マルセル・モースのレビュー一覧

  • 贈与論 他二篇

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    現代の貨幣経済は、合理性や契約によって個人の自由を確保している。そこでは、古代社会の経済を成り立たせていた、贈与による「関係の厚み」や「返礼の義務」は見当たらない。贈与は今や慈善か例外の行為とされ、構造からは切り離されている。

    個人的には、日本がこのまま欧米型の資本主義・個人主義を推進しても、大きな成果は見込めないと思っている。アメリカのように、競争と自由を徹底的に突き詰めてきた国には、制度的にも文化的にも敵わない。むしろ日本は、元々モースの描く贈与経済的な価値観に親和性がある(内向きで、互酬的・集団主義的な土壌がある)のだから、そっちで集団としての結束力を高めた方が勝ち目あると思うんだけど、どうだろ。

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    2025年04月05日
  • 贈与論 他二篇

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    贈与は資本経済とは違う軸で動く、という新たな視点、そして贈与に係る様々な「なにか」を強く感じられ、とてもよかった。現代でも贈与が残る理由がよくわかり、そして自分たちがとるべき行動や今何も考えずとっている行動について再考する良いきっかけになった。

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    2022年10月31日
  • 贈与論 他二篇

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    お金にならない価値の「価値」を言語化したくて読んだ。
    読後の結論は、

    お金にならない価値の「価値」は、人と人との繋がりを生む、という価値である。金銭での等価交換は、一回きりであり、繋がりや関係性を関係性を生むことはない。

    という点に収まった。納得。

    ***
    贈与と返礼は、人間社会の特徴の一つ。

    人間は、贈与を受けると、お返ししなければ、という気持ちになる。(なぜそうなるのか本書では明かされていないが、人間の特性として備わっているようである。)そして、この贈与とお返しは、お返しに対するお返し、そしてさらにそのお返しに対するお返し、というように、やりとりに連続性が生まれ、贈与者と被贈与者を結びつける。従って、贈与(と返礼)には、紐帯を生む力がある。金銭での等価交換のやり取りは都度都度一回切りの交換であり、繋がりはうまない。
    一方で、贈与は、相手が「受け取らない」(=つながりの拒否)態度をとる場合は、争いの元になったり、過度な贈与・お返し合戦という競争や争いも生んだりもする。贈与は、連繫と一体化を生む可能性も、一方で争いを生む可能性も、両方を内包している。

    現代の市場経済(贈与ではなく、商人の購入売却)、契約社会(倫理的な義務感ではなく契約的な義務)においても、人間にインストールされた贈与経済的な倫理観は顔を出したりする。

    「今日では、古いさまざまな原理が抵抗を起こし、現代の私たちの法規範が持つ冷厳さや非人間性に抗している」

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    2021年07月11日
  • 贈与論

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    贈与論
    人やモノを全て含んだ円環状の贈与体系をトロブリアントの民族からの実地調査をもとに検証している。また、贈与をするための霊的な感覚による根拠(ハウなど)を同時に示し、人類の経済の基層に贈与・交換があることを明らかにした。
    ハウとは、何か物を与えられたら、人に与えなければならない。そうしないと、落ち着かないという気持ちを霊的存在に見立てて解説したものである。モノをもらっても人にあげなければ、ハウという悪い神が持ち主をどんどん蝕んで最後には殺してしまうというのである。これは、ものではわかりにくいが情報ならどうだろう。噂話を聞いたら人に語りたくなってしまう気持ちは、ハウによるものではないかと思う。円環状の贈与形態について、トランプをしていて気づいたが、ババ抜きは円環状の贈与形態のアナロジーではないかと思う。人からカードを受け、人にカードを渡す。そして、負ける人間とは、人に渡せない唯一のカード(ジョーカー)を最後に持っていた人である。このジョーカーを、持ち主を最後には殺してしまうハウに見立てるのは不自然ではないはずだ。時々思うのであるが、カードゲームや占いなど、古くから非科学的でありながら人々に親しまれてきたものには、何かしら人間の根本原理ともいえる真理を抽象化した形で内包しているのではないかと思うのである。情けは人の為ならずという日本のことわざも、贈与論の円環状の贈与形態の話をしているのかなと思う。
    映画「ペイ・フォワード」は私の好きな映画の一つではあるが、これは典型的に贈与論的下敷きがあると私は思う。恩を受けたら、もらった恩をその人とは異なる3人の人に贈る、「恩送り」運動を少年が企画して、ロサンゼルスで一大ムーブメントを起こすというこの映画は、今や英語の教科書でも取り上げられている。
    様々な経験的な具体例を挙げてきたが、人間は常に贈与・交換をする動的なシステムにいるという点は、レヴィ・ストロースに繋がっていると実感できる。本自体について言えば普通だが、脚注が膨大なので内容は少しだからすぐ読めた。

