映画監督・山田洋次の最新作『おとうと』の撮影現場を三ヶ月にわ
たって密着取材したドキュメント本です。
山田洋次と言えば「寅さん」ですね。映画版『男はつらいよ』は、
1969年から1995年までの26年間で全48作品が上映されていますが、
寅さん以外にも『幸福の黄色いハンカチ』『息子』『学校』『母べ
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え』など、国民的な映画を撮り続けてきた名監督です。
山田監督の作品に共通するのは独自のヒューマニズムの精神です。
東大出身の秀才にも関わらず、あくまでも庶民の側に立って、人々
の喜怒哀楽を描ききる。それが「くさい」とか「予定調和的」など
と言われ、敬遠されたりもするのですが、観ればやっぱり笑えるし、
泣ける。そこには山田洋次ならではの味わいがあるのです。
とは言え、井上は、『たそがれ清兵衛』を最後に、近年の山田作品
は観ていません。『おとうと』も未見です。なのに突然に山田洋次
に関する本を読みたくなったのは、先日、新聞で山田監督が学生と
作った『京都太秦物語』に関する記事を読んだからです。そこには
学生の製作スタッフ達に向かって、映画は、役者と一緒に泣き、笑
いながら作るものだと語る監督の姿がありました。ああこの人はこ
うやって映画を作ってきたんだなと思って、胸を打たれたのです。
本書では、映画を集団芸術として捉え、チーム全員でアイデアを出
し合い、助け合い、ぶつかり合いながら一つの作品を作り上げてい
くことを執拗に求める監督の姿が描かれます。納得するまでとこと
ん考え、役者やスタッフと延々と話し合う姿勢は、一見、非効率で、
無駄に見えます。しかし、山田監督にとっては、役者やスタッフを
巻き込みながら試行錯誤する過程が重要なのです。そういう身近な
他者とのやり取りや関係づくりなしに、観客という名の「他者」に
伝わるものは作れない。そう山田監督は確信しているのでしょう。
山田監督のやり方は、とても真っ当な集団創造のスタイルに思えま
す。しかし、その真っ当なスタイルも、時代の流れの中で変質せざ
るを得なくなってきているようです。デジタル化やスタッフのフリ
ーランス化がその大きな理由ですが、「効率」一辺倒の世の中の風
潮のせいもあるのでしょう。
それは致し方ないことなのかもしれません。でも、蒼井優のような
若い役者やスタッフ達が、山田洋次のスタイルに触れていく中で、
確かに何かを受け取り、成長し、創造的になっていくのを見ている
と、やはり山田監督のやり方には、人を育て、集団の創造性を高め
るためにとても本質的なものがあるように思うのです。
集団で何か一つのことを成し遂げようとしている方には特におすす
めの一冊です。是非、読んでみてください。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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山田は、集団に参加した全員が共通して抱いたひとつのイメージに
向かって助け合い、努力することが必要だと説く。全員で相談し、
助け合い、努力するなかで生まれる心の通い合いに喜びを見出すの
だ。
以前、ある俳優が、脚本に書かれた自分のセリフに蛍光ペンでマー
クをしていた。それを見た山田は烈火のごとく怒った。
「きみは自分の芝居だけをすればいいんじゃないんだよ。全体での
きみの立ち位置をちゃんと見なくちゃいけないんだ。自分の番がき
たからセリフを話すということではないんだ」
どうしたら違和感を払拭できるのか。どうしたら自然に見えるのか。
そのことを追求するためには、どんなに短いカットでも、山田は必
死の形相で臨む。凡百の監督なら軽々と済ませてしまうようなカッ
トに一時間近くの時間を費やす。
山田の考えるリアリティとは、徹底した事実の集積ではない。(…)
山田にとっては事実よりも本当らしいこと、自然だと捉えることが
できるものがリアリティなのだ。
かつて山田は、自分の職分を終えたスタッフが、俳優の芝居を見ず
にセットの外に出て煙草をふかしている姿を見つけ、強い口調で諭
した。「みんなで芝居を見ようよ!役者を励まそうよ!」(…)
山田は、スタッフ全員で芝居を見つめることが、俳優からいい芝居
を引き出すことにつながると考える。
演出を受けた女優の蒼井優も、山田の現場での印象をこう話す。
「常にぎりぎりまでいろいろなことを疑って、疑って、これでいい
のかということを考えていらっしゃいましたよね。それで変える。
常に変化されていると思いました」
山田はむしろ、明確なイメージを持たないほうがいいと思っている
