【感想・ネタバレ】贈与論のレビュー

あらすじ

ポトラッチやクラなど伝統社会にみられる慣習、また古代ローマ、古代ヒンドゥー、ゲルマンの法や宗教にかつて存在した慣行を精緻に考察し、贈与が単なる経済原則を超えた別種の原理を内在させていることを示した、贈与交換の先駆的研究。贈与交換のシステムが、法、道徳、宗教、経済、身体的・生理学的現象、象徴表現の諸領域に還元不可能な「全体的社会的事象」であるという画期的な概念は、レヴィ=ストロース、バタイユ等のちの多くの思想家に計り知れない影響とインスピレーションを与えた。不朽の名著、待望の新訳決定版。人類社会のアルケーヘ。

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

贈与は呪い。「贈与交換」は無限ババ抜き。
貨幣経済とどっちがカオスか、と問われると難しいが、個別清算であるぶん、貨幣経済のが健全だろう。
一方で貨幣はムラを分断するだろうから、互助の精神は希薄化するのだろうな。

読むほどに不安と恐怖を感じる。
呪いとしての贈与文化は苦手。
しかし何度も読み返したくなる蠱惑的な本。
GIVE&TAKEみたいなペラい本と違い、プリミティブな人類に対する示唆が超絶多い。

0
2022年08月12日

Posted by ブクログ

贈与論
人やモノを全て含んだ円環状の贈与体系をトロブリアントの民族からの実地調査をもとに検証している。また、贈与をするための霊的な感覚による根拠(ハウなど)を同時に示し、人類の経済の基層に贈与・交換があることを明らかにした。
ハウとは、何か物を与えられたら、人に与えなければならない。そうしないと、落ち着かないという気持ちを霊的存在に見立てて解説したものである。モノをもらっても人にあげなければ、ハウという悪い神が持ち主をどんどん蝕んで最後には殺してしまうというのである。これは、ものではわかりにくいが情報ならどうだろう。噂話を聞いたら人に語りたくなってしまう気持ちは、ハウによるものではないかと思う。円環状の贈与形態について、トランプをしていて気づいたが、ババ抜きは円環状の贈与形態のアナロジーではないかと思う。人からカードを受け、人にカードを渡す。そして、負ける人間とは、人に渡せない唯一のカード(ジョーカー)を最後に持っていた人である。このジョーカーを、持ち主を最後には殺してしまうハウに見立てるのは不自然ではないはずだ。時々思うのであるが、カードゲームや占いなど、古くから非科学的でありながら人々に親しまれてきたものには、何かしら人間の根本原理ともいえる真理を抽象化した形で内包しているのではないかと思うのである。情けは人の為ならずという日本のことわざも、贈与論の円環状の贈与形態の話をしているのかなと思う。
映画「ペイ・フォワード」は私の好きな映画の一つではあるが、これは典型的に贈与論的下敷きがあると私は思う。恩を受けたら、もらった恩をその人とは異なる3人の人に贈る、「恩送り」運動を少年が企画して、ロサンゼルスで一大ムーブメントを起こすというこの映画は、今や英語の教科書でも取り上げられている。
様々な経験的な具体例を挙げてきたが、人間は常に贈与・交換をする動的なシステムにいるという点は、レヴィ・ストロースに繋がっていると実感できる。本自体について言えば普通だが、脚注が膨大なので内容は少しだからすぐ読めた。