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    2017年01月04日
  • 贈与論

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    [メモ(暫定)]一連の研究の問題意識は「未開あるいはアルカイックといわれる社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られたものに潜むどんな力が受け取った人にその返礼をさせるのか」であり、モースが分析の対象としたポトラッチやクラは以下の特徴をもっている。①交換し契約を交わす義務を相互に追うのは個人ではなく集団である、②彼らが交換するものは、専ら財産や富、動産や不動産といった経済的に役に立つものだけでなく、何よりもまず礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、婦人、子供、舞踊、祭礼、市といった社会の全領域にわたる資源であり (全体的給付)、経済的取引はその一部にすぎないということ、そしてこの給付に対する反対給付がなされなければ公私にわたる闘争が起きる。贈与する義務、受け取る義務、返礼する義務の三つが働いている。
    ポリネシアやメラネシア、北西アメリカの民族誌、はたまた最古のローマ法や古代ヒンドゥー法、ゲルマン法から贈与=交換の行為やそれに関する精神が浮き彫りにされるが、①それらを社会構築の原理にまでまとめたところに『贈与論』のすごみの一部があるのではないかと。一見すると自由でありながら、しかし義務として守らなければならない贈与=交換は他集団との平和的連帯を作る有効すぎるほどの手段であり、それはまったく過去の理論ではない(むしろ普遍的なものだと言いたい)。モースが晩年傾倒していた労働組合運動などはまさに社会的な互酬性を志向するものであって、楽観的に捉えているようにも感じたが、たしかにそういう志向こそが互酬という友愛に満ちたすばらしき道徳への回帰につながるのであろう。②またマリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』で行ったのと同様に『贈与論』は、経済学によってなされてきた、凝り固まった図式に歪められ矮小化されてきた未開人の経済生活に関する先入観を相対化した。(その先入観とは、“原始人ないしは野蛮人は、あらゆる行為を、私利私欲を求める合理的な考えに促されて行い、目的を直接的に、かつ最小の努力で達成する。人間、特に低い文化水準にある人間が開花した利己主義からくる経済的動機に純粋にしたがって行動する”というもの)

    『贈与論』から引用する。
    「オーストラリアや北アメリカ(東部と平原インディアン)のクランの生活を統御する、集団の内側の比較的不定型で無私無欲的な経済がある。他方に、セム族やギリシャ人によって見出されて以来、少なくともその一部分がわれわれの社会にも知られてきた、個人主義的で純粋に利益追求的な経済がある。これら二つの類型の間に、経済制度や経済事象の膨大な系列のすべてが段階的に並べられるといえる。この系列は、容易に理論が組み立てられてきた経済的な合理主義に支配されているのではない。」(p278)

    ※「経済社会学上および政治経済学上の結論」の部分は、個人的にはすぐれた労働論のように思われるし、また網野善彦『無煙・公界・楽』の市場という場の性質と商品の性質につながるものがあるように思える。

