マイク・モラスキーのレビュー一覧
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ピアノトリオ モダンジャズへの入り口
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Posted by ブクログ
本書の著者はアメリカの都市社会学者で、タイトルである「サードプレイス」の提唱者でもある。サードプレイスとは文字どおり、家庭(第一の場所)、職場(第二の場所)につづく「第三の場所」のことだ。家庭や職場ではない自分の居場所とでも言えるだろうか。サードプレイスはインフォーマルな公共生活の場の中核であり、人びとをストレスから解放してくれる。サードプレイスのおかげで、人びとはくつろいだ充実の日常生活を送ることができるのである(51頁)。ところが現代の都市環境が悪化し、公共のくつろぎの機会が急激に失われていると著者は懸念している。本書の目的のひとつは、「サードプレイスが国家と個人生活の双方に役立つことをきちんと理解すること」(63頁)である。
本書は三部構成になっている。第一部はサードプレイスの「本質」について説明している。著者の言う「サードプレイス」とは「家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場を提供する、さまざまな公共の場の総称」(59頁)のことである。このような公共の場は時代、国、文化を超えて存在しているけれど、それらの共通点とは何なのだろう?
サードプレイスには「家庭と仕事から逃れられる安らぎの場」(66頁)であるということ以外にも共通点がある。サードプレイスは家の近所にあって、いつでも自分の好きな時に行くことができる。そこにはかならず常連がいて、「活発で、機知に富み、華やかで、魅力的」(74頁)な会話が行われている。サードプレイスは「人を平等にする」(69頁)ので、職業や立場を超えて色んな人が集まる。そのため、交友関係は形式張らず(インフォーマル)、会話にはつねに目新しさがある。サードプレイスでの会話は有益な気晴らしになるし、それによって「心の健康と前向きな人生観」(108頁)が得られる。さまざまな人が常連なので人付き合いの幅も広がる。つまり、ひと言で言えば、サードプレイスは人びとにくつろぎを提供してくれるのだ。家庭、職場、そしてコミュニティを謳歌できるサードプレイスという三脚台によって、くつろいだ充実の日常生活を送ることができるのである(51頁)。
第二部は欧米を中心としたサードプレイスの具体例を挙げる。ドイツのビール園、イギリスのパブ、フランスのカフェ、そして古典的なコーヒーハウスなど。こう書くと飲食ができる場所だけがサードプレイスになれるのか?と思われるかもしれないが、たとえば第6章では「リヴァー・パークのメインストリート」をサードプレイスとして論じている。つまり、お喋りや人付き合いが町の居酒屋などに限られず、メインストリートのいたるところで楽しい会話や社交が絶えず行われていたということである。
第三部は、サードプレイスを失わせる要因が述べられている。まず、第11章では「消費主義」と「個人的な関係」をキーワードとして、サードプレイスが枯れていってしまう都市環境の様子を描いている。著者によれば、現代の新しい都市環境を代表するのがチェーンの飲食店やショッピングセンターだ。そこでは、かつての公共の場とは違って「ぶらぶら歩いたり、のんびりくつろいだり、長居したり」できない(326頁)。物も買わずにのんびりされたら店の利益が損なわれてしまうからだ。つまり、ショッピングセンターでは人は没個性的な顧客や消費者として扱われるのである。快適な公共生活が得られなければ、人びとは「主寝室、グルメ好みの凝った設備の台所」などを備えた快適な家にこもってテレビを見て過ごすことを好むだろう。このような「より限定された個人的な関係」(340頁)を重視する生活は公共環境を悪化させることになる。
続く2つの章が論じるのはそれぞれ女性と子どものサードプレイスだ。
