竹中千春のレビュー一覧

  • ガンディーのことばと人生 心を強くする! ビジュアル伝記12

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    ビジュアル伝記とタイトルに入っているように、きれいな絵と豊富な写真で、とても分かりやすいです。ポプラ社、画期的な本を作られたなと思いました。このシリーズでは、ガンディーの他に11名の偉人の伝記があり、順番に読んでいきたいです。

    ガンディーの言葉、エピソード、ガンディー関連のクイズ、時代背景の説明、オススメ本と映画など、様々な角度から理解できるよう工夫されており、飽きません。ふりがな付きなので、小学校の中学年ぐらいから可です。この本は、前からでも後ろからでも読めるようになっています。ここも面白い。前からいけば、ガンディーの言葉、後ろからだとクイズです。

    ガンディーの言葉で気に入ったのは、次の言葉です。

    “真理とはみずからの内なる声である。”
    “よいものはカタツムリのように進むのです。”

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    2025年10月23日
  • ガンディーのことばと人生 心を強くする! ビジュアル伝記12

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    ガンディーっていい言葉がたくさんあるんだね。ガンディーを尊敬してる人5人くらいノーベル平和賞とってるんだってよ(10歳6ヶ月本人談)

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    2025年06月14日
  • ガンディー 平和を紡ぐ人

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    宝塚みたいに現実とはかけ離れた世界観にハマるっていうのがあって、物理の世界とかも現実なのに現実逃避できるレベルですごい話が多いから好きなんだけど、インド関連も日本とあまりにも世界観が違いすぎて現実逃避できて好き。インドの古典も面白かったけど、ガンディーについて知ることで、現代インドが知れた感じがした。知りたかったパキスタンとの国境の話とか

    竹中千春
    日本の政治学者。専門は、インド政治・国際政治史。東京都生まれ。東京学芸大学教育学部附属高等学校を経て、1979年東京大学法学部第3類(政治コース)卒業。東京大学法学部学士助手(1979-83年)、東京大学東洋文化研究所助手(1984-89年)、立教大学法学部助手(1990-92年)、明治学院大学国際学部助教授(1992-2000年)、教授(2000-2008年)。2008年4月立教大学法学部教授に就任。2022年3月立教大学を定年退職。夫は政治学者・元東京大学大学院法学政治学研究科教授の藤原帰一。

    受賞歴
    2011年 - 大平正芳記念賞(『盗賊のインド史』)



    モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーは、一八六九年一〇月二日、ポールバンダルという藩王国で生まれた。ポールバンダルはアラビア海に面した港町で、現在はパキスタンのシンド地方に隣接するインド北西部グジャラート州に

    少年時代への自己評価は高くない。小学校では記憶力が劣り、後に人並みにはなったものの、中学校では引っ込み思案で、学校が終わるや否や、すぐに家へ飛んで帰るような子どもであったという。人とのコミュニケーションが苦手だったらしい。「書物と課業だけがわたしの伴侶だった」と『自伝』で語っている。もっともこれは本人の自画像で、実際には勤勉で優秀な生徒であったらしい。

     親友の一人にシェーブ・メータという少年がいた。肉を食べ、酒や煙草に親しみ、売春宿にも行く豪放磊落 なイスラームの男の子だった。スポーツマンのシェーブ少年は、「イギリス人がぼくたちを支配できるのは、彼らが肉を食べているから」だと、モーハンダースに繰り返し肉食を勧めた。ヒンドゥー教徒と違って、イスラームの人々はもともと肉食を常としている。この友人の誘惑に、「わたしは負けた。肉を食べてもかまわない。そうすれば強くなるし、大胆になれる。もし国じゅうの人が肉食をすることになれば、イギリス人にうち勝つこともできよう。こんな考えがわたしに生まれた」と、『自伝』で告白している。

    まず、チャンパーランとはどのような土地だったのか。ここはビハール州の北西部にあり、その北はネパールで、当時はビハール=オリッサ州の管轄下にあった。ベンガルの後背地であり、一九世紀にはイギリス人の資本家が進出して土地を確保し、藍(インディゴ)のプランテーション、つまり大農園をつくった。産業革命を驀進するイギリス本国の綿工場が必要とする染料の藍である。東インド会社は鉄道を敷き、税務署、警察、裁判所が置かれた。イギリス人用のバンガローが建てられ、ホテルやクリケット・クラブが開かれた。ちなみに、小説家のジョージ・オーウェルは、父がインド政府の役人として働いていたため、チャンパーランの県庁所在地モーティハーリ生まれの人である。