    ③「全体的社会事象」という研究対象の提案が功績の最後に挙げられる。これはデュルケム『規準』の「社会的諸事実を物のように考察すること」を洗練させ、深化させたものではないかと思っている。(それまでの社会学が、社会の諸要素をあまりにも断片的に分割しすぎ、あまりにも極端な抽象を行っていたことへの警鐘であると。)複雑な現象を、諸要素に分割することなく、動的な状態で全体を具体的に観察し記述することによって、その事象の「本質を、その全体の運動を、その生きた側面を、社会や人間が自分たち自身と他者に対する位置を情緒的に意識するその儚い瞬間を」、捉え、理解することができる。

    最後に
    「諸社会は、社会やその従属集団や成員が、どれだけ互いの関係を安定させ、与え、受け取り、お返しすることができたかに応じて発展した。交際するためには、まず槍から手を放さなければならない。そうして初めて、クランとクランのあいだだけでなく、部族と部族、民族と民族、そしてとりわけ個人と個人のあいだにおいてでも、財と人との交換に成功したのである。その後になってようやく、人々は互いに利益を生み出し、共に満足し、武器に頼らなくてもそれらを守ることができるようになった。こうして、クランや部族や民族は――だから、文明化されているといわれているわれわれの社会においても、近い将来、諸階級や諸国民や諸個人は同じようにできるようにならなければならない――虐殺し合うことなく対抗し、互いに犠牲になることなく与え合うことができたのである。これこそが彼らの知恵と連帯の永遠の秘密の一つである」(p290)

    ――――――――――――
    薄いがアツく偉大な作品だった(全く関係ないが、一番最後に「アーサー王物語」の円卓の騎士の話をもってくるあたりとても好き)。レヴィ=ストロースを勉強し直すための有意義な遠回りだったと思える。『贈与論』は明らかにレヴィ=ストロースに「交換」の示唆を与えたのはわかるが、ブルデューが感じとった「実践」や「戦略」の含みをどんなにがんばっても感じ取れなかったわたしは、まだまだ未熟でも読み込みも浅いのでしょう。それにしても誤植が多かった。。。

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    2012年11月07日
  • 贈与論

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    全人類に共通する慣習「贈与」。

    これは、単に与えるだけではなく、受け取った側が返礼の義務を負うという点に特徴がある。
    また、贈与に対する返礼といっても単なる物々交換ではなく、宗教的・法的・競争的・経済的・政治的な要素を多分に含んでおり、それらは全て集団的である。

    本書は、世界各所および、あらゆる時代における人類社会の贈与活動についての考察を通して、現代社会が陥っている個人主義偏重を批判している。

    本書で提案されているのは、貨幣経済に偏重しない、より集団社会的な人類の営みである。

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    2011年11月27日
  • 贈与論

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     特に一部の地域コミュニティでは、人間の活動は贈与で成り立っている。そこには、霊とのつながりから導き出される現所有者との
    過去所有者とのつながりがある。それが、恐らく地域コミュニティにおいての不和をなくさせてきたのかもしれない(もしかしたら、逆なのかもしれないが)。
    では、なぜ現代社会では不和がすぐ近い人間同士でも起こるのか?それは、現代社会がつながりを見えなくしているからかもしれない。
    人間、やはり視覚でとらえられないものに対しては非常に弱い(ラ・ポール効果の目隠しした人の誘導でも分かるが…)。それが人とのつながりを
    希薄にさせているのか…。考えさせられる逸品である。