サードプレイスでの交流とは基本的に同性の間でなされる。同性と言っても大半は「男同士」であり、そもそも女性のサードプレイスというものは少ない。ひとつの理由は、家庭を完全に忘れてくつろぐことが女性にはないからだという(370頁)。家庭を持つ女性は女性同士の集まりに子供を連れて行くのである。著者はまた、夫婦関係の変化が(男性の)サードプレイスを失わせるとも言う。公共生活の少ない現代では、夫の人生において妻の存在感は大きい(389頁)。結果として、ほかの大人(男)との関係はますます弱くなる。著者は、この夫婦の「一体感」が夫婦関係を「不安な状態」に陥らせると論じる(391頁)。お互いを過剰に束縛する生活はストレスであり、行き着く先は離婚、という結果にもなりかねない。そのうえで著者は、男女別のサードプレイスが円満な夫婦関係に大きく貢献すると論じる(393頁)。サードプレイスが生活の重圧、ストレスを減らしてくれるおかげで人生が充実し、その結果として結婚生活を楽しめるのである(394頁)。
第13章は、サードプレイスそのものではなくて、サードプレイスを根付かせるようなコミュニティについて子どもや若者をからめて論じている。サードプレイスがなくなって多くの人びとは職場(第二の場所)の仲間とコミュニティ(「ネットワーク」)を作るようになった。しかし、そのようなネットワークには子どもや10代の若者の居場所はなく、元々のコミュニティの代わりにはならない(418頁)。
本書が書かれたのは今から30年ほど前であり、しかも舞台はアメリカである。そのため内容を実感しにくい部分があるのは否めないのだが、全体としては臨場感あふれる記述でイメージを持ちやすい。ユーモアもある。ただ、現在の日本に住む私にはいくつかの疑問がわいてくる。以下に二つだけ挙げておこう。
本書が物語の中心に据えているのは仕事を持っている既婚者の男性である(本書では男性について、男性の視点で議論されている内容が圧倒的に多い)。では、「仕事を持つ既婚男性」ではない人たちにとってのサードプレイスとはどのようなものなのだろう?本書では第三部で女性と子ども(10代の若者)のサードプレイスについてはそれぞれ1章が割かれている。しかし、たとえば大学を卒業して会社に入り、家(「家庭」ではない)と職場との往復が生活の中心になりつつも、アフターファイブや休日に(職場の同僚とは違う)仲の良い友達やサークルの仲間と過ごす。そんな若い男女は、特定の場所からくつろぎを感じるのではなくて、まさにその「人間関係」の中でくつろぎを感じているように思える。この場合、彼らにとってサードプレイスとは何なのだろう?あるいはサードプレイスは不要なのだろうか?
第13章で著者は「場所という観点から定義されるのではなく、一個人のつながりの蓄積によって定義される」(418頁)コミュニティ(「ネットワーク」あるいは「個人コミュニティ」)について述べている。近所の隣人ではなく、遠くに住んでいる職場の仲間に自動車に乗って会いに行くのである。著者が本書を書いた1980年代には今のようにインターネットが普及してはいなかったが、今の時代に生きる身としては当然、フェイスブックのようなSNSの位置づけが気になる。たとえばフェイスブックはオンラインの「場所」であるとは言えないだろうか?そこでのやりとりが家庭や職場とは違ったくつろぎを提供してくれる可能性は十分にあるように思える。
本書の巻末には日本文化の研究者であるマイク・モラスキーによる解説が付いている。モラスキーは本書の内容に共感し、称賛しつつもいくつか問題点を挙げている。そのうちの一つが、本書で取り上げられている事例が欧米のみに(ほぼ)限られている点である。モラスキーは赤提灯や大衆酒場といった庶民的な居酒屋を日本の代表的なサードプレイスであると考えているようだ。実際、『日本の居酒屋文化』(光文社新書)ではそのように論じている。こちらも合わせて読んでみると良いだろう。 -
Posted by ブクログ
【第三の場】
なんでもどこでも飲めりゃあいい派の僕だけど、酒は外で飲むものだ、と教えてくれた人がいる。そんなわけで、そこそこ実践しているのだけど、著者は筋金入りで、家では飲まないが、40年近く居酒屋に毎日のように通い続けている。そんな著者が、居酒屋が提供するのは酒とつまみだけではない、と語る。居酒屋とはなんなのか。それはオルデンバーグがいうサードプレイス、「第三の場」である。そして何より、「人」であると。
「者」より「物」、「店」ではなく「企業」の居酒屋にある演出ではなくて、その店、その人ごとに違う、自然発生的な雰囲気こそが居酒屋の魅力である。友達といって騒いでいたらわからないこともある。チェーン居酒屋に敵愾心を抱いている著者の、チェーン居酒屋の個室化≒社交性からの逸脱、これは居酒屋にかぎらず社会全体が直面している問題として考える必要があろう、と。