    仲間の心配をよそに、ガンディーはひたすら頭を悩ませていた。どんな民衆の行動が可能か。誰もが参加できる、民族や宗教やカーストの差別のない戦いは何か。スワラージの正しさを示す行いとは何か。熱血的な若者を導き、人々の怒りを暴動やマイノリティ迫害に向かわせないために、どうするか。彼は黙考を続けた。

    藩王国を代表したマハーラージャたち、イスラーム代表としての全インド・ムスリム連盟のジンナーら、パンジャーブのシーク教徒の代表、クリスチャンの代表、「不可触民」として差別された人々を代表するアンベードカル、そのほか様々な代表にとっては、「自分だけがインドを代表する」と言うガンディーの主張は失礼であり、自分たちの存在を否定するものだと不評だった。当然と言えば当然のことだが、その結果、ガンディーは会議の場で終始孤立することになった。

    ガンディーの説いた平等は、平等を教義とするイスラームにも別の次元から問題をもたらしたが、高いカーストのヒンドゥーの人々にとっては簡単には認められないものだった。ガンディーはイスラームとの平和を説き、カースト差別を否定し、ヒンドゥー教徒がイスラーム教徒に襲撃される事件が起こっても報復するな、と非暴力を説いた。それにもかかわらず、市民不服従運動を突然停止したり、自分たちが獄につながれている間にも、ロンドンで国王とのんびりお茶を飲んだりしているではないか。怒りを露にするヒンドゥー青年が出てきても不思議ではない。「ヒンドゥー国家インドの復興」を目指そう、イスラームに復讐しようと説くサーヴァルカル ── イギリス人の暗殺を企てた罪で、アンダマン・ニコバル諸島の刑務所に入れられたが、恩赦で戻ってきたヒンドゥー右翼の英雄 ── の周りに、こうした青年たちの幾人かが集まっていたのである。この問題については終章で再び論じることになるだろう。

    ガンディーは一九三四年末の会議派年次大会で市民不服従運動の終了を提案し、それ以後は彼一人でサッティヤーグラハを行うと約束した。自分は会議派を去り、以後の政治は若い人々に委ねようとしたのである。しかし、ガンディー自身がどう考えようが、当時の政界で誰よりも有名で、誰よりも影響力を持ち、誰よりも信頼されていたのはガンディーだった。その評判の基礎には、ガンディーの抜きんでた構想力、組織力、実行力があったし、マハートマとしてのカリスマがあった。彼ほど人を呼び、寄附を集められる指導者はいなかった。彼に思い止まるよう訴える人々も大勢いた。

    だが、外的な問題以上に、彼に内在する問題があった。ガンディーの中には、エリート政治の世界にはおさまらない自分がいたのである。土を耕す素朴な人々を深く尊敬し、好奇心をもって彼らに学ぶモーハンダースの自分がいた。彼は、国王や首相や総督よりも、「誰々の妻」とか「誰々の娘」としか呼ばれない、村の女性から糸の紡ぎ方を教えてもらうことに、心からの喜びを感じる人だったからである。

    ガンディーは、「インドは一つ」であり、帝国の撤退後、住民が国の形を選ぶべきだということを繰り返し説いた。この考えには、独立後、イスラームはマイノリティに転落してしまうと主張するムスリム連盟だけでなく、会議派の指導者たちの多くも賛成していなかった。もしも分断が避けられないならば、イギリスの下で将来の国家の形を決めたほうが、内乱を回避できると考えたからである。こうして味方からも敵方からも、頑固な理想主義者のように扱われたガンディーは、失意の中、会議の半ばで退席し、アーシュラムへの帰路についた。

    祖父の希望を叶えようと努めた若いマヌーも、周囲の雰囲気を察して、ヨガを始めた一か月後の一九四七年一月初め、祖父に対して修行の停止を嘆願した。ガンディーは「怖がらないでいいよ」と慰めたが、マヌーの気持ちを汲んで止めることにした。ガンディーの孫であり、作家として知られるラージモーハン・ガンディーは、マハートマについての二冊目の伝記の中でこう書いている。「 非暴力 が完全に成就すれば、周囲の敵意や悪の諸力を完全に流し去ることができる」と信じ、「自己を完璧に空にできれば、そこに神の力が入り込み、コミュナルな暴力に打ち勝つことができる」はずだ ──。祖父はそう望んで、厳しい犠牲を神に捧げようとしたのだ、と。