0
2017年01月04日

Posted by ブクログ

[メモ(暫定)]一連の研究の問題意識は「未開あるいはアルカイックといわれる社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られたものに潜むどんな力が受け取った人にその返礼をさせるのか」であり、モースが分析の対象としたポトラッチやクラは以下の特徴をもっている。①交換し契約を交わす義務を相互に追うのは個人ではなく集団である、②彼らが交換するものは、専ら財産や富、動産や不動産といった経済的に役に立つものだけでなく、何よりもまず礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、婦人、子供、舞踊、祭礼、市といった社会の全領域にわたる資源であり (全体的給付)、経済的取引はその一部にすぎないということ、そしてこの給付に対する反対給付がなされなければ公私にわたる闘争が起きる。贈与する義務、受け取る義務、返礼する義務の三つが働いている。
ポリネシアやメラネシア、北西アメリカの民族誌、はたまた最古のローマ法や古代ヒンドゥー法、ゲルマン法から贈与=交換の行為やそれに関する精神が浮き彫りにされるが、①それらを社会構築の原理にまでまとめたところに『贈与論』のすごみの一部があるのではないかと。一見すると自由でありながら、しかし義務として守らなければならない贈与=交換は他集団との平和的連帯を作る有効すぎるほどの手段であり、それはまったく過去の理論ではない(むしろ普遍的なものだと言いたい)。モースが晩年傾倒していた労働組合運動などはまさに社会的な互酬性を志向するものであって、楽観的に捉えているようにも感じたが、たしかにそういう志向こそが互酬という友愛に満ちたすばらしき道徳への回帰につながるのであろう。②またマリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』で行ったのと同様に『贈与論』は、経済学によってなされてきた、凝り固まった図式に歪められ矮小化されてきた未開人の経済生活に関する先入観を相対化した。(その先入観とは、“原始人ないしは野蛮人は、あらゆる行為を、私利私欲を求める合理的な考えに促されて行い、目的を直接的に、かつ最小の努力で達成する。人間、特に低い文化水準にある人間が開花した利己主義からくる経済的動機に純粋にしたがって行動する”というもの)

『贈与論』から引用する。
「オーストラリアや北アメリカ(東部と平原インディアン)のクランの生活を統御する、集団の内側の比較的不定型で無私無欲的な経済がある。他方に、セム族やギリシャ人によって見出されて以来、少なくともその一部分がわれわれの社会にも知られてきた、個人主義的で純粋に利益追求的な経済がある。これら二つの類型の間に、経済制度や経済事象の膨大な系列のすべてが段階的に並べられるといえる。この系列は、容易に理論が組み立てられてきた経済的な合理主義に支配されているのではない。」(p278)

※「経済社会学上および政治経済学上の結論」の部分は、個人的にはすぐれた労働論のように思われるし、また網野善彦『無煙・公界・楽』の市場という場の性質と商品の性質につながるものがあるように思える。

③「全体的社会事象」という研究対象の提案が功績の最後に挙げられる。これはデュルケム『規準』の「社会的諸事実を物のように考察すること」を洗練させ、深化させたものではないかと思っている。(それまでの社会学が、社会の諸要素をあまりにも断片的に分割しすぎ、あまりにも極端な抽象を行っていたことへの警鐘であると。)複雑な現象を、諸要素に分割することなく、動的な状態で全体を具体的に観察し記述することによって、その事象の「本質を、その全体の運動を、その生きた側面を、社会や人間が自分たち自身と他者に対する位置を情緒的に意識するその儚い瞬間を」、捉え、理解することができる。

最後に
「諸社会は、社会やその従属集団や成員が、どれだけ互いの関係を安定させ、与え、受け取り、お返しすることができたかに応じて発展した。交際するためには、まず槍から手を放さなければならない。そうして初めて、クランとクランのあいだだけでなく、部族と部族、民族と民族、そしてとりわけ個人と個人のあいだにおいてでも、財と人との交換に成功したのである。その後になってようやく、人々は互いに利益を生み出し、共に満足し、武器に頼らなくてもそれらを守ることができるようになった。こうして、クランや部族や民族は――だから、文明化されているといわれているわれわれの社会においても、近い将来、諸階級や諸国民や諸個人は同じようにできるようにならなければならない――虐殺し合うことなく対抗し、互いに犠牲になることなく与え合うことができたのである。これこそが彼らの知恵と連帯の永遠の秘密の一つである」(p290)

――――――――――――
薄いがアツく偉大な作品だった(全く関係ないが、一番最後に「アーサー王物語」の円卓の騎士の話をもってくるあたりとても好き)。レヴィ=ストロースを勉強し直すための有意義な遠回りだったと思える。『贈与論』は明らかにレヴィ=ストロースに「交換」の示唆を与えたのはわかるが、ブルデューが感じとった「実践」や「戦略」の含みをどんなにがんばっても感じ取れなかったわたしは、まだまだ未熟でも読み込みも浅いのでしょう。それにしても誤植が多かった。。。

0
2012年11月07日

Posted by ブクログ

全人類に共通する慣習「贈与」。

これは、単に与えるだけではなく、受け取った側が返礼の義務を負うという点に特徴がある。
また、贈与に対する返礼といっても単なる物々交換ではなく、宗教的・法的・競争的・経済的・政治的な要素を多分に含んでおり、それらは全て集団的である。

