倉骨彰のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ下巻読み終わりました。
個人的には、下巻の方が上巻より面白かった。
危険な事への対応と宗教や健康について、小規模社会と現代の西洋社会の違いについて説明しています。
面白かったのは危険に対する建設的パラノイアと健康について。
建設的パラノイアとは、ニューギニア人が、さほど危険では無い事について、被害妄想なくらいに心配するという行動から付けた作者の造語です。
作者がニューギニア人と森に出かけ、野宿をするとき、大木の下で寝ようかと持ちかけたところ、木が倒れて死ぬかもしれないので、絶対に嫌だ、と断られたという。ニューギニア人は一年に100日、40年で4000日くらい野営をする。たとえ、1000回に1回しか起こらない事でも、彼らの生活からすると10年以内に死んでしまう確率になってしまう。なので、細心の注意を払うことは理にかなっている、ということだ。
普段、私たちはスピードを出している車のすぐ脇を歩いていたりする。でも、さほど危険を感じていないことが多い。このケースでの事故の確率が10000分の1でも、一生で10000回くらい車の脇を通ることがあれば、1回は事故になる計算になる。であれば、そうした状況では細心の注意を払うことが理にかなっているのだ。
もう一つ、印象に残ったのは健康に対すること。西洋化する前のニューギニアの人たちは現代病として悪名高い高血圧や糖尿病の人が極端に少なかったのだ。当時のニューギニア人は現代の西洋社会での生活とは異なり、塩分も糖分も少ししか摂取していなく、朝から晩まで生活のために身体を動かす生活をしていた。私たちの身体は現代においても、このような暮らしに適したつくりになっているようだ。だから、急激に西洋化した発展途上国であった国の人々(インドとか)が、現代病に罹る割合はひどく大きくなっているらしい。
これは、衝撃的でした。そういうことか、と妙に納得しました。全部が全部、本当の事なのかは分からないので、鵜呑みにしてはいけないのかもしれませんが。
生活を改めるきっかけとなりました。 -
Posted by ブクログ
なかなか壮絶な内容。
まず、人類の知能を圧倒的に上回る汎用知能である「スーパーインテリジェンス」は、様々なハードルはあるもののいずれ達成されることがほぼ確実であることについての詳細説明があり、これがものすごく面白かった。
達成の手段として、著者は、人工知能の自己学習プログラム及びハードウェアの発展による(いくつかの技術的ブレークスルーが必要)マシンインテリジェンスの実現(どのように汎用知性を手に入れるかに関して現時点で保証できる確実なボーダーラインである「生物進化のシステム上での再現」は計算能力の観点で完全な実現は不可能であるが、例えば脳神経科学の発展に伴う技術的革命や発見によってこれよりショートカットの手法が見つかることは十分に考えられる)や、人間の頭脳を物理的に解析して再現構築する全能エミュレーション(解析技術や構築技術の著しい発展により達成可能で、技術的ブレークスルーは不要)、生身の生体脳の強化(エンハンス。優生遺伝やゲノム操作等により実現可能だが、超絶知能とまではいかない)、人間の脳とコンピュータの接続による強化(結局脳の構造や情報処理のしくみが解明されなければならず、これができるなら人工知能アプローチによるマシンインテリジェンスも達成可能か)、集合知によるスーパーインテリジェンスの達成(広義での緩やかな達成のイメージ)などが挙げられており、これらが並行して進捗すれば、あるプロジェクトの成果や発見が他のプロジェクトの前進を促す効果も考えられ、いずれほぼ確実に少なくともいずれかの方法で達成されると予測していた。
そして、人類と同等の汎用人工知能が達成されると、瞬時にスーパーインテリジェンスが達成される可能性が高いことにも同感。そうなってから超知能のコントロール方法を考えても時すでに遅しで、今のうちから研究し、準備しておかなくてはならないと警鐘を鳴らしていることにも同感。