    インド国家の正史を伝えるような歴史書やガンディー伝においては、この「ブラーフマチャーリヤ」の実験はほとんど言及されてこなかった。常識的にはマハートマらしくない行為だと考えられ拒絶されてきたのだろう。一部の文筆家が指摘してきたように、ガンディーには性的倒錯の兆候があったのだろうか。あるいは、高齢ゆえにこのような逸脱行為に走ったのか。だが、当時のガンディーの手紙や発言を辿るかぎり、精神に異常をきたしたとは思えない。政策をめぐる論議についても、ネルーやパテールよりも鋭い分析力を発揮している。いつも通りの冷静で穏やかで、辛抱強く賢いマハートマであった。そうだとすれば、性的な禁欲のヨガを実行すれば宗教暴動が抑えられるなどと、ガンディーはどうして考えたのだろうか。

    実際、暴動について、「問題解決の鍵はどこかにあるはずだ」という言葉を、ガンディーは繰り返していた。彼は、解決できないほど深刻な危機を前にすると、心身ともに不思議と強靱になり、驚異的な問題解決能力を発揮する人であった。人々はそれを「奇跡」と呼んだのである。そして、彼の「奇跡」は、人並み外れた集中力で問題解決の鍵を探す、天才的な努力によってもたらされたものだった。残念ながら、ノアカリでの「ブラーフマチャーリヤ」は不完全かつ不本意な形で終了したが、こうした非常手段に頼ってでも 非暴力 の「奇跡」をもたらしたいと、ガンディーは考えていたのだろう。ただし、マヌーや周囲の人々にとっては、聖人の行動の意味を汲み尽くせないまま、深い痛手を負った経験であった。

    両国を分割する国境線は、独立の二日後、八月一七日になって公表された。それまで現地を訪れたこともない、イギリス人官僚のラドクリフが国境委員会を託され、人口調査を基礎に線引きを行ったのである。会議派もムスリム連盟も異論を唱えなかった。「住民の多数がムスリムかムスリムでないかを基準に隣接している地域を確定し、それをもとに国境線を区切る」という原則により、古い寺院があるとか橋が両岸を結んでいるといった固有の要素はほとんど考慮されず、機械的に分断された。このような行為を、ガンディーは「生体解剖」と呼んだ。

    ガンディーに銃弾を撃ち込んだのは、ナトゥーラーム・ゴードセーという人物であった。暗殺後、訴追された法廷で被告席に座っている被告たちの中に、彼の顔も写っている。暗殺計画を立てた仲間とともに裁かれたが、ゴードセーはまじめで 癇 の強そうな、それでいて繊細な顔立ちの三十代後半の男性であった。人前で話すのは苦手で、とくに英語は使えないとされていた彼が、一世一代の法廷という舞台で、説得力のある答弁を披露したとき、彼を以前から知る人は大変に驚いたという。彼は暗殺を行ったことを明確に認め、命乞いは一切しないと誓い、ガンディーさえいなくなればインドは誤った非暴力思想から自由になり、軍事力でパキスタンに報復し、国民を守って正義を実現できる、と主張した。

    彼の父は郵便局員、母は敬虔なヒンドゥー教徒、子沢山の一家は貧しかった。兄三人は次々と夭折したため、両親は風習に従ってゴードセーを女の子として育てた。女の子の服を着て、女の子のように鼻輪(ナトゥー)をした。そのため、もともとのラームチャンドラという名前に変えて、ナトゥーラーム(鼻輪のラーム)と呼ばれるようになった。こうした育てられ方が影響したのかどうかはわからないが、ゴードセーは女性に触られることを嫌悪し、生涯独身で暮らしたという。師と仰いだヒンドゥー右翼のテロリスト、サーヴァルカルとの同性愛的な関係も取りざたされてきたが、確かな証拠はない。