本書は、世界各所および、あらゆる時代における人類社会の贈与活動についての考察を通して、現代社会が陥っている個人主義偏重を批判している。

本書で提案されているのは、貨幣経済に偏重しない、より集団社会的な人類の営みである。

0
2011年11月27日

Posted by ブクログ

 特に一部の地域コミュニティでは、人間の活動は贈与で成り立っている。そこには、霊とのつながりから導き出される現所有者との
過去所有者とのつながりがある。それが、恐らく地域コミュニティにおいての不和をなくさせてきたのかもしれない(もしかしたら、逆なのかもしれないが)。
では、なぜ現代社会では不和がすぐ近い人間同士でも起こるのか?それは、現代社会がつながりを見えなくしているからかもしれない。
人間、やはり視覚でとらえられないものに対しては非常に弱い(ラ・ポール効果の目隠しした人の誘導でも分かるが…)。それが人とのつながりを
希薄にさせているのか…。考えさせられる逸品である。

0
2009年10月07日

Posted by ブクログ

様々な地域に残る贈与と返礼の義務という伝統的な習慣を膨大な資料を元に比較研究し、贈与の与える社会的な役割や影響を研究した書籍。現代の日用品の交換などの贈与との違いは精神のコミュニケーションでもあること。贈与は神聖な儀式であり、富を破壊(消費)することで争いではなく信頼関係を築き、クラン同士の結びつきが強まり文化圏を広げ、また再生することで循環が生まれ文化が成熟していったのかと思います。最初難しかったけど、終盤で突然頭の中のゴリラ達が一斉に立ち上がり武器を捨て、経済活動をする瞬間があって気持ちよかったです。

0
2021年04月27日

Posted by ブクログ

今春ころから気になっていた、モースの『贈与論』を読みました。
モース(1872-1950)は社会学者であり、民俗学者であり、
当時の彼の学生や交友のあった学者からは、「彼は何でも知っている」と言われたり、
思われたりしていたそうです。そういう博識の大学者タイプの人だったようです。

さてさて、ずっと頭に引っかかっていて、
きっと現代の生きにくさをやわらげる一つのヒントになるんじゃないかと思えていたこの『贈与論』。
その贈与についてですが、まず原始的な社会において、「物々交換」とされるような、
その文字通りの意味での淡泊な交換は存在しなかったみたいです。
霊とか魂、そう書くとオカルト的に思えちゃうけれど、そういったような元の持ち主の力、
もしくは物自体が秘めている力が宿っているし(これはポリネシアなどその地方地方によって違うようです)、
物と物とを交換しながら、その魂・霊・力を贈与したりされたりしている、という感じのようです。

ここでのポイントは、元の持ち主の力が宿っている、というところですね。
現代に置き換えると、たとえば楽天市場で自分の顔を出して商売している人がいるとします。
その商品(お酒でも、チャーシューでも、果物でもいいですが)を買うことで、
その商売している主人の人柄も買っているような気になることはないでしょうか。
すごく気に入った商品であるならば、商品をみると、その主人の顔も思い浮かぶような。
そういった感覚って、実はアニミズム的な、この『贈与論』で言われている感覚に近いんだと思っています。

そして、その感覚は主人への敬意を生みます。
他者への敬意を持つことは、他者をあまりにぞんざいに扱ったりしないことに繋がる。
お互いに敬意を持ちあう社会というものは、成熟した人間関係が望めるかもしれない。
それは、コミュニケーションにおいての責任感を生むだろうし、
他者への暴力性を弱め、利他の精神を強める意味を持ちそうな気配があります。
人と人の関係のあったかみであり、それぞれにいとおしい関係、
それが望めそうだということです。

なので、顔が見えることの長所を今書きましたが、
トレーサビリティ(野菜などがどこで誰が作ったかを記載すること。
お菓子などの商品ならば、原材料まで遡って、どこのものなのかを明白にすること)
っていうのが、安全や安心や、何かあった時の責任所在を明らかにするだけのものかといえば、
そうではなく(逆にそれだけだとちょっと殺伐としたシステムのようにも感じられる)、
顔が見えるということで、前記のアニミズム的感覚を感じる助けになりもするのです、意識次第で。