だが、コントロール問題は一筋縄ではいかない。超知能の最終目標の設定に関して、まず人間が自らの意図を自らが理解でき納得できる形で定義できるか、できたとしてそれを超知能が誤解や曲解をする恐れのない形で表現できるか といった、哲学的な難問である。そもそも、今後知能が向上していくかも知れない人類のうち、超知能を開発する時期という特定世代の人類の持つ価値を絶対的指標とするのか といったことも考慮せねばならない。(歴史をみれば、例えば数百年前の人類の至上と考える価値と現代の人類の価値は異なる)
ひとたび超知能が走り出せば、一見無害に思える最終価値の設定をしていても、超知能がその結果の達成のみを最重要視する過程で、世界を破滅に追いやることが考えられるのであり、例えば、ある砂浜の砂の数を数えることを至上命題とする超知能は、数え間違いの恐れを極小化するために自らの計算機構の能力の最大化を図り宇宙全体を自らの計算素子に作り替えるかも知れないのである。
これは、本書を読んで気づかされた恐ろしい観点だった。著者は、目標設定は非常な難問であり、まだ解は出ないが、例えば、超知能に人間の意図するところを探求させ、十分に間違いないという確信が得られるまでは特定目的のために現実世界に多大な影響を及ぼす行動に出ないように保守的な設定を施しておくような手段が有効ではないかと提言してくれている。
スーパーインテリジェンスのコントロール問題は、人類史上最も重要で最も困難な問題であり、今のところ、超知能の達成に向けて無邪気に進んでいる人類は、まるで、爆弾で遊んでいる幼児のようなものだということだった。 -
Posted by ブクログ
今まで読んだダイアモンドの作品とは一線を画している様な気がする。
この作者がずっと研究してきた伝統的社会との比較を通じて、現代社会への問題提起をしている。
どれが正しいとか間違っているとかの判断を下そうというものではなく、哲学的な色が強いかな。
恐らく晩年に達している作者は、自分の研究から得た考えを集大成的する意味合いで作ったと思う。それだけに作者の強い思いが伝わってくる。
自分と他者とを区別する境界線から始まって、「平和と戦争」・「子育てと高齢者」についての考察が上巻の内容。
作者のいうところの工業化社会に属している自分にとって、全く別の価値観(伝統的社会の価値観)を提示することで、自分たちの考えを俯瞰して冷静に見ることができる。
こういう風に自分の価値観をひっくり返す作業は、頭を柔らかくするには一番な気がする。
個人的に面白かったのは終盤の高齢者の位置づけと価値の話。
特に高齢化社会が今後も進んでいく日本としては、作者が提示する高齢者の価値(子育て・経験の共有・高齢だからこそできる仕事)は暗い問題に対する希望になり得るんじゃないだろうか。
下巻への期待も込めて星四つで。 -
Posted by ブクログ
著者はシンギュラリティがいつかは到来するという考えを持っている。マシン・インテリジェンスが人間の知能を越えるのを前提に、人類は何を用意しないといけないのか、AIのコントロール方法などを考察する。ページ数が多く、とても読みやすいとは言えないが、最低限AI技術者は本書を読むべきだろう。AIは人類を滅ぼしかねない危険な存在にもなりえる。そうならないようにする方法を考察するのだが、そこは人類とAIの知恵比べにもなりかねず、悲観的な未来しか私には見えなかった。核兵器と同程度の危険性をAIが持ってしまうのではないかと、本書を読むとそんな心配までしてしまう。論文のような書籍であるが、AIに興味を持っている人は読んでおいたほうが良い。明るい未来しか語らない本よりも、よっぽど役に立つと思う。
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Posted by ブクログ
下巻は 宗教・言語・健康
全部の卵を1つのカゴには入れてはならないというリスク回避の教訓
宗教学における機能主義的アプローチ
宗教はある種の役割を担い、社会秩序を維持し、人々の不安を慰め、政治的服従を教える
旧約聖書4分着
善なる全知全能の神が存在するのであれば、なぜこの世に悪が起きるのか?