     先に述べたように、ゴードセーとガンディーには共通した部分もあったが、決定的な違いがある。ゴードセーは人間嫌いで人々と触れ合うことが苦手な孤独な人だった。彼の師にあたるサーヴァルカルも孤高の暮らしをし、要塞のような堅牢な建物に住んで、ごく限られた人にしか会わなかった。彼らは頭の中で敵と味方の観念的なドラマを描いた。憎むべき「イスラーム」は悪を体現した存在であり、ガンディーは彼ら「イスラーム」を助け、ヒンドゥーを裏切る悪の支配者だという筋書きを書いた。だから「イスラーム」もガンディーも殺すべきだと考え、無法な暴力の行使を自己正当化したのである。

    また、先達の研究なくして、本書はありえませんでした。先輩や同僚の皆様に、心からのお礼を申し上げます。とくに、山崎利男先生、中里成章先生、中溝和弥さん、永野和茂さん、アチン・ヴァナイクさん、パメラ・フィルポーズさん、ウルヴァシ・ブタリアさん、深く感謝します。立教大学の先生方と職員の皆様、研究室で補助してくださった今村真紀さんと影山純子さん、講義やゼミで一緒に考えてくれた学生の方々、本当にありがとうございました。





    ナトラム・ヴィナヤック・ゴドセ
    (Nathuram Vinayak Godse、1910年5月19日 - 1949年11月15日)は、1948年1月30日にニューデリーでマハトマ・ガンディーを暗殺した、ヒンドゥー・ナショナリズムを信奉する右翼の活動家。ゴドセは、至近距離から、ガンディーの胸部に3発の銃弾を撃ち込んだ[1]。ゴドセは、右翼のヒンドゥー・ナショナリズム結社である 民族義勇団の元メンバーで[2]、インド・パキスタン分離独立の過程で、ガンディーがインドのムスリムたちの政治的要求を支持していると考えていた。

    1949年11月8日にゴドセに死刑判決が下されると、ガンディーの息子たちから減刑を求める嘆願が出されたが、これは却下された[3]。ゴドセは、1949年11月15日に絞首刑となった[4]。

    生い立ち
    ナトラム・ヴィナヤック・ゴドセは、マラーター・チットパーワン(英語版)のバラモンの一家に生まれた[5]。父ヴィナヤック・ヴァマンラオ・ゴドセ (Vinayak Vamanrao Godse) は郵便局員で、母はラクシュミ (Lakshmi)、旧姓ゴダヴァリ (Godavari) といった。生まれた時には、ラマチャンドラ (Ramachandra) と名付けられた[6]。 ナトラムにこの名が与えられたのは、不運な事情のためであった。彼が生まれる前、両親には既に息子3人と娘1人をもうけていたが、男の子たちはいずれも夭折していた。男の子を狙った呪いがかけられているのではないかと恐れた両親は、幼いラマチャンドラを、生まれてから数年間、女の子として育て、鼻にピアスを施し、マラーティー語で「ナト (Nath)」と呼ばれる鼻輪を付けていた。このため彼は「ナトをつけたラマチャンドラ」という意味で「ナトラム」と呼ばれるようになった。やがて弟が生まれると、両親は彼を男の子として扱うようになった[7]。

    学校で学んでいた頃のゴドセは、ガンディーを大いに尊敬していた[8]。


    マハトマ・ガンディーの暗殺に関わったとして告発された面々の集合写真。
    (後列左から、シャンカール・キスタイヤ(英語版)、ゴパル・ゴドセ、マダン・ラル・パーワ(英語版)、ディガムバール・バッジ(英語版)、前節左から、ナラヤン・アプテ(英語版)、ヴィナヤック・サーヴァルカル(英語版)、ナトラム・ゴドセ、ヴィシュヌ・カルカレ(英語版))
    政治活動と信条
    ゴドセは高校を中退し、ヒンドゥー・ナショナリズムを信奉する組織である民族義勇団 (RSS) と、時期ははっきりとしていないがヒンドゥー大連盟(英語版)にも加入して、活動家となった[9][10]。

    ゴドセは、ヒンドゥー大連盟の新聞として、マラーティー語の『Agrani』を創刊し、同紙は数年後に『Hindu Rashtra』と紙名を改称した。ゴドセは、ガンディーの哲学を拒み、ガンディーは様々な問題に関して「死に至る断食 (fasting unto death)」を用いることでヒンドゥー教徒の利益を何度も損なってきたと考えるようになっていた。ゴドセには反国民的と思われた様々な(ヒンドゥー教徒以外の)利益にガンディーは屈してきたのだ、と彼は考えていた[11]。