また、モースによると、労働者は労働とともに、
時間や命や自分の中の何かまでを与えていると感じるもので、
それらまでもが適度に報われなければ、怠惰と生産性の低下に結びついてしまうということです。
(昨日の論理学で覚えたての)対偶でいえば、「怠惰や生産性の低下がないのならば、
労働者は自分が与えているものに対しての報いを受けている」といえます。
それはつまり、生産品の受け手が、
労働者の「顔」を感じて敬意を持つことに繋がるのではないか。
僕はそう考えました、だから、現代の生きづらさも経済の下降もやわらげることが
できるのではないかと思ったのです。

また、こういうのもありました。
「知って貰う」ことの大事さが、「未開」とかという誤解された言い方をされる
原始的(?)部族のなかには基本的にあるみたいですが、そういうところ、
「今」において大事なような気がするんですよ。
自分を「知って貰う」ということ。そしてそれが他者に知られていないがために
傷つけられたり抹殺されたりすることなく、逆に敬意に繋がっていく。匿名性の反対です。
じゃ、匿名はいけないかというと、僕はちょっと困ってしまうんですよ、
このブログだってツイッターだって匿名でやっているし、
FBは友達以外には見えないようにしているしで。
折衷案みたいなものですが、「知って貰えれば」良いとすると、
ハンドルネームであっても、僕はこういう人だということを
知って貰えるように表現していれば、それで事足りるのではないか。
某掲示板のように、個性を潰してみな匿名でやるのとは違います。
その某掲示板的な匿名性と、実名でなんでもやることの中間的なところでも、
「知って貰う」ことの効能はあるように思うのですが、
みなさんはどう思われるでしょうね。

そして、やっぱり、施しすぎるのは良くないと書かれている部分がありました。
贈与にはお返しをしないと、毒になるようなところがあるとされていて、
そこを考えてのことのようです。
まぁでも、そこは、人と人との関係性に置いてですから、物をプレゼントして、
物以外で返してもらっていることもあると思うので、複雑かもしれない。

とまぁ、そういうところです。
前にモースの解説本を読んでいたので、要所要所を読むような感覚で、
すらーっと一冊読めてしまいました。
一冊の半分くらいは注釈なので、実はそれほどの分量はないです。

そんなわけで、今回は、僕の考えを深めたもの、
というか、もともとインスピレーションされたというか、
影響を受けたその原書を読みましたという報告のような本の紹介になりました。
気になる人は、じっくりと読んでみると得られるものがあると思います。

0
2014年09月11日

Posted by ブクログ

ドイツ語におけるGiftは「毒」の意味も併せ持っているというのは象徴的だ。そう、資本主義が商品の売買によって他者との関係を築くのに対して、それ以前の未開社会は相互の贈与によって他者との関係を築き、それは政治や法律の代替として機能していた。だからこそ贈与には受領や返礼の義務が付随するのであり、それは又物品だけでなく感情の交換をも担う行為でもあった。「貰ったのと同じだけ施しなさい。そうすれば万事上手くいく」これは決して偽善から生じたものではなく、人類の歴史が育んだ叡智の結晶であったのだ。知的興奮が止まらない。

0
2013年08月26日

Posted by ブクログ

本書は、経済は市場経済だけではないという論証になっていると思うので、市場経済に苦しめられている私としては救われる書物であった。
贈与経済を実践するためには、贈与を義務としてとらえるというマインドや贈与先の無数のリストを保持するという条件が必要だが、未開社会や原始的な社会においては、神話や呪術や宗教や法や倫理が様々に入り組んで構造化されることで、その二つが人間に与えられている。
そういうものをこれから組み立てようとするのは至難の業のようにも思えるが、やはり必要な気がする。最終的には、人類共同体が生き残るためのきまり(=倫理)の追求の問題になるのかな?

0
2013年12月27日

Posted by ブクログ

贈与と返礼を巡る考察。豊富な具体事例も魅力の一つ。

古代社会・未開社会での経済を考えたとき、「物々交換」とは異なる原理が存在するのではないか、ということを事例を引きながら丁寧に説いている。本文中の引用に留まらず、注釈部においても多く事例が掲載されており、読むのにとかく時間がかかった印象。それだけに結論部で述べられている利己的すぎてはいけないし・度を過ぎた寛大であってもいけないこと、また社会学という学問のあり方についてが非常に印象的だった。