のかもしれない。現場で悩みに悩んで、テストを重ねて、試行錯誤
しているうちに正解が発見できる。そうすることで最良のものを生
み出せる。それだけではなく、映画製作の技術も詳しく知らないほ
うがいいとさえ考えているのではないか。
山田は、スタッフはプロの集団だから、悩むべきはスタッフだと言
っている。こんなふうにしたいと考える姿勢を求めている。(…)
「自分がやるより、もっといいものができるだろうと思っているん
ですよ。自分が具体的に指図するよりいいものになるだろうと」
山田洋次は、効率とは正反対の位置に身を置く。(…)映画作りそ
のものに時間をかけ、面倒で回りくどい手順を踏む。トップダウン
で明快な指示を与え、スタッフがそれに忠実に応えれば効率よく製
作できる部分を、山田はあえてスタッフを悩ませることで解決しよ
うとする。そうすることで人が育ち、未来にわたって豊かな映像文
化が伝えられると考えているのかもしれない。
山田が望む映画の作り方、つまり「みんなで、こうすればいい、あ
あすればいいと相談し、助け合いながら表現の方向を見定めていく
というやり方」は、次第に時流に合わなくなっていく。
効率が求められる社会では、経験の浅い若者に対して、十分に考え
る時間を与えることができない。それこそ、最短距離の結果だけを
求めている。問題はそうした部分にこそある。
「小説家が小説を書くとき、歌手が歌を歌うとき、絵描きが絵を描
くとき、みんなそうだと思うんだけれども、作るときは幸福な気持
ちじゃなきゃいけないんですよ。充実してなきゃね。描きたい描き
たいという思いが溢れながら映画を作ったり、音楽を演奏したり、
絵を描いたりしないといけないんだからね」
今回、山田組に初めて参加した照明技師の渡邊孝一は、初参加の印
象をこう話した。「これほどの緊張感のなかで仕事ができるという
のは、今やあまりありません。しかも独特の緊張感なんですね。
(…)緊張感というよりも、もしかしたら充実感なのかもしれない
ですね」
本番で出た偶然の結果を受容するのではなく、これで伝わるのか、
これで観客にわかってもらえるのかということを、粘りに粘り抜い
て考える。そのためにかかる時間は、山田にとって切り詰めるべき
無駄ではない。映画を作る上で絶対に欠かすことのできない無駄な
のだ。
家族という逃れられない存在と付き合うのは、人生の縮図そのもの
である。であるならば、日常に起こるどんな現実からも逃げずに、
ひとつひとつのことを丁寧に経験することに意味がある。そして、
そこにどんな失敗があったか、どんな感動があったかということを
感じ取ることが、人生の豊かさにつながっていくのではないだろう
か。一足飛びに目標に到達することだけを考える人間には、それは
決して得られない。
結果だけを追求し、どれだけ高い頂に立つかということだけを目指
すのではなく。日常のなかで家族や地域社会と向き合うことを通し
て、人間や社会のありようを考える。山田洋次は、無駄として切り
捨てられてきたそうしたことの積み重ねの必要性を、映画を通じて
訴えようとしてきたのではなかったか。
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●[2]編集後記
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最近、昔の道具を改めて見直すことが多いのですが、その一つに鉛
筆があります。
いつから鉛筆を使わなくなったのか、もう思い出せないのですが、
大学生の頃は、鉛筆よりもシャープペンになっていましたから、高
校生くらいが境なのかもしれません。働き出してからはそれがボー
ルペンに変わり、以後、十数年、ずっとボールペンを愛用してきた
のですが、ここ2年くらいは、鉛筆に逆戻りしています。
きっかけは何だったもう思い出せないのですが、ボールペンで本に
線を引いてしまうと、古本屋さんに売れなくなってしまうからとい
うような、至極つまらない理由だったと思います。
で、使ってみると、何とも手に馴染むのですね。こんなに軽かった
っけ?と一瞬、戸惑うのですが、すぐに手の一部になって違和感が
なくなるし、木の温もりもとても心地いい。長らく忘れていた感覚
ですが、身体は覚えていて、指先から小学生の頃の記憶が蘇ってく
るのがわかります。それはちょっとぞくぞくするような感覚です。
今はもう鉛筆のない暮しは考えられなくなってしまいました。カリ
カリと削っている時がまた楽しいのです。
小学生でもシャーペンの時代。文房具屋さんの棚でも、鉛筆は何だ
か肩身が狭そうですが、こんなに素敵な道具が忘れ去られていくの
が「効率」だとしたら、それはやっぱり惜しいことだと思うのです。