    民族義勇団 (RSS) のメンバーとして
    ゴドセは、1932年にサーングリー(マハーラーシュトラ州)で、「boudhik karyawah」(「基礎作業員」の意)として民族義勇団に加入し、並行して同じく右翼団体であるヒンドゥー大連盟のメンバーとしても活動した。ゴドセは自分の考えを広めるために、しばしば新聞に記事を書いた。当時、ゴドセとM・S・ゴールワルカール(英語版)(RSS総裁 Sarsangchalak)はしばしば共同作業をしており、ババラオ・サーヴァルカル(英語版)の著作『Rashtra Mimansa』の英訳もおこなった。1940年代はじめ、ゴドセは、自らが主宰する組織として「Hindu Rashtra dal」を準備し[12]、1942年のダシャラー祭(英語版)の日にこれを立ち上げたが、その後しばらくはRSSとヒンドゥー大連盟のメンバーに留まった[2]。

    1946年、インド・パキスタン分離独立問題についての見解の相違から、ゴドセはRSSとヒンドゥー大連盟を離れた。他のRSSのメンバーの多くとの関係は悪化し、ゴドセはRSSが立場を軟化させていると感じた[13][14]。

    ガンディー暗殺
    詳細は「:en:Assassination of Mahatma Gandhi」を参照
    ゴドセは、ナラヤン・アプテ(英語版)ほか6人とともに暗殺計画を練っていた。

    1948年1月30日、夕べの祈りの最中だった17時17分、ゴドセはガンディーに近づいた。ゴドセがお辞儀をすると、ガンディーに付き添って介助していた若い女性が「お兄さん、お父さん(=ガンディー)はもう遅れています (Brother, Bapu is already late)」と言ってゴドセを離そうとしたが、彼は彼女を押し退け、ガンディーの胸部を至近距離から3度、半自動式拳銃ベレッタM1934で撃った。当時デリーのアメリカ合衆国大使館に副領事 (vice-consul) として勤務していた若きハーバート・レイナー・ジュニア(英語版)は、真っ先に前に進み出てゴドセの両肩を掴み、ゴドセを振り回して居合わせた軍人たちに捕らえさせ、軍人たちはゴドセを武装解除した[15][16]。レイナーは、軍と警察がゴドセを連行するまで、ゴドセの首と肩を掴んで離さなかった[17][18]。ガンディーは、ビルラ・ハウス(英語版)の自室に運ばれたが、程なくして死去した[19]。

    裁判と処刑
    ゴドセは、シムラーのピーターホフ(英語版)に入っていたパンジャブ高等裁判所 (Punjab High Court) で裁判を受けた。1年以上の裁判の結果、1949年11月8日に死刑判決が下された。ガンディーの二人の息子たち、マニラル・ガンディー(英語版)とラムダス・ガンディー(英語版)から減刑を求める嘆願が出されたが、インドの首相ジャワハルラール・ネルー、副首相ヴァッラブバーイー・パテール、インド連邦総督チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリーは、これを却下した[3]。ゴドセは、アムバラ中央刑務所 (Ambala Central Jail) で、1949年11月15日に絞首刑となった[4]。39歳であった。

    その後
    何百万人ものインド人たちが、ガンディーの暗殺を悲しんだ。ヒンドゥー大連盟は非難され、民族義勇団は一時的に禁止された。しかし、捜査の結果、ゴドセの企てを民族義勇団の組織が正式に支援していたことはもちろん、知っていたことにも証拠が出てこなかった。RSSへの禁止措置は、1949年に解かれた。

    その後もRSSは、ゴドセとの関係を否定しており、かつて彼がメンバーであったということにも疑義があるとしている[10]。ゴドセの弟ゴパル・ゴドセ(英語版)は、暗殺の当時ゴドセ家の兄弟は全員がRSSのメンバーだったと主張している[20]。ゴドセの甥であるサティヤキ・サーヴァルカル (Satyaki Savarkar) は、ゴドセが1946年にヒンドゥー大連盟の職から降りていたと述べ、彼はRSSには批判的で、RSSとの結びつきに不満を持っていたものの、正式な脱退の手続きはとっていなかったとしている[2]。