0
2012年01月03日

Posted by ブクログ

ほぼ世界の全域にわたる地域に関する資料を渉猟し、古代の法に関する文献を蒐集することによって、贈与、受領、返礼を義務とする文化が、太古から人類のあいだに、しかも地域を横断する仕方で息づいていることを、比較文化的に浮かび上がらせる文化人類学の古典的研究であるが、そのアクチュアリティは、発表から85年以上を経た今も色褪せない。本書の議論において何よりも重要なのは、人類が太古から、場所によっては「ポトラッチ」と呼ばれる蕩尽の祝祭に極まる歓待と贈与の文化を発展させてきたことであり、またそこに生まれる鷹揚な交換を可能にする関係こそが、文化そのものを育んできたという洞察であろう。それとともに、英語のinterestという語で表わされる私的利害の追求が、簿記の行なわれる比較的新しい社会の歴史的産物であることも明らかになる。むろん、蕩尽の祝祭には呪術的な供犠が伴なうこともあるし、モース自身が認めるように、それが引き起こす興奮は、戦争とも隣り合わせのところに人を拉するものでもある。しかし、人間は贈与を通じて他の人々との協働関係を築いてきた。そのことの底流をなすモラルを見逃すべきではないとモースは言う。「感情には理性を、こうした突然の狂態に対しては平和への意志を対置させることによって、諸民族は戦争、孤立、停滞を協同関係、贈与、交易に変換させることができたのだ」。このことを可能にするモラルの所在を、いまは見失われつつあるのかもしれない人間の、あるいはその主体性の根源史のうちに探り当て、モースも述べているようにその地点から、「政治」と呼ばれるものを「ポリス」の手前で捉え返すことが、今あらためて求められていよう。

0
2011年11月08日

Posted by ブクログ

業務の中で存在を知り、読んでみました。
前半は、「贈与『論』」というほど一般化された内容ではなく、贈与の原始的な形態にまつわる事例の紹介ばっかりだな、と思って読みました。
後半に入り、贈与に関する一般化についての話が始まるのか、と思ったのですが、強引な推論や飛躍が多い印象を受けました。

結果として、自分にとって、とっても読みにくい本でした。
その原因が、著者のせいなのか、翻訳者のせいなのか、己の無知(著者と自分の時代背景や育った環境の違いも大きいかも)のせいなのか、はわかりませんが。

そもそも、この本における「贈与」という言葉の使い方が適切なのかどうかも疑問ですが(モノを贈る、という意味では「贈与」の要素はあると思うのですが、現在の「贈与」の意味からはずれているように思うのです)、とりあえず、ここでいう「贈与」に、貨幣や契約や経済や政治の原始的な形を見出し、現代へのつながりを考察しようとしていることだけは、少し理解できた気がします。

0
2022年06月14日

Posted by ブクログ

現代では人の法と物の法とが区別される。
アルカイックな社会では区別がない。物に人格が宿る。

破壊を伴うようなポトラッチとて利益に無関心なわけではない。
富とはまず何よりも他者を支配する手段なのではないか。


いろいろ考えさせられる。。。
全体的給付と、貨幣による交換との前提条件の違いは
ネットワークの開放具合、密度の差じゃないのかな。
全体的給付では、
・全ての取引が人格を帯びる
・意味合いが常に集団内で確認される。

貨幣の性質・・・富の保存、尺度
 これが取引の形や、富への態度に影響しているはずと思う。

後続の研究とか色々あるんだろが、どうなっているのかな?

しかし訳はこれでいいのかね?

0
2018年11月05日

Posted by ブクログ

アメリカなどの先住民のポトラッチなどから贈与が社会の基板であることを説いたモースの視点は感嘆の声を上げてしまう。
贈与の本質は3つの義務で
1.贈与する義務、2.受け取る義務、3.お返しをする義務
で、正のフィードバック構造を持つために、時には人を死に追いやったり争いに発展するという苛烈さからも、贈与という規範が社会の中枢に根付いているのが理解できる。

ただ、先住民の生活の基板が贈与で、資本主義社会に批判点が山のようにあるから、贈与社会に逆行しろという説は、あまりにも急進的であり論理が飛躍していると言わざるおえない。

いわゆる古典というのは、発想の斬新さと論理の跳躍の2つを兼ね備えていることがよく見られるし、レヴィ=ストロースなど後の文化人類学に多大な影響を与えたのは間違いない。
また、近年注目されているSNSのいいねや文化資本の問題などは、この贈与論の視点から見ると面白いし、多くの評論は多大な影響を受けている。

とりあえず、ポトラッチとタオンガ、この2つを覚えておけ(笑)

0
2016年03月16日

「社会・政治」ランキング