超自然的な信念は、事実上すべての宗教に存在する
他人にとっては信じがたい宗教的迷信を、時間や資源を投じて信じることが、どの宗教にも見られる特徴である
人に癒しや希望を与えて、人生の意味について語る
人は不幸な目に合えば会うほど、より信心深くなる。止める人々よりも貧しい人々が、止める地域よりも貧しい地域の方か、止める効果よりも貧しい国家の方が宗教が盛んである。
宗教には、自宗の真実性のみを主張し、他宗はでたらめだとするものが多い。異教徒に対する殺害行こういや略奪行為は許されるものとされ、それを行うことが義務ともされていた。
愛国的な主張の暗部の正体
旧約聖書は、異教徒に対して残忍であれと言う説教に満ちている
人類史上最も大規模な虐殺は、植民地主義に走ったヨーロッパのキリスト教とか日ヨーロッパ人に対して行った侵略の時代である、キリスト教とは道徳的な正当化を行った。
言語を消滅させる方法、話者の殺害、使用を厳禁し厳罰に処する。 -
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興味深かったのは、ニューギニアで交通事故を起こした場合の調停の部分。
使用人として事故を起こした場合は会社が責を負い、すべて対応するのは当たり前ですが、報復殺人を避けるために代理人を置いてわずか5日程度で調停が終了する。代理人は被害者・加害者とは別の部族のものが行い、ほぼ1回の調停で賠償額(Sorry Money)を決め、報復殺人が行われないと確信した時点で被害者・加害者ともに葬式が行われた。もし個人で起こしてしまった場合には、加害者の村・親類縁者が賠償することになる。
このような状態になっているのは、現代社会において事故など発生しても当事者同士がかかわることはまずないが、ニューギニアでは反対に一生関係を持ち続ける可能性があるからだ。
マオリ族の遠隔地戦争を支えたのが、従来栽培されてきたサツマイモではなくて、ヨーロッパからもたらされたジャガイモで、それは生産性が高かったから。
マオリ族の一部の部族がマスケット銃を得て、ほかの部族を滅ぼしていったが、ほかの部族にもマスケット中が行き渡った結果、武力紛争は終結した。現代もあまり変わらない。 -
Posted by ブクログ
ジャレド・ダイアモンド「昨日までの世界(原題:The World until Yesterday~What can we learn from Traditional Societies?)」の上巻を、やっと、本当にやっと読み終わる。
この人の本は、「銃・病原菌・鉄」、「文明崩壊-滅亡と存続の命運を分けるもの」に続く三回目、それぞれ上下巻二冊で、どれも、もぉぉ~本当に分厚くて長い。小さい活字で頁にびっしりというのが定番だ。なぜこんなに長いのか? それは彼が実際に見聞きした事実を隠さずに克明に書こうとしているからだ、ということになるだろう。今回はインドネシアのニューギニア島でのフィールドワークで見聞し体験したことをベースとしたものだが、伝統的社会(要するに西洋文明に染まっていない現地人の社会)にどっぷりと浸かって調査するといういつものパターン。よくぞここまでするものだと感心させられるのだが、そんな中での具体的な見聞記だから、それは実に興味深く面白くないわけがない。ボリュームにうんざりしながらもつい読み進むというわけだ。
現地人の生活ぶりを様々な視点から分析してゆく中で、やはり切実なのが「高齢者への対応」。伝統的社会では、高齢者はどのような扱いを受けるのか。かつて日本でも姨捨山の例があったようだが、ニューギニア高地人でも事情は同じ、いやむしろ遥かに厳しいと云えるのかも知れない。要はただお荷物になってしまった老人はもはや生きる道がない。一方で、貴重な知識や技能をもつ、役に立つ老人のみが尊重されるという事実。ギリギリの食料事情の中では当然のことなのかも知れない。生きることを許されなくなった老人には、部族によって異なるものの、①完全に無視され食事は与えられず放置される、②移動の途中で置き去りにされる、③自殺を求められる、そして④我が子によって殺される(殺し方も衝撃的なものが多い)、というパターンに分かれるよう。それにしても現代の我々から見ると想像を絶する酷い扱いとしか云いようがない。しかし食物が十分ではない極限に近い状態で生活している人間にとっては、生き延びるためには止むを得ないことでもある。
文明社会に生きる我々は、今、世界に食料が絶対的に不足しているとは云えない(偏りはあるが)中で、何も役に立たずともこのような酷い扱いを受けることはありえない。社会保障制度の恩恵でもってそれなりには生きてゆけるわけだが、果たしてこれが永続できるのかという疑問。どういう形にせよ老人がどのように社会に貢献すべきか、ということがこれからの大きな課題になるのは必至だろうし、そしてまた究極の問題にはなるのだが、最近話題になりつつある安楽死というテーマも避けては通れないのに違いない。我が身の処しかたも含めて大きな課題というべきだろう。実に厳しいことだが。