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    2009年10月07日
  • 贈与論 他二篇

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    日常で論文を読むことが少ないので難儀。読後、自分なりに資本主義との関係を考察するなど社会の本質を探りたくなる欲が湧くきっかけをくれた。
    贈与論−アルカイックな社会における交換の形態と理由−贈与に対しお返しが義務付けられているお話。メラネシアやポリネシア、アメリカ北西部でおこなわれるポトラッチを軸に遅れた社会、もしくはアルカイックな社会においては、法規範と利得の追求にかかわるどのような規範があって、贈り物を受け取るとお返しをする義務が生じるのだろうか。贈与されるものにはどのような力があって、受け手はそれに対してお返しを仕向けられるのだろうかを論及していく。
    「贈与」贈与=交換という原理がこうした段階の諸社会の原理であったと結論づけた。つまり、お返しは義務であったと。さらにこの原理を最終章にて私たちの諸社会にも広げて適用する事が可能であるとした。贈与論で考察してきたポトラッチ等々の事象は非常に多くの社会制度を活性化させるという事。これらの事象はすべて法的現象であり、経済的現象であり、宗教的現象であり、さらには審美的要素をももつ社会形態にかかわる全体的な社会的現象であると。
    どれだけ理解できたかわからないが、個人的にうなる流れだった。

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    2024年10月16日
  • 贈与論 他二篇

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    「贈与」
    贈る義務、受け取る義務、返還する義務が存在する。

    はるか昔から、人間社会の基底に存在してきた贈与というシステム。
    そのシステムは様々な社会関係を安定化させ、発展することに寄与してきた。
    確かに、資本主義というシステムが世界中を席巻する現代においても、システムとしての「贈与」は存在しているように思う。
    しかし、その存在の仕方は、現代社会のシステム全体においてはあくまで細い支流の1つ程度のもので、贈与というシステム単体で、資本主義そのものを脅かすほどの存在ではないだろう。

    ただし、近年は、産業化の過剰がもたらす環境問題やグローバル化による市場のカオス化、格差拡大など既存の資本主義システムが新しい展開を迎えており、人間社会の基底システムとしての贈与に再度着目する意義は大いにあると感じる。

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    2023年10月26日
  • 贈与論 他二篇

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    何もかもが独立、分裂している今日の西洋的な社会とは対称的に、このような何もかもがつながり、循環している社会もあるのだ知ることができたのが、この本を読んでのなによりの収穫だった。
    この社会に住む人々にとって、幸福とは富を限りなく増やしていくことではなく、増やし蓄えた富を皆と分かち合ったその先にあるものなのだ。みんなが自分の一部を誰かに分け与えあい、モノ、ヒト、さらに霊や魂、神までひっくるめて文字通り大きな輪になっているのには感動すら覚えた。

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    2021年09月12日
  • 贈与論

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    様々な地域に残る贈与と返礼の義務という伝統的な習慣を膨大な資料を元に比較研究し、贈与の与える社会的な役割や影響を研究した書籍。現代の日用品の交換などの贈与との違いは精神のコミュニケーションでもあること。贈与は神聖な儀式であり、富を破壊(消費)することで争いではなく信頼関係を築き、クラン同士の結びつきが強まり文化圏を広げ、また再生することで循環が生まれ文化が成熟していったのかと思います。最初難しかったけど、終盤で突然頭の中のゴリラ達が一斉に立ち上がり武器を捨て、経済活動をする瞬間があって気持ちよかったです。

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    2021年04月27日
  • 贈与論 他二篇

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    ネタバレ

    前半は贈与が歴史的にどうのように変遷をしてきたかをまとめてくれている。
    贈与が人類にどのような影響や意味があるのかを第4章の結論でまとめてくれている。
    忙しい方は第4章のみを読めば良いと思う。それでもこの本の価値は、極めて高いと思う。

    贈与=契約▶贈与=交換、義務、かけ、礼を礼で返すもの
    贈与は他者を支配する志向のもとにある≒相手を自分の意のままに操る
    社会システム(政治・経済)=お互いに贈与をしあっている社会形態
    有機的連帯(統一性と統合性が備わっている)=社会の発展に与え、受け取り、お返しをする。
    幸せ、平和を定立させるために、労働として適切に秩序づけられたものがある。富として蓄積され、次いで再分配されたものがある。互いに尊重し合い、互いに寛容になり合うこととして、教育が教えるものがある。善も幸福もそこにある。

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    2020年03月23日
  • 贈与論 他二篇

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    マルセルモース 「 贈与論 」

    贈与を 集団間における給付と定義し、お返し(反対給付)を義務としている。集団間の贈与が 集団の規範、宗教儀礼、交換経済に組み込まれている

    「贈与により 人、物、霊魂が混じり合う」感覚は 集団の感情を理性的にコントロールする手段だったのではないか?

