ガンディー暗殺
詳細は「:en:Assassination of Mahatma Gandhi」を参照
ゴドセは、ナラヤン・アプテ(英語版)ほか6人とともに暗殺計画を練っていた。
1948年1月30日、夕べの祈りの最中だった17時17分、ゴドセはガンディーに近づいた。ゴドセがお辞儀をすると、ガンディーに付き添って介助していた若い女性が「お兄さん、お父さん(=ガンディー)はもう遅れています (Brother, Bapu is already late)」と言ってゴドセを離そうとしたが、彼は彼女を押し退け、ガンディーの胸部を至近距離から3度、半自動式拳銃ベレッタM1934で撃った。当時デリーのアメリカ合衆国大使館に副領事 (vice-consul) として勤務していた若きハーバート・レイナー・ジュニア(英語版)は、真っ先に前に進み出てゴドセの両肩を掴み、ゴドセを振り回して居合わせた軍人たちに捕らえさせ、軍人たちはゴドセを武装解除した[15][16]。レイナーは、軍と警察がゴドセを連行するまで、ゴドセの首と肩を掴んで離さなかった[17][18]。ガンディーは、ビルラ・ハウス(英語版)の自室に運ばれたが、程なくして死去した[19]。
裁判と処刑
ゴドセは、シムラーのピーターホフ(英語版)に入っていたパンジャブ高等裁判所 (Punjab High Court) で裁判を受けた。1年以上の裁判の結果、1949年11月8日に死刑判決が下された。ガンディーの二人の息子たち、マニラル・ガンディー(英語版)とラムダス・ガンディー(英語版)から減刑を求める嘆願が出されたが、インドの首相ジャワハルラール・ネルー、副首相ヴァッラブバーイー・パテール、インド連邦総督チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリーは、これを却下した[3]。ゴドセは、アムバラ中央刑務所 (Ambala Central Jail) で、1949年11月15日に絞首刑となった[4]。39歳であった。