仕事柄全国各地に行くことがあり、一人で知らない店を探してさまようのが何より好きな僕にとっては、その行動の裏打ちをしてくれるような素晴らしい本である。社会的視点から見ているようでいて、好み丸出しだったりもする。店の雰囲気の紹介はあるが、写真はいっさいない。それでいい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ都市に暮らす人々が「心のよりどころとして集う場所」。家庭、職場、三番目の社会的な場所としての「サード・プレイス」という概念について。著者はアメリカの社会学者。イギリスはパブ、フランスはカフェ、そして現代におけるアメリカは?20世紀の海外文学を読んでいると話が展開するのは、雑貨屋だったりする。
店に集まる、場所に集まる、それは自発的なものもあり、戦略的なものでもあったりする。あるときは老人を街からしめだすための政策が存在する。
訳者の解説のなかで現代におけるスターバックスは街のコミュニティ性を目指して雰囲気を作り上げたということだが(注:この本が出版された頃にはまだスターバックスは存在していない)、いや果たして日本ではどうだろう。客同士が語り合うのはいまだにハードルがなかなか高い。
アメリカでの出版は89年だがコミュニティとしての「読書サークル」が既に存在していたこともうかがえる。 -
Posted by ブクログ
著者のマイク・モラスキーはアメリカ人の日本文学・文化研究者であり、ジャズピアニストとしての顔も持つ才人であるが、もう一つの顔が日本の赤提灯こと居酒屋をこよなく愛する”居酒屋ナショナリスト”としての顔である。
本書は、溝口、立川、大井町、府中、赤羽、立石、西荻窪などの町にある居酒屋を巡った飲み歩きエッセイという体裁を取っている。しかし研究者たる著者の力量がここからという感じなのだが、単なる飲み歩きだけではなく、その町の成り立ちやそのような居酒屋文化が発祥した背景としての町固有の歴史に関する調査もセットになっている点がこの手のテーマの本と一線を画しているポイントである。
町によっては公営ギャンブル、戦中・戦後の街娼、米軍による占領時代の記憶など様々な町固有のエッセンスが見え隠れする。そうしたちょっと硬めの内容と、極めてエッセイ的に柔らかい飲み歩きの記録が良い塩梅にミックスされて読者を飽きさせない。
もっとも、2011~2012年ごろの新聞連載を元にしているため、既になくなっている店も多いだろう(例えば、直近では大規模な再開発が始まった立石はその代表格)。その点で既に消えつつある飲み屋を懐古的に振り返られる、という意味合いも既に本書には生まれている。 -
Posted by ブクログ
郊外に一軒家を建てて休みの日は家族でショッピングモールにドライブへ、といったような生活が当たり前になっていくことへの危機感を強く感じる書。
アメリカをはじめ産業化が進んだ地域では、家庭や仕事場での役割から解放されて色々な人とたくさんの話ができる場が失われているという。ここで提示される居酒屋やカフェでは、経済的階級を超えて雄弁に人々が語り合える素晴らしい場であるようだ。
ただ、ここで著者が想定する失われつつある場(サードプレイス)の姿は、解説にもある通り非常にノスタルジックで、ジェンダーやエスニシティ的な観点からはあまり心地の良い場とは言えない。「昔は良かったよな…」から始まる忘年会大好きな上司の話を聞いている気分になる。
しかし、形のない「場」に注目する視点は、とても重要でありながら書くのが難しい主題であるようにも思う。この点に着目した本書が現在でも書店に並んでいるのには、納得がいく。 -
Posted by ブクログ
会社と家の往復だけの生活から何とか脱したいという焦りの中、書評で興味を持った本。職場・家庭以外のコミュニティ、特に近所の飲食店での人間関係や西洋のカフェ・バール等の歴史について書かれている。
最近は安いだけの均一的なチェーン店より、個人営業の家庭的な店(できれば近所でおいしくて、そんなに高くない)で顔なじみなところを開拓しようとしてるけど、なかなか見つからない。というか一人では入りにくい。チェーンの牛丼屋は無言で入れるのに・・・名無しさん&顔なしさんのコミュニティ、1回ぽっきりの場だから?