    全体的給付の体系→交換(集団から集団へ)
    *法的、政治的、経済的、宗教的な体系
    *給付と反対給付を繰り返すことにより 相互に結びつく
    *交換するのは 財、ふるまい、饗宴、女性、子供、踊り

    ポトラッチ=競覇型全体的給付(相互に対抗し合う)
    *お返しは 絶対的な義務
    *富によって授けられる名誉、権威→義務を果たさなければ 権威と富を失う〜暴力や敵対関係を生む

    3章の古典ヒンドゥー法は 宮沢賢治「なめとこ山の熊」の世界観と同一
    *物の真の所有者=死者の霊、神々〜食糧が神格化
    *人間と神々との契約、交換→目的は 平和的関係を手に入れること

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    2018年08月15日
  • 贈与論 他二篇

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    (01)
    最終章では、政治、社会、経済、倫理の各側面から現代における贈与のあり方を示唆しており、著者が過去や他の民族を生きられている世界としてとらえている点は重く受け止める。
    贈与は、決して一方的な(*02)ものでもないし、贈与が非対称である場合は、社会全体としてバランス(*03)が図られるように機能することをも示している。物々交換や自然経済といった概念が一般的に流布している未開の単純さといった認識を批判し、贈与や交換が単なる経済の範疇にとどまらない拡散や集中を現象することを捉えている。

    (02)
    売買がバイバイとして、売ることと買うことが等価というよりも同義であること、担保や保証や分割や賃貸などの現行の制度にも残る物のやりとりをめぐる諸々の契約も贈与が示すある点で統合されることなどは目から鱗の視点かと思う。
    語源をあたり語幹を見出すことで贈与の諸関連を暴くという方法論も、まだまだ適用できる範囲が広いように感じた。

    (03)
    賭けとその賭場、シャーマニックな呪術、名前と言葉、性と結婚といったテーマも贈与をキーとすることで、そこにある問題に新たな視野を開いており、非常に冴えた論考として読める。富の集積や蓄積(*04)といった権力集中にも、権力の停止や廃棄すら予感させるポトラッチというバランサーを与えることで、贈与システム(*05)の有効を説いている。

    (04)
    考古学的な対象となる、何らかの理由で図るも図らざるも埋設されたモノについてもこの贈与論によることで理解が進む。意図的に壊され埋められたモノ、保存と伝授のために埋められ伝えられたモノ、それらの聖性が拠るところを本書からはうかがい知れよう。

    (05)
    レヴィ・ブリュルの未開社会の心性との関連、柳田國男が説いた「おつり」との関連も、この贈与論から改めて考えてみたいものである。

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    2016年10月22日
  • 贈与論

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    今春ころから気になっていた、モースの『贈与論』を読みました。
    モース(1872-1950)は社会学者であり、民俗学者であり、
    当時の彼の学生や交友のあった学者からは、「彼は何でも知っている」と言われたり、
    思われたりしていたそうです。そういう博識の大学者タイプの人だったようです。

    さてさて、ずっと頭に引っかかっていて、
    きっと現代の生きにくさをやわらげる一つのヒントになるんじゃないかと思えていたこの『贈与論』。
    その贈与についてですが、まず原始的な社会において、「物々交換」とされるような、
    その文字通りの意味での淡泊な交換は存在しなかったみたいです。
    霊とか魂、そう書くとオカルト的に思えちゃうけれど、そういったような元の持ち主の力、
    もしくは物自体が秘めている力が宿っているし(これはポリネシアなどその地方地方によって違うようです)、
    物と物とを交換しながら、その魂・霊・力を贈与したりされたりしている、という感じのようです。