    復権への動き
    2014年、インド人民党が政権に就くと、ヒンドゥー大連盟はゴドセの復権を試み、彼を愛国者として讃えるようになった。ヒンドゥー大連盟はナレンドラ・モディ首相に、ゴドセの胸像を設置するよう求めた。2015年1月30日、ドキュメンタリー映画『Desh Bhakt Nathuram Godse』(「愛国者ナトラム・ゴドセ」の意)が、ガンディー暗殺の日にあわせて公開された[21]。ゴドセを祀る寺院を建設し、1月30日を「Shaurya Diwas」(「勇気の日」の意)としようとする試みも何度かあった[22]。プネーの裁判所には、このドキュメンタリー映画の上映を禁じる措置を求める民事訴訟が起こされた[23]。

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    2024年01月17日
  • ガンディー 平和を紡ぐ人

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    この本を読めば、ガンディーが生まれてから、暗殺によりこの世を去るまでの生き方が分かる。
    サッティーヤグラハ(非暴力運動により独立を目指す運動)に生涯をかけたことが分かった。

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    2020年03月03日
  • 世界はなぜ仲良くできないの? : 暴力の連鎖を解くために

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    戦争、紛争がなぜ起きるのか。平和な状態をと同じように暴力が起きている状態を6つのネットワークという考え方で整理してみる。一つ一つの要因を正のほうにむけることができれば力ではなく、助けあいに持っていけるのではないか。現実は直視しつつ希望を持たせてくれる。

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    2014年10月12日
  • 世界はなぜ仲良くできないの? : 暴力の連鎖を解くために

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    今まで社会嫌いだった私が、世界情勢と平和に興味を持って
    初めてこんな本を読んでみました。

    初めてがこの本でよかった!暴力の起こる構造がとてもよく分かりました。
    暴力の6つの要素、信念・人・武器・資金・情報・ネットワーク
    どこか断ち切れば、暴力はなくなる…

    イスラエルとパレスチナの紛争の年表で、世界史で覚えたこともたくさん書いてあって
    あの時の勉強では、ただ名前を覚えていただけ。中身までちゃんと勉強しておけばよかった…

    「安全で豊かな世界」である市民社会で生きている私たち
    「危険で貧しい世界」である非市民社会で起こっている紛争
    関わり合いがないように思えるけど、実は暴力の連鎖でつながっているんだということが分かりました。
    日本だってイラクに自衛隊を派遣しているわけだし。

    暴力で暴力を制するのは難しい。
    たとえに、「間違ったことをしたと分かっていても、殴られると仕返ししたくなる」というのがあって、なるほどと思いました。

    私たちの中に、非暴力で平和を作る力があるって言うのは、なんか実感がないけど
    同じ考えの人とネットでつながることができる現代は、そういう活動がやりやすくなってるんじゃないかと思う。

    暴力の連鎖を止めるためには、安心して暮らせる未来に思いを向けなければいけない。
    心が動かされました。

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    2009年10月04日
  • ガンディーのことばと人生 心を強くする! ビジュアル伝記12

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    #ガンディーのことばと人生
    #竹中千春 監修
    #ポプラ社

    ガンディーもバガヴァッドギーターを学んだと言う。非暴力非服従はあまりにも有名。
    最近DVDでガンディーの映画を見たこともあったので知識がつながった。
    どんな宗教も最終的に目指すところは同じであると考え、共生を目指すガンディー。
    民衆の言葉を聞き、質素な布だけを身にまとうその姿がその人気の理由だろう。
    もう少し関連書籍を読みたくなった。

    #Gandhi's Words and Life
    #Supervised by Chiharu Takenaka
    #Poplar Publishing

    Gandhi is said to have studied the Bhagavad Gita. His teachings on nonviolence and non-submission are well-known.
    I recently watched a film about Gandhi on DVD, so this connection was clear.
    Gandhi believed that all religions ultimately have the same goal, and sought coexistence.
    His popularity is likely due to his dedication to listening to the people and wearing only simple clothing.
    It makes me want to read more related books.