店員もチェーン店は異常に元気がよすぎるか、マニュアルで機械みたいな表情&接客。バーテンダー、ホストが客をまとめるなんてほど遠い理想に思える。
<メモ>
アメリカのショッピングモールの描写が日本と似ていてなんか笑えた。フードコートをたむろするティーンエイジャー、プチ高級ランチを楽しむ中流階級の奥様たち。今はほかに何もすることがないから、ただぶらぶらしている人。企業国家では友好ではなく商売が最重視される。顔のない人間たちの浮遊する混合体。
サードプレイスの特徴
・常連が多い
・大半が一日に一度、ほとんどが一週間に2度以上立ち寄る
・店内を自分の店のごとく動き回る
・いつまでもいる必要はない
・くだけた大声での応酬がある
・ゆっくり人間関係を築いていく
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』1963遊びは区別された場所で起こる
また、居酒屋を3つのタイプに分けている。
①致命的な居酒屋:通りすがりの群衆を引き寄せやすい立地にある。ショッピングモールや中心街、商業地沿い。客はエレベーターに乗り合わせた他人同士のように、互いにわれ関せずを決め込んでいる。孤独や退屈から逃れようとして入ったのに、客たちは情けない状態を互いに再認識させあうのがせいぜいなのである。他人と一緒にいても独りぼっち。
②BYOF(Bring Your Own Friend):自分で友達を連れてきてね。サードプレイスと似ているが、まとまりがあるようでない。内輪だけの楽しいおしゃべり。自分たちの集団によそ者が入り込むのを期待も歓迎もしないし別の集団へ渡り歩く者もいない。誰かが騒いだり馬鹿笑いしたら非難がましい視線を向けられる。
③サードプレイス:客同士にある程度の結束が見られ、それはただ同じ時に同じ部屋を共有しているだけの状態をはるかに超えている。一体感。新米者は急いで席をとる必要がない。他人の大声も気にしない。
昨今増えてる婚活バーや相席居酒屋。1980年代にすでに原型はアメリカにあったんだね。「アメリカの女性たちよ、賢くなりなさい!バーでたむろしている類の男たちなど、あなた方には必要ないのです」 -
Posted by ブクログ
『サードプレイス』を読む。今、翻訳されて読まれるべきものなのか? 初版は1989、第二版は1996である。翻訳はペトロスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』(平凡社、1995)でおなじみの忠平美幸氏。もともと原題は「The Great Good Place」でコミュニティの核となるカフェ、コーヒー店、本屋、バー、ヘアサロン、その他だから「サードプレイス」の概念や限界もそう広いとは思えないのだが、解説まで含めて480頁はただ事ではない。社会学者レイ・オルデンバーグの情熱を傾けたテーマは我々にとってどういう意味があるのだろうか。
解説のマイク・モレスキーが言っているように、『サードプレイス』は米国の中産階級が失った共同体と豊かさゆえの自己疎外への厳しい批判と受け止めることはできよう。しかし、ノスタルジーに満ちた「サードプレイス」は実現可能なのか。もう、そんな居心地のよい場所は帰ってこないのではないか。スタバの擬似的な環境はどこかよそよそしく感じられる。
なぜ、マックやスタバがサードプレイスになりえないのか。日本の午後のマックは勉強する学生の溜まり場とかしているが、彼、彼女らは会話をしない。黙々と自分に与えられた問題を解いている。答えを相談できる大人もいないしコミュニティもない。
片岡義男が『日本語と英語』のなかでdinarを取り上げていたのを思い出したのだが、そこは「飯食って行け!」と言うけど「サードプレイス」にはなりえない一見さん相手の大衆食堂でしかない。孤独を癒す「サードプレイス」ではなく「腹を満たすところ」と現実的な英語表現が羅列されていた。
職場(第二の場所)に近いでわけでもなく、家庭(第一の場所)に近いわけでもない、通勤途中の居酒屋でニュースの話題に相槌を打ち、淡い連帯感やアノニムな関係の中に僅かの安らぎを求める人々の憩いの場はなくてはならないという主張は受け入れてもよいと思う。なにより、日本版の表紙の写真が西荻窪の南口の盛り場の風景であるのだから。