    ここでのポイントは、元の持ち主の力が宿っている、というところですね。
    現代に置き換えると、たとえば楽天市場で自分の顔を出して商売している人がいるとします。
    その商品(お酒でも、チャーシューでも、果物でもいいですが)を買うことで、
    その商売している主人の人柄も買っているような気になることはないでしょうか。
    すごく気に入った商品であるならば、商品をみると、その主人の顔も思い浮かぶような。
    そういった感覚って、実はアニミズム的な、この『贈与論』で言われている感覚に近いんだと思っています。

    そして、その感覚は主人への敬意を生みます。
    他者への敬意を持つことは、他者をあまりにぞんざいに扱ったりしないことに繋がる。
    お互いに敬意を持ちあう社会というものは、成熟した人間関係が望めるかもしれない。
    それは、コミュニケーションにおいての責任感を生むだろうし、
    他者への暴力性を弱め、利他の精神を強める意味を持ちそうな気配があります。
    人と人の関係のあったかみであり、それぞれにいとおしい関係、
    それが望めそうだということです。

    なので、顔が見えることの長所を今書きましたが、
    トレーサビリティ(野菜などがどこで誰が作ったかを記載すること。
    お菓子などの商品ならば、原材料まで遡って、どこのものなのかを明白にすること)
    っていうのが、安全や安心や、何かあった時の責任所在を明らかにするだけのものかといえば、
    そうではなく(逆にそれだけだとちょっと殺伐としたシステムのようにも感じられる)、
    顔が見えるということで、前記のアニミズム的感覚を感じる助けになりもするのです、意識次第で。

    また、モースによると、労働者は労働とともに、
    時間や命や自分の中の何かまでを与えていると感じるもので、
    それらまでもが適度に報われなければ、怠惰と生産性の低下に結びついてしまうということです。
    (昨日の論理学で覚えたての)対偶でいえば、「怠惰や生産性の低下がないのならば、
    労働者は自分が与えているものに対しての報いを受けている」といえます。
    それはつまり、生産品の受け手が、
    労働者の「顔」を感じて敬意を持つことに繋がるのではないか。
    僕はそう考えました、だから、現代の生きづらさも経済の下降もやわらげることが
    できるのではないかと思ったのです。

    また、こういうのもありました。
    「知って貰う」ことの大事さが、「未開」とかという誤解された言い方をされる
    原始的(?)部族のなかには基本的にあるみたいですが、そういうところ、
    「今」において大事なような気がするんですよ。
    自分を「知って貰う」ということ。そしてそれが他者に知られていないがために
    傷つけられたり抹殺されたりすることなく、逆に敬意に繋がっていく。匿名性の反対です。
    じゃ、匿名はいけないかというと、僕はちょっと困ってしまうんですよ、
    このブログだってツイッターだって匿名でやっているし、
    FBは友達以外には見えないようにしているしで。
    折衷案みたいなものですが、「知って貰えれば」良いとすると、
    ハンドルネームであっても、僕はこういう人だということを
    知って貰えるように表現していれば、それで事足りるのではないか。
    某掲示板のように、個性を潰してみな匿名でやるのとは違います。
    その某掲示板的な匿名性と、実名でなんでもやることの中間的なところでも、
    「知って貰う」ことの効能はあるように思うのですが、
    みなさんはどう思われるでしょうね。

    そして、やっぱり、施しすぎるのは良くないと書かれている部分がありました。
    贈与にはお返しをしないと、毒になるようなところがあるとされていて、
    そこを考えてのことのようです。
    まぁでも、そこは、人と人との関係性に置いてですから、物をプレゼントして、
    物以外で返してもらっていることもあると思うので、複雑かもしれない。

    とまぁ、そういうところです。
    前にモースの解説本を読んでいたので、要所要所を読むような感覚で、
    すらーっと一冊読めてしまいました。
    一冊の半分くらいは注釈なので、実はそれほどの分量はないです。

    そんなわけで、今回は、僕の考えを深めたもの、
    というか、もともとインスピレーションされたというか、
    影響を受けたその原書を読みましたという報告のような本の紹介になりました。
    気になる人は、じっくりと読んでみると得られるものがあると思います。