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    2025年10月24日
  • ガンディー 平和を紡ぐ人

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    ガンディーのことをあまり知らなかったので、サッティーヤーグラハやバガパッドギーターという言葉がわかって勉強になった。

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    2023年03月02日
  • ガンディー 平和を紡ぐ人

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    インド独立の父として、言葉だけじゃなくて行動を持って民衆を導く姿が素晴らしいと感じた。

    ただ、この本の良いところは、そんなガンディーの偉大な一面だけでなく、ガンディーの偉大な功績の影にある負の部分(特にガンディーの家族)にも触れてあるところにあると思う。

    どんな事にも良い面、悪い面があり、そのどちらもきちんと記されてあるこの本はガンディーを知る取っ掛かりとして素晴らしい本ではないか。

    この後は、ガンディー自身の著書も読んでみたい。

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    2022年02月13日
  • ガンディー 平和を紡ぐ人

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    温かみのある筆致で人間ガンディーを描く。そうガンディーは、ダメ人間でもあった。だからこそ、共感できるビジョンを築けたのではないか。劣等感を抱えつつ、酷い仕打ちにも遭い、ダラしなさも抱えていたからこそ。
    100分de名著のガンディーと合わせて読むと更にガンディーが立体的に見えてくる。

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    2020年04月08日
  • 世界はなぜ仲良くできないの? : 暴力の連鎖を解くために

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    なんとなく手に取った本だったが、想像以上によい本だった。
    語り方が優しく、高校生ぐらいにも読みやすいと思う。
    (一部の事例はもう少し簡略化してもいい気はしたが)

    紛争に対するネガティブなステレオタイプ、思い込み、謝った情報を論理的に整理してくれる有り難い本。
    細かい例が中東、インドが多かった印象なので、それ以外もあればよかったかも。

    実際に読み終わった人に、じゃあ自分に何が出来るのか、という部分は、もう少し具体的な話があっていいとは思った。そこが弱いと、結局自分も関係はあるけど、無力感を感じてしまう流れを生んでしまう気がする。

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    2013年10月26日
  • 世界はなぜ仲良くできないの? : 暴力の連鎖を解くために

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    これは良い本。
    もう少し漢字にルビがふってあったら、好奇心旺盛な小学生でも読めちゃう!
    世界情勢の解説が途中長いけど、授業を受けてる様で、現社オンチの私でも、ついていく事が出来た。

    でも、なんと言っても最終章!!
    そこだけ読んでも価値があるって程、いい事が沢山書いてあった。

    「わからないので、ちょっと待ってください。」
    その一言を言う勇気と責任。
    その大切さを、痛いほど感じられた。

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    2012年05月04日
  • ガンディー 平和を紡ぐ人

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    行動力と、絶対に屈しない辛抱強さにただただ感服。
    あんまりアジア史系の本は読んでいなかったから、当時のアジア情勢なども知れて勉強になった。

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    2020年10月10日
  • ガンディー 平和を紡ぐ人

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    インドを知るためにはやはりガンディーの理解が必要。
    本著にて彼の生涯の概要を理解することができた。
    恥ずかしながら、非暴力運動としてのガンディー程度の理解だったので、多くの事実を得ることができた。
    彼は、当初、南アフリカで活動していたこと、インド人がアメリカにおける黒人のような処遇でイギリス植民地で働かせられていたことなど等々。
    また、ガンジーの非暴力がイスラム教徒に対する宥和策として捉えられ批判も少なくなかったことも新たな理解であった。
    結果としてパキスタンの分離がされた事実からも、後年、ガンディーの政治的な影響力は弱まり、どちらかというと象徴的な存在になってしまったのだろうか。
    ただ、人を惹きつけるカリスマ性に優れていたことは、本著からもよく分かるのだが、その人柄、社会への影響力については、他複数の本も読んでみないと十分に理解できないのかもしれない。

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    2018年11月10日
  • ガンディー 平和を紡ぐ人

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    インドで非暴力の平和を説いた白い布をまとった人くらいの知識しかなかったので、改めて知ろうと読んでみる。

    弁護士になるが、その後イギリスの植民地であったインド人の待遇改善を求め、権力に非暴力(民衆を巻き込んでデモをして世論を動かす)で立ち向かうガンディー。志の高さ、エネルギー、確かにあの時代に歴史を動かした人物なのだなということが、わかる。

    【学】
    1930年 インド・ナショナリズム 塩の進行
    ガンディー流の交渉術には、法廷で戦う弁護士の姿を垣間見る事ができる

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    2018年03月20日
  • 世界はなぜ仲良くできないの? : 暴力の連鎖を解くために

    Posted by ブクログ

    大学の先生の本。アジア政治論の教科書でした。主にインドのお話だったなあ。優しい先生だったなあ。すごく真面目で嘘のない人だと感じたので、授業も素直に聴けました。

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    2014年03月26日