどうか。
対比して気づくが、アリエット・ド・ボダールの本作にはこの二つが欠けている。
まず格言が出てこない。全然ない。
意匠というか、浅い理解の風水はでてくるが、物語内での重要なファクターではなく、あっさり解決されている。
要は、『彩りとして取り入れてはいるが、非・EU的価値観が物語の構成にまで落とし込まれているか?』という疑問がある。
全編を読んで、『星々は待っている』以外にうまく描写できている感じは受けなかった。
犯罪に手を染めた末裔が、祖先、一族の記憶の保持という「本分」に立ち返る一幕を描いた『形見』にしても、
「なんか知らんうちに、唐突に、そういう理解に至りました」
的な感触を受ける。
著者にも掘り下げが浅いまま、表層をなぞった描き方しかしていないため、読者にもそれが不消化な印象を与えている……のではないか。
それこそ、『形見』内で、紅毛のジャーナリスト、スティーブン・ケアリの「再現した」都市を、
「ありとあらゆる点で、微妙に、実に不愉快な形でずれている」
としたくだりが、皮肉なことに『茶匠と探偵』収録の全作にもぴったり、しっくりくる。
魚醤、大蒜、醗酵肉といった食物を出していれば、それで民族性は表現しえているのか?
米でできた食品、フォー、ライスペーパーは全然出てこない。(ごはんやジャスミンライス、粽は出てきた)
虎に翼が生えて強くなる(もともと強いものがさらに勢いを増すこと)、水牛の耳に音楽を弾く(馬の耳に念仏とほぼ同義のことわざ)といった言葉は全く出てこない。
著者にとっての仏教や祖先信仰の理解にも、疑問がつきまとう。
描写されるのは、「子が仏壇に線香をささげてくれること」を中心に、表層に現れる行為が大半である。
まさに
「描いているものは(中略)信ずるとはどういうことか、理解することができない」
という、『形見』で述べた非東洋文化圏のまなざしを、著者も同様に持っているのではないか。
もちろん「非・東洋/仏教文化圏読者に合わせた文章表現」という理由も考えられる。
つまり、
「まさにその東洋、仏教文化に漬かってる我々には、苛っとくるのも仕方ない文体」
である可能性だ。
アリエット・ド・ボダールの短編が受けた賞は、訳者あとがきによると、
ローカス賞1回、ネビュラ賞3回、英国SF協会賞2回、英国幻想文学大賞1回受賞
とのこと。
この程度に薄まった民族的文化描写、この深入りはしないがチクリと刺す(内戦難民の心情描写や、記念館の表現に対する風刺)表現手法。
それこそが、EU/USA/英語圏の読者には好まれたと見える。
宇宙世紀ガンダムシリーズや『精霊の守り人』とケン・リュウの洗礼を受けた読者としては、
「技巧はあるが、描写が浅い」
として、星3つである。
各編ドラマの筋立てとしては、竹書房の『竜のグリオールに絵を描いた男』のような、文学的過ぎて理解しがたいレベルではないが、
「なんか平凡……テクノロジーの問題を別にすれば、現代社会でも起きえるドラマじゃね……?」
という内容であったことは申し添えたい。