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    2025年06月27日
  • 贈与論

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    ドイツ語におけるGiftは「毒」の意味も併せ持っているというのは象徴的だ。そう、資本主義が商品の売買によって他者との関係を築くのに対して、それ以前の未開社会は相互の贈与によって他者との関係を築き、それは政治や法律の代替として機能していた。だからこそ贈与には受領や返礼の義務が付随するのであり、それは又物品だけでなく感情の交換をも担う行為でもあった。「貰ったのと同じだけ施しなさい。そうすれば万事上手くいく」これは決して偽善から生じたものではなく、人類の歴史が育んだ叡智の結晶であったのだ。知的興奮が止まらない。

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    2013年08月26日
  • 贈与論

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    本書は、経済は市場経済だけではないという論証になっていると思うので、市場経済に苦しめられている私としては救われる書物であった。
    贈与経済を実践するためには、贈与を義務としてとらえるというマインドや贈与先の無数のリストを保持するという条件が必要だが、未開社会や原始的な社会においては、神話や呪術や宗教や法や倫理が様々に入り組んで構造化されることで、その二つが人間に与えられている。
    そういうものをこれから組み立てようとするのは至難の業のようにも思えるが、やはり必要な気がする。最終的には、人類共同体が生き残るためのきまり(=倫理)の追求の問題になるのかな?

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    2013年12月27日
  • 贈与論

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    贈与と返礼を巡る考察。豊富な具体事例も魅力の一つ。

    古代社会・未開社会での経済を考えたとき、「物々交換」とは異なる原理が存在するのではないか、ということを事例を引きながら丁寧に説いている。本文中の引用に留まらず、注釈部においても多く事例が掲載されており、読むのにとかく時間がかかった印象。それだけに結論部で述べられている利己的すぎてはいけないし・度を過ぎた寛大であってもいけないこと、また社会学という学問のあり方についてが非常に印象的だった。

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    2012年01月03日
  • 贈与論

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    ほぼ世界の全域にわたる地域に関する資料を渉猟し、古代の法に関する文献を蒐集することによって、贈与、受領、返礼を義務とする文化が、太古から人類のあいだに、しかも地域を横断する仕方で息づいていることを、比較文化的に浮かび上がらせる文化人類学の古典的研究であるが、そのアクチュアリティは、発表から85年以上を経た今も色褪せない。本書の議論において何よりも重要なのは、人類が太古から、場所によっては「ポトラッチ」と呼ばれる蕩尽の祝祭に極まる歓待と贈与の文化を発展させてきたことであり、またそこに生まれる鷹揚な交換を可能にする関係こそが、文化そのものを育んできたという洞察であろう。それとともに、英語のinterestという語で表わされる私的利害の追求が、簿記の行なわれる比較的新しい社会の歴史的産物であることも明らかになる。むろん、蕩尽の祝祭には呪術的な供犠が伴なうこともあるし、モース自身が認めるように、それが引き起こす興奮は、戦争とも隣り合わせのところに人を拉するものでもある。しかし、人間は贈与を通じて他の人々との協働関係を築いてきた。そのことの底流をなすモラルを見逃すべきではないとモースは言う。「感情には理性を、こうした突然の狂態に対しては平和への意志を対置させることによって、諸民族は戦争、孤立、停滞を協同関係、贈与、交易に変換させることができたのだ」。このことを可能にするモラルの所在を、いまは見失われつつあるのかもしれない人間の、あるいはその主体性の根源史のうちに探り当て、モースも述べているようにその地点から、「政治」と呼ばれるものを「ポリス」の手前で捉え返すことが、今あらためて求められていよう。

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    2011年11月08日
  • 贈与論 他二篇

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    2025.12.1
    自分の身の回りの贈与ってただプレゼントあげるだけに留まらないと思った。もっといろんな形があって、それがどういう意味を持つのかを考えるきっかけをくれた点で面白かった。

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    2025年12月01日